子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 向嶋生活――「七草集」
向嶋生活――「七草集」
予備門の同級生に米山保三郎という人があった。大学院時代に亡くなって、夏目漱石氏をして「文科大學あつてより文科大學閉づるまでまたとあるまじき大怪物」と評せしめた人である。
[やぶちゃん注:以上の漱石の言葉は、米山が亡くなった十日後の明治三〇(一八九七)年六月八日に漱石が知人齋藤阿具に宛てた書簡(熊本発)手紙に記されたものである。岩波版旧全集で校合し、正字化した。
「文化大學あつてより文科大學閉づるまで」明治一九(一八八六)年三月二日に伊藤博文内閣(初代内閣総理大臣/第一次伊藤内閣)は「帝國大學令」を発して、「東京大學」を「帝國大學」へと改組し、文学部は法・医・工・文・理の五分科大学の一つとしての、「帝國大學文科大學」とした。漱石がこの痛恨の畏友の詩を慟哭した時にはまだ「文科大學」は続いていることに注意が必要。形の上での「文科大學」は三十三年余り続き、大正八(一九一九)年四月、原敬内閣によって「帝國大學文科大學」は「東京帝國大學文學部」と改称された。
「米山保三郎」あるQ&Aサイトの回答で、『北國新聞』『富山新聞』を情報とするとするものを示す。米山保三郎(明治二(一八六九)年~明治三〇(一八九七)年五月二十九日:死因は腸チフス)は金沢の旧本馬町(現在の野町二丁目)に生まれた。父は加賀藩の財政に携わった算用者であった。東京帝大で哲学を学び、大学院では空間論を研究したものの、二十九で夭折した、長生していれば西田幾多郎以上の哲学者になったかも知れないと評する方もいる。明治二十年代に、漱石・子規・保三郎は第一高等中学校(後の旧制第一高等学校)で机を並べ、当時、建築家を志していた漱石に対し、保三郎は「文学をやれ。文学なら勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作も出来るじゃないか」と説いたという。後に漱石はこの助言に深い感謝の念を示している。保三郎は名作「吾輩は猫である」にも「天然居士(こじ)」として登場。漱石が「またとあるまじき大怪物」と評した手紙も残り、漱石研究者の間では名が通っているという。子規も、数理・哲理に長じた保三郎との出逢いに「四度驚かされた」と回想しており、その衝撃は、子規が翌日の野球の試合に出場する元気を失わせるほどであったという。子規は哲学の道を諦め、国文科へ進んでいる。彼についてのネット記載は豊富にある。それらも参照されたい。個人ブログ「かわうそ亭」の「漱石の悼む大怪物」で漱石と並んで写る彼らしき人物が見られる。必見。]
『吾輩は猫である』の中に噂の出る天然居士は米山の事だといわれている。この人が明治十九年の秋、偶然居士の下宿を訪ねて来て、一夜哲学に関する話をした。居士は相手が自分のまだ知らぬ哲学書を読んでいるのに驚いたが、それ以上に驚かされたのは相手が自分より二歳も年少だということであった。その翌日菊池仙湖氏に逢ったら、「実に豪(えら)い男がわれわれの級にいるよ」といい、「将来哲学を専攻するそうだが、あんな男がいてほとても競争は出来ない」と歎じたそうである。居士が国文を志望するようになったのは、勿論これが唯一の動機ではあるまいが、漠然たる哲学者志望に或動揺を与えたことは事実であろうと思う。
[やぶちゃん注:「吾輩は猫である」の「三」にかなりの分量を割いて、「天然居士」について語られている(「青空文庫」のこちらで確認されたい)。岩波旧全集の古川久編の「天然居士」の注解に『漱石の親友米山保三郎が円覚寺官長の今北洪川から貰った居士号』とあるから、「いわれている」ではなく、確定である。
「相手が自分より二歳も年少」子規は慶応三(一八六七)年生まれ。]
学校における居士は決して勤勉な学生ではなかった。業余の時間は雑書の雑読や寄席行(よせゆき)に費されたのみならず、ベースボールの練習に費された。この新しい競技は当時の居士の興味を刺激したものと見えて、後年一橋外の高等中学寄宿舎――大学予備門は明治十九年に高等中学校と改称された――にいた頃のことを回想して、「バット一本球一個を生命の如くに思ひ居りし時なり」といっている。居士が『松蘿玉液』の中に記したベースボールの事は、野球文献の一としてしばしば引合に出されるが、実際球を弄んだ上からいっても、居士は日本野球史の早いところに記さるべき一人であろう。
[やぶちゃん注:「バット一本球一個を生命の如くに思ひ居りし時なり」は「新年二十九度」(『日本人』十三号・明治二九(一八九六)年(一月か)発行)に出る言葉で、『明治二十一年は一橋外の高等中學寄宿舍の暖爐のほとりにて迎へぬ。此頃はベースボールにのみ耽りてバット一本球一個を生命の如くに思ひ居りし時なり」とある(和田浩一氏のレジュメと思しい「『菊とバット』2「Baseball」と「野球」の比較文化的スポーツ論――子規の「愉快なベースボール」』(PDF)にあるものを正字化して示した)。
「松蘿玉液」新聞『日本』に明治二九(一八九六)年四月二十一日から十二月三十一日まで連載した随筆。野球(「ベースボール」と表記)の記載は七月十九日の終りから始まって、続く二十三日及び二十七日まで連続して、挿絵入りで語られてある。]
明治二十一年の夏、居士は「無可有洲七草集(むかうしまななくさしゅう)」なるものを草した。自ら浄書して知友間を回覧せしめた程度のものであったが、居士が文学的述作に向う第一歩としては、この一巻を挙げなければならぬ。この夏季休暇中、居士は三並(みなみ)松友(良)、藤野古白(ふじのこはく)(潔)と三人で、向嶋森崎村、長命寺境内の月香楼に寓し、二人の相次いで去った後も、なおここに留って筆を執った。「七草集」とは秋の七草によって名づけたので、「蘭之巻」の漢文、「萩之巻」の漢詩、「女郎花(おみなえし)の巻」の和歌、「芒(すすき)のまき」の俳句、謡曲に擬した「蕣(あさがお)のまき」は滞留中に成ったが、向嶋辺の変遷を地名から研究しようとした「葛(くず)の巻」は二十一年末に漸く出来上った。向嶋を去る後に草した「刈萱(かるかや)のまき」は「七草集」に加えず、翌二十二年春に至って「瞿麦の巻」を草し、はじめて完きを得たのである。「瞿麦の巻」は在原業平、梅若丸など、墨田川に関する伝説中の人物を題材に採った小説風のものであるらしいが、最後の一駒を存するだけなので、全体の筋はよくわからない。要するに「七草集」の内容は居士のために重きをなすものでないにしても、その文学的感興がかなり多方面に動きかけていること、向嶋僑居(きょうきょ)を中心として題材を近きに求めていることなどが注目に催する。「蘭之巻」中にある
有風遠而徴 漸來吹庭樹
梧戰樅動 聞細波打岸
忽聞烏烏聲 敧耳漸近
至窗前 聲調嘹喨
乃知共漁歌
櫓聲咿軋如雁鳴
使人悄然
起而開窗 江月印流
前岸如烟
只見一燈浮波而去
風有り 遠くして微かに
漸(やうや)く來りて 庭樹に吹く
梧(あをぎり)は戰(おのの)き 樅(もみ)は動(ゆ)れ
細波(さざなみ)の岸を打つを聞く
忽ち聞く 烏烏(うう)の聲
耳を敧(そばだ)つれば 漸く近づく
窗前(さうぜん)に至り
聲調 嘹喨(れうりやう)たり
乃(すなは)ち其の漁歌なるを知る
櫓聲(ろせい) 咿軋(いあつ)して雁の鳴くがごとく
人をして悄然たらしむ
起(た)ちて窗(まど)を開くれば 江月は印(うつ)りて流れ
前岸(ぜんがん)は烟(けぶ)りのごとし
只だ一燈の波に浮かびて去るを見るのみ
という一節の如き、平々他奇なき文字ではあるが、極めて写生的で、その景、その人を想い浮べしむるものがある。
[やぶちゃん注:「無可有洲七草集」第一高等中学校に在学中だった明治二一(一八八八)年の夏季休業中、向島須崎村(現在の墨田区向島須崎町。この附近(グーグル・マップ・データ))の宝寿山長命寺門前の桜餅屋山本屋の二階に仮寓して前半をものした漢詩文集(筆者不詳の「正岡子規が隅田川向島墨堤から眺めた蒸気船?」(PDF)を参考にした。これには本書の概要が宵曲の以上よりも詳しく書かれており、必見)。宵曲の言う通り、子規はこれを友人たちに回覧して批評を求めたが、この時、漱石は漢文による批評の末尾に、「明治己丑五月念五日 辱知 漱石妄批」と記し、これが「漱石」の号を用いた初出とされる(これは「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」のこちらの記載に從った)。
「藤野古白」(明治四(一八七一)年~明治二八(一八九五)年)は俳人で作家。正岡子規の従弟。ウィキの「藤野古白」によれば、『本名、藤野潔。愛媛県、久万町に生まれた。母親の十重は子規の母、八重の妹で、古白は子規の』四歳年下。七『歳で母を失い』、九『歳で家族ととも東京に移った』。明治一六(一八八三)年に『子規が上京し、一年ほど子規は、古白の父、藤野漸の家に下宿した』、彼には生来、『神経症の症状があり』、明治二二(一八八九)年には『巣鴨病院に入院、退院後』、『松山で静養した』。この頃、『高浜虚子とも親しくなった』。明治二四(一八九一)年に『東京専門学校に入学し』、『文学を学んだ。初期には俳句に才能をみせたが、俳句を学ぶうち』、その価値を見限り、『小説、戯曲に転じ、戯曲「人柱築島由来」は』『早稲田文学』『に掲載されたが』、『世間の評価は得られなかった。戯曲発表の』一『ヶ月後に、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ。」の遺書を残してピストル自殺し』て果てた。『河東碧梧桐の『子規を語る』には「古白の死」の一章が設けられ、古白の自殺前後の周辺の事情が回想されている。古白はよく死を口にしたが、その前日まで変事を予想させるようなことはなかった。以前から古白は知人がピストルをもっているのを聞いていて撃ちたがっていたが』、『知人はそれを許さなかった。自殺の前日の夜、銃を盗みだし』、四月七日に『前頭部、後頭部を撃った。病院に運ばれ、治療をうけ』たが、四月十二に絶命した。『碧梧桐らが看護にあたったが』、『言葉をきける状態ではなかった。当時』、『子規は日清戦争の従軍記者として広島で出発を待っている時で』死に目に逢えていない。リンク先にある古白の句を掲げておく。
今朝見れば淋しかりし夜の間の一葉かな
東京といふ名に殘る暑さかな
南とも北ともいはず秋の風
「瞿麦」他の巻の名から推して「なでしこ」(秋の七草の「撫子」)と訓じていよう。
「僑居」仮住まい。寓居。
「咿軋」軋んで立つ音のこと。]
「女郎花の巻」の歌五十余首、「芒のまき」の俳句三十余句、共に後年の居士の作品と関連して考うべきものは見当らぬけれども、九十日に及ぶ向嶋生活の記念として、二、三を録して置くことにする。
夏日向嶋閑居
檐(のき)のほにうゑつらねたる樫の木の下枝(しづえ)をあらみ白帆行く見ゆ
五月雨(さみだれ)將(まさに)霽(はる)
さみだれの間なく時なくふる空のこのもかのもに光見えけり
○
秋の蚊や疊にそふて低く飛ぶ
我生れつき弱く殊に去年の春
いたくやみ煩ひしよりいつい
ゆべうもおもほえず、人生五
十といふそれさへ覺束なけれ
ばただけふも無事に過ぎたり
とて日每に喜びゐる身こそか
なしけれ
朝顏や日うらに殘る花一つ
この向嶋滞在中、佐々田採花という友人に誘われて、鎌倉に遊んだことがあった。「しらぬ海や山見ることのうれしければいづくともなく旅立にけり」と詠んで出発したのであったが、鎌倉に着いた翌日は朝からの大雨である。風雨を衝(つ)いて賴朝の墓から鎌倉宮に詣(まい)ろうとした途中、一塊の血を吐出すこと二度に及んだ。それまでも咽喉を痛めて血を出すことはないでもなかったが、この血は何かわからぬ。ただ二度血塊を吐いたきりで、雨に濡れながら方々歩き廻ったが、何の事もなかったと当時の随筆『筆まかせ』に出ている。この血塊は翌年の喀血とどういう関係を有するか、「七草集」を草した二十一年夏の出来事として、この一条は特に書添えて置く必要があるように思う。
[やぶちゃん注:「筆まか勢」第一編の「鎌倉行」(明治明治二一(一八八八)年筆)に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらから視認出来る。「佐々田採花」は同級生である以上は不詳。鎌倉がロケーションでもあり、短いので、視認して電子化しておく。踊り字「〱」は正字化した。「猶豫」は「猶予」(いうよ)。
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○鎌倉行
夏期休暇に佐々田氏と共に蒸気船にて浦賀に至り橫須賀に超え金澤より鎌倉につきぬ。其日ははやくれなんとすれぱ見物をやめて宿屋につき、翌朝起きて見れば大雨なり。されど猶豫すべきにあらねば一本の蝙蝠傘に二箇の頭をつきこみ、鶴岡を拜み後の山にまはり、賴朝の墓より鎌倉宮にまはらんとせし頃は暴風暴雨にて寒きことも冬の如くに感じけるが、余は忽ち一塊の鮮血を吐き出したり。佐々田氏驚きて如何したるやといひし故、如何にもあらず、余は度々咽喉をいためて血を出すこと多ければ大方その類ならんといふ内、再び一塊の血を吐きたりしが、それのみにてなんのこともなし。果して咽喉なりしか何處なりしか保證の限りにあらず。それより士牢をのぞき路を轉じて大佛を雨中に拜み七里ケ濱に出でし頃は、雨風ますますはげしく衣服は肩より裾まで絞るばかりにぬれたり。山にそひし細道をたどるに、海岸なれば風は遠慮なく正面より迎へ擊つ。十間許り橫には山の如き大波幾段となく重なりては攻め來り、一ツ倒れては又後のもの來り、さもすさまじく鳴りひゞきければ身の毛もよだつばかりなり。波の高さは何間なるや分らねど二三間もあると思はれたり。とにかく余は生來始めてこんな波を見たり。やうやう繪嶋の向ひ側につきて一泊し、翌朝雨はやみたれど風猶やまず。繪嶋へ渡りしかども洞穴も見ず、御馳走もくはず、すごすごと歸りぬ。
*]
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