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2017/12/30

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 行列



[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「行列」は昭和一一(一九三六)年九月号『三田文學』に発表されたものである。「死と夢」では第三篇目に配されてあるが、実は「死と夢」群全十篇の中では、初出は最も古い一篇である。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、例によって、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。なお、幸い、この「行列」一篇に関しては、「広島文学館」公式サイト内の「文学資料データベース」に、同底本を電子化したベタ・データが既にあるため、それを加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる(但し、かなり長い脱文や誤字・表記ミスが複数箇所存在する)。

 一部の段落末に注を附した。【2017年12月30日 藪野直史】]

 

 

 行列

 

 あんまり色彩のない家々と道路が文彦の眼の前にあつた。それでも、太い電信棒の頭には飴色の光線が紛れ込んでゐて、二月の靑空は奇妙に明るかつた。人物の影や形が少し靑みを帶びた空氣のなかに凍てたまま動いてゐた。金粉を塗つた竜の首や、靑銅色の蓮の葉や、葬式に使ふ、いろいろの道具が賑やかに路上を占めてゐた。そこに立留つて見物してゐる人間は、溷濁した表情で、靜かに時間が來るのを待つてゐるのだつた。近所のおかみさんの顏や、通りがかりの年寄の顏がそのなかにあつた。顏が控目に文彦の家を覗いてゐた。[やぶちゃん注:「溷濁」「こんだく」。混濁に同じい。意識がぼんやりしているさまを言う。]

 文彦は路上から自分の家の二階を見上げた。軒の天井に燕の空巢が白く見え、乾大根を吊した繩が緩んでずりさがつてゐた。昨夜、あそこの窓には白々と燈があり、烈風が電線を唸らせて通つて行つた。夏の宵にはあの軒に蝙蝠が衝き當るのだつた。文彦には知りすぎるほど知つてゐる場所の一つだつた。ふと、文彦の眼は玄關の格子戸に貼られた、忌中といふ文字に留まつた。たしか、叔父の筆蹟らしく、勢のいい文字が薄墨で滲み、悲しみを添へてゐた。その時、開放たれた戸口から、紋附を着た叔父の顏が覗き、何氣なしに往來を眺めた。文彦はあわてて帽子を脱ぎ、おじぎをしたが、叔父の眼鏡の反射は白くたつぷり光つて、何の反應もなかつた。やがて叔父はそのまま奧の方へ引込んでしまつた。

 文彦は玄關を潛り、鞄を放り出して、編上靴の紐を解き始めた。今放つた拍子に鞄のなかの辨當箱の箸が搖れて、ゴロゴロと音たてるのを聞きながら、彼はのそりと奧の方へ這入つて行つた。次の間の薄暗い女中部屋に、白木綿で覆はれた桶が、壁の方へ片寄せて置かれてゐた。覆ひをめくつてみると、木の香も新しい棺桶であつた。文彦は指でピアノを彈つやうに蓋の上を彈いてみた。[やぶちゃん注:「彈つ」「うつ」。]

 次の間からは、障子や襖が取除かれて、屛風が張られてゐるので、薄暗い家も廣々とした感じであつた。線香の煙と、讀經の聲と、ひそひそ話と、疊の上を滑るやうにして步く白足袋の音と、低い天井の下には沈んだ空氣が立罩めてゐた。文彦は正面の柱時計を眺めた。三時二十分で、恰度彼が中學から歸つてくる時刻だつた。柱時計の下に立てられてゐる屛風は、虎の繪だつた。死んだ父が、幼い日の文彦に虎といふものを教へて呉れた屛風で、父が死んだ時も、たしか柱時計の下に立てられてゐたのを文彦は憶ひ出す。文彦が久振に見る屛風にみとれていると、すぐ眼の前に、大阪の叔母がやつて來た。四五年振りに見る、器量のいい、叔母の姿に、文彦はちらと頰を染めたが、叔母は風のやうに急いで臺所の方へ行くのだつた。

 文彦は緣側に出て、冷たい空氣にあたりながら、服の釦をはづして、あくびをした。見るともなしに庭を眺めると、日あたりの惡い軒の梅はまだ固い蕾のままだつた。冬休みに彼が物置から引張り出して、弄んだ、古い扇風機のエレキが、今も庭の隅に放つたままになつてゐた。文彦は輕い空腹を覺え、母を探すために座敷の方へ行つた。[やぶちゃん注:「扇風機のエレキ」電気扇風機の古物の謂いであろう。]

 八疊の間には床がのべられ、恰度今、人々は枕邊を取圍んで、ざわめいてゐた。文彦は靜かに人々の後から死人の樣子を覗いてみた。文彦の母の指が、顏の上に被さつた白い布をめくると、その下に文彦の死顏があつた。白蠟のやうな文彦の顏が現れると、人々はまた新しく泣き出した。唇のあたりに産毛が生え、顏に小皺がみえ、閉ぢてゐる目蓋が悲しさうな表情だつた。何處となしに、それは文彦の父の死顏と似てゐた。そのうちに、母は筆にコツプの水を含めて、死者の唇を濕した。文彦は唇が變に冷やりとした。筆は文彦の兄の手に渡された。兄の手はいくらか震へ、筆は鼻の下の方を撫でた。その次に妹が筆を執つた。幼い妹は習字でもするつもりで、文彦の唇を重たく抑へた。それから叔父の番であつた。叔父は輕く文彦の唇を撫でた。筆は大阪の叔母に渡された。見れば、叔母の睫毛にも露が光つてゐた。文彦も自然に淚が浮んだ。その時、叔母は輕く筆をやつて、すぐに次の人に渡した。

 文彦は枕邊を離れて、佛壇の前に行つてみた。晝ながら賑やかに燈が點けられて、いろんな御供ものが上げられてゐた。その燦爛と輝く金色の小さな欄杆を眺めてゐると、文彦は二階が氣になつた。階段を昇り、二階の勉強部屋へ入つてみた。何時の間にか、文彦の机や書物は隅の方へ取片づけられ、そこで女達が着物を着替へたらしく、茣蓙の上にしどけない衣裳の拔殼があつた。それでも壁の方には、黑リボンをつけた、文彦の寫眞が貼られてあつた。この正月撮つた寫眞だが、何かに脅されて、ビクついてゐるやうな顏を見ると、文彦は自分ながら厭な氣持がした。往來に面した方の窓から下を覗いてみると、やはり、路には葬式屋が屯してゐた。さつきより、大分人數が增えたのは、いよいよ參列の人も揃つたのかもしれなかつた。[やぶちゃん注:「屯」「たむろ」。]

 モーニングを着て、山高帽を被つた男が、ひよいと文彦の窓の方を見上げた。受持の山田先生だつた。先生のまはりには廿人ばかりもクラスの生徒がゐた。文彦はちよつと意外な氣持がした。クラスでは除け者にされ、何時も冷笑されてゐたので吞込めないことであつた。それにしても、山田先生の何時もの愁はしげな顏はかういふ場所に應はしかつた。先生の陰に、白い齒を剝出してゐる生徒があつた。やまり生徒達は普段と變りなく笑つてゐるらしかつた。小學校で同級だつた、二三の女學生が映つた。これも意外なことであつた。そのなかの一人は、嘗て文彦が草履を盜まれて困つてゐた際に、何氣なしに革の草履を彼の足許へ差出して呉れた生徒だつた。その草履の緒には赤いきれが目じるしに着けてあつた。文彦はその女學生の襟首に眼を注いだ。白い固さうな襟をきちんと揃へて、大變眞面目さうな顏つきだつた。文彦はまた意外な人物を發見した。鳥打を被つて、襟卷をしてゐるその靑年は、彼が學校を怠けて、郊外をぶらぶら步いてゐる時など、きつと後からやつて來て、「先生につげ口してやるぞ」と脅すので、文彦は一度も相手にしなかつたのだつた。

 文彦は顏を引込めると、今度は別の窓から違つた方向を眺めた。その窓の方には、ところどころ禿げた山脈が遠くに見え、少し近くに黑くこんもりした小さな山があつた。その小さな山で、文彦は今日一日、學校へ行かず、怠けて暮らしたのだつた。山は文彦をよく知り拔いてゐるやうな表情であつた。文彦は暫くその山を視凝めて、さつきまでの生活を考へてみた。今日、山の枯草の上で辨當を食べたり、遠くに見える海を眺めて、日向ぼつこをしてゐたのは、みんなたしかなことだつた。しかし、どうも階下の樣子が氣になつて、また薄暗い階段をドシンドシンと降りて行くと、座敷には何時の間にか、棺桶が運ばれてゐた。

 今、掛布團がめくられて、白い帷子を着た文彦の死骸を、叔父と母とで抱へ起さうとしてゐるところだつた。餘程、死骸は重たくなつてゐるものとみえて、どうかすると、二人の手を滑り拔けようとした。がくりがくりと死骸が反抗する度に、文彦は何か苛立たしく、同時に愉快でもあつた。白い道化た衣裳を着せられて、硬直してゐる姿は、哀れつぽいと云ふよりも滑稽だつた。ところが死骸が愈々抱へ上げられて、棺桶へ入らうとする時、幼い妹は恐怖のため、わーつと泣き出した。すると、また新たな悲しみをそそられたらしく、母や叔母はひきしぼるやうな泣き聲を放つた。文彦は叔母がそんなにまで泣くとは思ひ掛けなかつたことで、やはり彼も一同の悲嘆につり込まれて、しくしく淚を啜り出した。しかし、死骸は母の手を離されたため、額が棺桶の緣に前屈みに伏さつてゐるので、文彦は額のあたりが疼くのを感じ、叔父の帶の間から洩れて來る、懷中時計のチクチクといふ響を聽いた。間もなく、叔父が文彦の額の位置を直し出した。叔父は文彦の兩手を揃へて、膝の上で合掌させると、數珠を嵌めてしまつた。それで死骸が今は窮屈な姿勢に固定し、何か大へん恨みを持つてゐるやうな容顏だつた。

 死骸は今にも飛起きて、暴れ出しさうだつた。その時、棺桶の片隅へ、叔父は黑い風呂敷包を挿入れた。文彦は何が包んであるのか氣になつたが、そのためにか、死骸に閃いた不穩な氣配は、暫く收まつて行つた。すると、叔父は桶に蓋をしてしまつた。その時、軒の廂に何の鳥か綺麗な小鳥がやつて來て、チヤチヤチヤと啼き出したので、一同の視線はふと期せずしてその方へ奪はれた。

 「文彦はもう鳥になつてしまひました」と母は眞顏で呟き、皆も靜かに息を潛めた。けれども、無心な小鳥はそのまま何處かへ行つてしまつたので、また作業は續けられて行つた。叔父は金槌でコンコンと桶に釘を打ち込んだ。文彦はもう棺桶の内部を視ることが出來なかつたが、幽閉された闇に屈む死骸は、金槌の音で脊柱が搖らぎ、烈しく身悶えしてゐるらしかつた。ところが、人々の顏には、ほんの微かではあるが、何か晴々した表情が閃き始めた。母はハンケチを持出して、さつきからの淚を拭ひ、熱くなつた眼球を冷たい空氣にあてながら爽やかな氣分になつて行くらしかつた。叔母はもう間もなく往來へ出ることを豫想して、ハンドバツクを開けて顏をつくろひ始めた。皆は、ともかく一段落ついたやうな顏で席をはづし出したが、叔父ばかりは態と落着き拂つて、釘の頭を丁寧に打込まなければ氣が濟まないらしかつた。最初に現れた、人々の冷淡さに、文彦は何か殘念で耐らない氣持をそそられた。そして、叔父が態と餘計な事に念を入れてゐるのを見ると、一層癪に觸るのだつた。

「叔父さん」と文彦は後から聲を掛けた。「僕はまだこんなにピンピンしてるんだよ」と文彦は、釘を打つてゐる方の叔父の腕をおづおづと把へた。だが、その聲はどうしても叔父の耳には入らない樣子だつた。文彦は叔父が強情張つてゐるのだと思つた。

「やめてくれ、やめてくれ、僕の葬式の眞似なんか、まつ平だ」と今度は力一杯で抗議し出した。すると、叔父は始めて文彦に氣がついたらしく、凝と彼を睥み下したかと思ふと、はしと、金槌で文彦の頭を撲りつけた。文彦は眼から火の出るやうな痛みと、怒りで、今は幼い子供のやうに、わーつと泣き出してしまつた。そして、隣室の方の母のところへ駈けつけて行つた。

「叔父さんが撲つた、僕の額を撲つた。お母さんが惡いのだ、死にもしないのに葬式なんか出すからこんなことになるのだ」と文彦は精一杯、號泣しながら、疊の上で身悶えをつづけた。けれども母は文彦に氣づかないらしく、そそくさと喪服の襟を正してゐた。文彦はまた凝としてゐられなくなつた。

「やめてくれ、やめてくれ、僕は死んぢやゐないぢやないか。ほら、ここにゐるのがわからないのか。馬鹿、みんな馬鹿、みんなとぼけて僕を葬らうとするのか」と、今度は家のうちの誰彼なしに把へては喚いた。が、誰も彼の存在に氣づかないらしかつたので、次第に文彦は氣拔けがして來た。とうとう文彦は幼い妹にむかつて、「おい、云うてくれ、僕がわかるだろう。そら、この通り僕はここにゐる」と、空の辨當箱を妹の耳許で振り𢌞してみた。すると、妹の顏には、ほんの微か、何かを凝視する表情が現れたが、それも無駄であつた。妹は向ふの壁にある鏡で彼女の顏を見てゐるにすぎなかつた。[やぶちゃん注:「とうとう」はママ。歴史的仮名遣では「たうとう」が正しい。後の二箇所も同じ。]

 文彦はもう一度棺桶をたしかめてみようと思つて、座敷へ引返した。すると、もう棺桶は玄關の方へ運ばれてゐて、恰度、人夫が柩に入れて擔いで出るところだつた。人々は今、玄關からてんでに下駄を穿いて、外へ出て行つた。さつき脱いだ、編上靴がまだ其處にあつたので、文彦もあわてて靴の紐を結んだ。

 外ではもう一同が整列してゐて、先頭の列は今靜々と步き出した。それはまるで始めから定められた秩序を着實に行つてゐるやうな落着を持つてゐた。もう先頭は文彦の家から半町あまり離れたところにゐた。道の兩側や、家々の戸口から人が立竝んで靜かに見物してゐた。先頭は恰度四つ角の交番のあたりを通つてゐたが、交番の巡査も暫く葬式の列にみとれてゐるのだつた。誰もこの葬式に疑ひをさしはさむものはなささうだつた。今、西の空から投げかける夕方の光線を、龍の首は正面に受け、それは西の方へむかつて進んで行くのだつた。蓮の花を持つた男や、三方を抱へた男が、默々と續いた。みんな、西の方を指して進み始めた。西の街はづれには火葬場があつた。

 文彦は列の外側から、ずんずん先頭の方へ進んで行つたが、ふと、花輪があるのに氣づいた。「北村文彦の靈前に」と、どういふ積りなのか、彼の名前が態々白布に誌るされて、花輪に吊されてある。文彦はそれを見ると、また氣がくしやくしやして、花輪を支げてゐる男の側に近寄つて行つた。[やぶちゃん注:「支げて」「ささげて」と訓じているらしい。支えて。]

「そんな花輪やめてくれ」と、花輪を奪ひ獲らうと、手を伸した。すると、相手は穩やかに手を振つて、文彦の手を拂ひ退けてしまつた。ほんとに文彦に氣づいて、花輪を守つたかどうか疑はしい動作であつたが、その男の肘の力は、なかなかものものしいことがわかつたので、文彦は暫く途方に暮れた。見ると、すぐ側に、俥に乘つた坊さんがゐた。それは文彦の家にもよく出入りする坊さんなので、文彦も知らない人ではなかつたが、今、美しい法衣を着て悠然と俥上にゐるのを見ると、文彦はまた癪に觸つた。

「やめてくれ、やめてくれ。こんな無茶な葬式出ささないぞ」と、文彦は車の轅を把へて呶鳴り出した。が、坊さんはただ面白さうに、にやにや笑つて、とりあはうともしないのであつた。それで文彦の方でも次第に氣勢がだれて來た。[やぶちゃん注:「轅」「ながえ」。長柄。]

 文彦は暫く路上に立止まつてぼんやりしてゐるうちに、行列はずんずん進んで、もう母も兄も妹も、彼の側を通り過ぎてしまつた。恰度、彼が氣づいた時には、叔父が側を通りかかるところだつた。さつきも金槌で顏を撲られたので、文彦は多少躊躇したが、やはり思ひ切つて、叔父の側にとり縋つた。

「ねえ、叔父さん、僕はもう喧嘩腰でものは云はないから、まあ聞いて下さい。僕はそら、この通りピンピン生きてるのに、どうして皆は僕を死んだことにして、葬式なんか出すのか、その譯が教へてもらへないでせうか」

 叔父は依然として不機嫌さうな顏で、

「死んだものは死んだ。だから葬式出すのだ」と云つたきり相手にしてくれなかつた。文彦はまた口惜しかったが、すぐに氣を取り直して、行過ぎた母を追つて訴えた。

「お母さん、僕を、この生きてる方の僕をよく見て下さい。僕がわからないとはお母さんもよつぽどどうかしてゐるのです。ね、わかるでせう」すると母は不思議さうに、文彦を視凝めてゐたが、ふと、

「おや、文彦だね、迷ってるのだね」と、おろおろ聲で云ふと、早くもハンケチを眼の緣に當てた。

「お母さんこそ迷つてるのだ。ひどいよ、ひどいよ、あんまり人を無視したやり方だ」と文彦は母の側で地蹈鞴を蹈んで喚きながら、母の袂を把へて行かすまいと試みた。ところが母は、ますます文彦の存在を無視するばかりで、「可哀相に、まだ迷つてるのかい。南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛」と、泣きながら念佛を唱へるので、手の下しやうがなかつた。文彦は今度は兄をとらへて談判してみた。[やぶちゃん注:「地蹈鞴を蹈んで」「地蹈鞴」は「ぢだたら」で鞴(ふいご)を頻りに踏むことから、「地団駄(じだんだ)を踏む」、悔しがったり怒ったりして激しく地を踏むの意と同義。]

「兄さん、兄さん、僕が誰だかわかるだらう。わかるなら返事をしてみてくれないか」兄は默つて頷いた。

「そら、わかるなら、何故葬式なんか出すのか、一つ君の考へを聞かせてもらひたいね」

 すると、兄は、「そんなこと知らないよ」と云つて、そつぽを向いてしまつた。

「知らないつて、現に生きてゐる僕の身の上になつてみてくれよ。何と云つてもこれは變ぢやないか」と文彦はまた尋ねた。

「いや、そんなこともあるかも知れないね。一體この世の中で變でないものはない」と、兄は冗談とも本氣ともつかない顏つきで、文彦を視凝め、「まあ、短氣を起こすなよ」と云ふのであつた。文彦は困惑して、暫く立留つてゐる隙に葬式の列はずんずん前へ進んで行つた。それで彼もまた、ちよこちよこと忙しげに列の脇を追つて行つたが、今は誰を相手に話しかけようとしてゐるのやら見當がつかなかつた。

 ふと、行列は電車通りを橫切るので、一度留まつた。氣がつくと、文彦の橫に、山田先生がゐるのであつた。文彦は何か先生の方で云ひ出しはすまいかと、暫くもぢもぢしてゐた。しかし先生は相變らず、もの靜かな顏で何も見てゐないやうな態度であつた。文彦はさつき迄、暴れ𢌞つたのがふと氣恥かしくなつた。平素はおとなしい、火の消えたやうな無口の文彦が到頭飛込むところまで飛込んだのだつた。彼は山田先生の方へ一步、步み依ると、思ひきつて口をきいた。

「先生、僕です。何故こんな無茶をみんなはするのでせう」すると、山田先生は文彦を多少憐むやうな顏つきで、

「それは君にわかつてゐるだらう」と云つた。恰度その時電車が通り過ぎたので、列はぞろぞろと進み出した。先生のまはりにゐたクラスの生徒達は今までぺちやくちや喋つてゐたが、ふと一人が文彦の姿を認めると、

「やあ、あそこに北村がゐらあ」と騷ぎ出した。

「やあ、やあ、やあ、北村の幽靈か」と、皆は遽かに活氣づいて、嬉しさうに囃し出した。

「生きてた時から、まるで幽靈のやうな野郎だつたもの。ハハハ、こいつは面白い」と、惡童の一人は、くるりと文彦の方へ向きかはると、擧手の敬禮をした。皆は一勢に口を開けて笑ひ出した。

「幽靈閣下に敬禮」と、またさつきの生徒は敬禮をした。文彦は恨めしさうに皆の惡口を見守つてゐたが、ふと我慢がならなくなつて、「默れ」と叫んだ。すると、二三秒、皆は吃驚したやうに沈默したが、忽ち一人の皮肉屋が云つた。

「やあ、幽靈が口をきいたぞ。古今未曾有だな」さうして、皆は再び騷然とした。文彦は今にも泣き出しさうな顏で口惜しさを堪へた。「靜肅にし給へ」と、その時、山田先生が皆を叱つた。皆はそれでも、じろじろと、列から顏を離しては、文彦の方へ輕蔑の視線を投げた。とうとう文彦は路上に立留つて、暫く皆の通過するまで待つた。さうしてゐるうちに、列は次第にしんがりの方になつて來て、文彦の小學時代の友達などの顏がちらほら見えた。が、彼等は文彦に遠慮してか、顏を外けて通り過ぎた。そして、とうとう最後になつた。一番しんがりには、文彦の家に永く働いてゐる老女が、普段着のまま列から大分後れ勝ちに步いてゐた。そこには、とりのこされた安らけさがあつた。

 老女は文彦を認めると、別に驚きもせず、口をきいた。

「なかなか賑やかな葬式で御座います」文彦は老女と竝んで步き出した。「しかし、これは誰の葬式なのかしら」と、彼はもう興奮しないで話すことが出來た。

「それは、あなたのお葬式なので御座いますよ」文彦はこの老女とこれまで殆んど口をきいたことがなかつたが、今は不思議に彼女の云ふことがしんみりと聞けた。

「それで僕はどうなるのかしら」

 老女は暫く默つてゐたが、「あなたは葬られるので御座いますよ」と答へた。

「葬られると、僕は滅びるのかしら」

「ええ、勿論で御座います」

「でも、僕はまだピンピン生きてるではないか」

「いいえ、あなたはあの柩のなかに收められてゐます」

「ぢやあ、ここにゐるのは誰なのかしら」

「それはあなたの拔け殼で御座いますよ」

 文彦は暫く默つて步いてゐたが、默つてゐるのが次第に怕くなつた。

「不思議だね、僕はずつと昔、子供の時、自分が死んで、葬式を出される夢をみたことがあるんだが、その時も自分で自分の葬式に從いて步いたり、皆が泣けば僕も泣いたのだつた」

 老女はちらつと若やいだ顏をして文彦を視凝めた。

「ああ、そんな夢なら、私もずつと以前にみたことが御座います」

「しかし、あれは夢でよかつた、が、今度は、今度は……」と、文彦はガタガタ戰きながら啜り泣いた。

「いいえ、今度だつて、まあまあ夢のやうなものですよ、觀念なさいませ」と、老女は靜かに文彦を宥めた。暫くして文彦は泣き歇むとまた口をきいた。

「僕は何度も普段から、死にたい、一そのこと一思ひに死んでしまひたいと思つてはゐた。しかし、かう云ふ變な目に遇はうとはまるで考へてゐなかつた」

「ええ、あなたは段々諦めが出來てまゐりました。さあ、もう二つ目の橋にまゐりましたから、燒場も間もなくです」と老女は靜かに向ふを指差した。恰度、橋の中程を文彦は步いてゐた。向岸の家々からは夕方の支度をするらしい煙が幾條も立昇つてゐた。その少し川上の方の、枯木のなかに、大きな赤煉瓦の煙突が高く聳えてゐた。今も、薄い微かな煙が昇つてゐて、その上の空を鴉が四五羽、頻りに舞つてゐた。

「ほんとに、これは夢であつてくれないかなあ」と文彦は絶望して呟いた。

「ええ、さうした嘆きなら、誰だつて何時も抱いてをりますとも」老女もそつと溜息をついた。

「ぢやあ、やつぱり僕はほんとに燒かれてしまふのかね」老女は默つて頷いた。

「さうか、僕は子供の時、地獄の鬼が赤い車を牽いて迎へに來る夢をみたことがあるが、やつぱし燒かれた後ではあんな赤い車が迎へに來るのかね」老女は何も返事しなかつた。列はもう橋を渡つて、堤にさしかかつた。

「そら、あなたは大分前、夏に伯母さんの葬式に行つたことがあるでせう。あの時この邊に葦簾が張つて御座いました」と老女は云つた。その邊には二三軒飮食店が竝んでゐた。

「さうだつた。この邊に置座が出てゐて、ラムネやサイダがバケツに浸けてあつた。この邊は夕涼みの場所なのだらうね」

「あの時のお葬式は途中で大變な雷が鳴りました」

「あ、さうだつたね。みんなびしよ濡れになつて歸つたもの」

「今日のお葬式は恰度いい天氣で幸で御座います」氣がつくと、むかふの方の空が美しい夕燒であつた。それはもう春のやうに明るい雲の加減であつた。文彦はふと、また溜息をついて呟いた。

「ああ、もう一度、川の堤で土筆を摘んでみたい」

 すると、老女は頑に頭を振つて云つた。「もうそんなことはおつしやいますな」

 燒場の石の門が見えて來た。行列の先頭の方はもう靜々と其處を潛つてゐた。文彦と老女は暫く默つたまま步いてゐたが、そのうち二人とも石の門へ來た。空地に今、會葬者が參列してゐた。正面の寂れた丈の高い建物は、かなり急な勾配の屋根で地面に迫つてゐた。その屋根の下に、白い壁や、太い柱や、祭壇らしいものが見えた。蠟燭の灯が燃えてゐた。文彦の柩はその前にあつた。柩の兩脇に、花輪や、龍の首や、造花などが、とりどりに置かれた。左右の椅子には母や兄や親戚の者が腰を下してゐた。一般の會葬者は一塊りになつて空地に立つてゐた。文彦と老女は一番端の方から、遠くの祭壇を眺めた。椅子にかけてゐる母は今頻りにハンケチを出して眼を拭ひ出した。ふと文彦は兄の席に目をやつた。あの隣の椅子に文彦は嘗て腰掛けたことのあるのを憶ひ出した。

 次第に人々の影は暮色に包まれて濁つて行つた。坊さんは今、だみ聲で讀經をあげてゐた。今は何も彼も色の褪せた寫眞のやうな氣持がして、父が死んだ時のうつろな悲しみと似てゐた。文彦はふと別のことを思ひ出して老女に話しかけた。

「あ、僕はうつかりしてた。今日學校を怠けて山で遊んでゐたのだが、懷中時計を樹の枝に置いたままで忘れて歸つた。あとで拾つておいてくれないか」老女は默々と頷いた。

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