原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 暗室
[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。
本篇「暗室」は昭和一三(一九三八)年六月号『三田文學』に発表されたものである。
底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。
一部の段落末に簡単な注を附した。
なお、本篇の後半部の一部の原稿(プレ決定稿か)の一枚(四百字詰め)が、「広島市立中央図書館」の「Web広島文学資料室」内のこちらで見られ(原稿の裏面に「鎭魂歌」の草稿が記されているため、一枚だけが画像公開されているもの)、そこでは、現行版及び漢字表記(正字でないもの)に次のような異同が見られる(下線部)。
*
しんは周章てて荷馬車のところへ飛出し、「これは私の娘です。何か悪いことでもしたのですか、」と性急に尋ねた。馬丁は胡散さうな眼でじろつとしんを見下し、「お前さんは引込んでろ、」と命令した。それから默々と妙子を眺め𢌞[やぶちゃん注:或いは「廻」。]してゐたが、「袂の裾を握るんぢやない、」と一喝すると、妙子は電流に打たれたやうに兩手を袂から離した。しんは默つてゐられなくなつた。「何故、私の娘にそんな劍幕を振ふのか、あなたは一体誰だ、」馬丁は輕[やぶちゃん注:或いは「軽」。]く肩を聳かして、「譯は後で話す、[やぶちゃん注:或いは「。」。]」と云つた。さう云つて今度は馬の腹へ近寄つて、馬具を直してゐたが、ふと妙子の方を振向いて、「ああん、いい加減に謝罪せんか、」と云ふのであつた。妙子が相変らず默つた儘うつむいてゐると、馬丁はまた彼女の側に近寄り、「強情張ると君の爲にならんぞ、」と妙子の肩を小衝いて、それから靜かな口調で話し出した。「なあ、君は第一[やぶちゃん注:現行のここにある読点(、)がない。]左側通行を守らなんだのがいけないのだ、それに我輩の馬車に衝き
*
これはプレ決定原稿であり、実際の初出では、当時は、当然の如く、多くの略字は正字化されていると考えるのが常識であるから、私の恣意的な漢字の正字化仕儀は正当であると信ずるものである。【2017年12月31日 藪野直史】]
暗室
しんは寢室に睡つてゐたが、雨戸の外の庭が、月の光で眞晝のやうに明るかつた。簷の近くの梅の樹の枝が二股に岐れてゐるところに、しんの二番目の息子の七つの時の顏が嵌められてゐた。その顏は眼のくりくりとした、好奇心に芽生えかかつた表情で、寫眞師の方へ向けられた顏で、たしか簞笥の戸棚のアルバムに貼つてある、古ぼけた寫眞の儘だつたが、梅の樹の股から覗いてゐる顏は、段々鼠のやうな顏になつて、寂しげに瞬してはしんを眺めるのであつた。しんは自分の産んだ子が動物になつてゐるのに驚かされて、胸は早鐘を打ち出した。不圖、また向ふの百日紅の枝に氣がつくと、そこには三番目の息子が眞裸で、すべすべする枝に登つて行くのだつた。いくら三郎の柄が小さくても、あんな小さな手足ではなかつたし、背中に猿そつくりの毛が生えてゐるのも哀れだつた。百日紅はさるすべりと云つて、お猿でさへ登れないのですよ、とあの子を背負つては教へてやると、あの子は一生懸命梢の方を振仰いだものだつた、あんなことを教へたために到頭、三郎は夢中で枝に這ひ登つてゆく。梢には點々と赤い花がみえ、それがすぐ眞下の井戸の底に青空と一緒に映つてゐる。三郎はふと、變な身構へをすると、むかふの枝に飛び移らうとする。あれは一度、尋常四年の時、機械體操から墜ちたから、それに中學の入學試驗にも落ちたから、何時もあんな恰好をする癖がついたのかもしれないが、もし飛び損なつたら今度こそ井戸の底に墜ちるのに、と、しんは氣が氣でなかつた。そのうちに、ぽしやり、と井戸の底に鯉が跳ねる音がすると、もう三郎の姿は樹上になかつた。しんはさつきから續いてゐた胸騷ぎが今はコチ、コチ、コチ、と氷を割る音に變つて行つた。笊の底の氷塊はごろごろと滑つて、うまく錐が立たなかつた。緣側のすぐ側の飛石が大きな龜の恰好をして地面に伏さつてゐるが、あれは長男の一雄の證據に、時々難儀さうに口を開けるのだつた。あんなに辛くなるまで我慢しなくてもよかつたのに、一雄は脚氣を怺へて試驗を受けようとしたのだつた。それで夜、あれが突然歸省して來て、玄關の戸を弱々しく叩いた時、しんは心臟を叩かれるやうな思ひがした。今も地面に伏さつてゐるからには餘程苦しいのだらうが、脚氣を氷で冷やしたら少しは樂になるのかしら、と、ついしんは餘計な思案をしながら錐の手を休めてゐた。すると、耳許で、しんの夫が、「馬鹿、早くしろ。一雄は脚氣ぢやない、疫痢だぞ」と吸鳴つて、錐をひつたくると、自分でゴツゴツと氷を割り出すのだつた。子供のことになると、無我夢中になる夫の姿をみると、しんは自分ののろくささに狼狽てながらも、内心微かに嬉しかつた。夫の義造は壯烈そのものの姿で錐を打ち込む。氷は頻りに白い煙を放ち、溶けた雫が笊の目から庭へ流れた。[やぶちゃん注:「怺へて」「こらへて」(堪へて)。]
ガチヤリ、ガチヤリといふ音響で暫く氣がつかなかつたが、ふいと視ると、向ふの百日紅の方から飛石を蹈んで、二人の警官と一人の女がやつて來るのだつた。彼等はもう義造のすぐ側まで近づいてゐたので、どうなることかと、しんが少し心配し始めた時、「おい!」と一人の警官が義造の首筋を摑んで呶鳴つた。「なにをしてゐるのだ、君は」義造は吃驚して暫く口をもごもごやつてゐたが、「何をしてゐるかつて、息子が疫痢だから氷を割つてるのですよ」と答へた。「噓をつくな。君は變なものを拵へる氣だな。證人がゐるぞ、夜通しごそごそやつてたとこの女が云つてるぞ」さう云つて警官が指差した女は、しんの家へ每日牛乳を配達する女だつた。彼女は若い時、キヤツチボールの球が額にあたつたので、耳が遠かつた。「ええほんとに每晩ここの家からは變な物音がして、二三丁離れたところからでもよく聽えます」と牛乳配達の女は得意さうに鼻を蠢かした。「とにかく、一應調べねばならん」と、二人の警官は臺所の方へ上り込んで、ガス・メートルの數字を頻りに首を捻りながら眺めてゐたが、「とにかく、ちよつと來てもらほう」と義造を眞中に挿むと、ずんずん表の方へ行つてしまつた。彼等が見えなくなると、後に殘つてゐた牛乳屋の女は急にしんに同情するやうな振りで、「ほんとにお氣の毒で御座います。それといふのもお宅の御主人はお稻荷さんに寄附をなさらなかつたから罰があたつたので御座いますが、後に殘されたお子樣がおいたはしう御座います」さう云ひながら、ぽろぽろと大粒の淚を前垂の下に零した。しんは腹の底が煮えくり返るほど口惜しかつたが、眼さきがちらちらして、赤や靑の火の玉が灰色の闇に漾つて流れた。ふと、耳許で義造の呶鳴る聲がして、しんはやつと眼の前が明るくなつた。何時の間に歸つて來たのか、義造は大變憤慨して緣側に立ちはだかつてゐる。牛乳屋の女はさつきからの鳴咽を持ちつづけながら、今は時々頭を下げては詫びてゐる。「いい加減なことを喋るといふにも、いふにも、程があるぢやないか」と義造はまだ怒りが解けないらしく、足を蹈み鳴らした。すると何時の間にか父の側に二郎と三郎がゐて、父の眞似をして足を蹈み鳴らした。緣側は雷鳴のやうにゴロゴロと響いた。「あああ」と牛乳屋は聲をあげて泣き出した。「私は聾ですから時々感違ひするのです。惡う御座いました。惡う御座いました」そして、こほん、こほんと奇妙な咳をし出し何時までたつても歇まなかつた。「もういいから歸れ」と義造が云ふと、急に嬉しさうにひよこんとお叩頭をして、牛乳屋は下駄の齒を、きゆる、きゆる、きゆる、と露次の敷石に鳴らしながら消えて行つた。
義造は怒つた後の氣疲れで、柱に凭掛つて空を眺めてゐたが、ふと、梅の枝に頰白が留まつてゐるのに目をとめると、「四部さんよ、可哀相に」と話しかけて淚を浮かべた。「誰がお前を殺したのかしら、お前に枇杷を食べさせて疫痢にさせたのは誰なのだらう」と、義造は段々興奮して來た。ふと、頰白は何かに驚いたらしく、ききき、と不思議な啼きかたをして、急にばたばたと逃げて行つた。義造は不思議さうに頰白の逃げて行つた跡を見 送つてゐたが、急に何かに思ひあたつたらしく、ぽんと膝を叩いて立上つた。「さうだ。狐だ、狐の仕業だぞ。何も彼も狐の奴が企んでるのだわい。解つた、解つたぞ。あの牛乳屋の婆も狐だぞ。こほん、こほん、啼いたりなんかしやあがつた。狐が儂の一家を覘つてるのだな、畜生!」さう云ひながら義造は握拳を振り𢌞して、緣側を往つたり來たりしてゐたが、ふと、しんの側に立留まつて、「おい、お前は何歳(なにどし)生れだつたかいな」と尋ねた。解りきつてることを尋ねるので、しんが默つてゐると、「さうだつた、酉だつたな。酉だと、こいつは大變だ。いよいよ以て狐が覘ふわけだ」と、義造の顏は急に靑ざめて、手足が少し慄へ出した。「鷄の子なら雛だ。雛を覘ふてるのだな、狐の畜生が」義造は獨りで呟いてゐたが、また急に語調を高めて、「ああ、殘念だ。狐に一杯食はされたぞ。狐の乳とは知らずに皆に牛乳飮ませてたか。ああ、殘念なことをした。こいつは早く醫者に相談して手當しなきや大變だ」さう云つて、閾の上にどかんと坐つてしまつたが、「まてよ、醫者ももしかすると狐かもしれないぞ」と呟いた。しんは義造があんまり變なことを云ふので、くすりと笑つた。「何がをかしい!」と義造は鋭く咎めた。「だつて、醫者と狐は違ひますもの」「默れ、お前までが狐の味方するのか、一雄や二郎や三郎や芳枝や妙子を狐の餌食にする氣なのか」「だつて、そりやあ、あなたが疑ひすぎるのですわ」「そんなこと云つてるから、狐はいい氣になつて圖に乘つて來だすのだぞ。畜生、ウオオオ!」と義造は終に咆哮して、胸をどんと叩いた。「ウオオオ、俺は虎だぞ、寅歳生れだぞ。さあ來い、狐の二匹三匹嚙み殺してくれるぞ。さあ來い、何なりと來い。ウオオオ!」義造はほんとの虎のやうに疊の上を跳ね𢌞り出した。四つん這ひになつてぢつと蹲つてゐるかと思ふと、突然飛上つて、神棚にある榊の枝を齒で捩ぎ除つて、左右に振𢌞した。義造は榊を齒で弄びながら、左と右の眼で交互にしんの方を睥んだ。その眼球が次第に虎に變つてゆくのでしんは怕くなつた。そのうちに義造はウウウと口をあけて一聲唸つたかと思ふと、のそのそとしんの方へ迫つて來た。しんはビクビク顫へながら、部屋のうちを逃げ惑ひ、どういふものか、きやつと叫ばうとしたのに、こここここ、といふ呼聲になつてしまつた。それでは自分も鷄にされてしまつたのかしら、やれ情ない、と考へながら、しんはちよこちよこと兩脚で步いては羽擊をした。そのうちに虎はしんの尻尾に嚙みついてしまつたので、しんはこここここと悲鳴をあげて、眼球を白黑させた。[やぶちゃん注:数箇所に出る「覘」は通常は「うかがふ」であるが、ここでは総て「ねらふ」(狙ふ)と訓じていると思われる。「捩ぎ除つて」「もぎとつて(もぎとって)」(捥ぎ取つて)と訓じていよう。「羽擊」「はばたき」と訓じているものと思われる。「睥んだ」「にらんだ」(睨んだ)。]
しかし、今、虎の齒はしんの背骨にがくりと嚙みついたのだが、しんは全身が怠く、少し火照つて來るだけで、あんまり烈しい痛みは生じなかつた。それで、ぐつたりとした儘、少しつつ眼を開けてあたりを見𢌞すと、をかしなことに、すぐ彼女の四五尺前に、義造が疊の上に大きな鼾をかきながら假睡してゐるのだつた。まあ、よかつたと安心すると同時にしんは義造の寢顏をしげしげ眺めた。義造は時々何か愉快さうに夢でもみてゐるのか、すやすやと笑ふのだ。そのうちに涼しい風が頻りに疊の上に流れて釆た。こんな處で何時までも假睡してゐては風邪を引くだらうと思つて、しんは義造の肩を搖つて起さうとした。義造はぱつと眼を開くと、半身を起して、すぐ側に落ちてゐる榊の枝を手に執つてみとれた。それから如何にも安心したらしく、枝の葉を一枚一枚數へながら、いかにも嬉しさうな顏をした。しんは、どう云ふ譯で義造があんなことをしてゐるのか合點が行かなかつたが、默つて眺めてゐると、義造はそれらの葉を一枚づつ枝から挘ぎ取ると、丁寧に揃へて懷中に收めて行つた。「福の神が飛び込んだぞ。この株券の配當たら、どんなもんだい、二倍、三倍、四倍、この調子で行つたら凄いものだぞ。おい、ちよつと算盤を持つて來い」と、義造はしんに命じた。しんはどうも合點が行かないながら、すぐ側の机から算盤をとつて渡した。すると、義造はさつき懷中に收めた、榊の葉を一枚一枚、疊の上に竝べ出したが、不思議なことに、樹のははちやんと立派な株券になつてゐる。しんはこれは大變なことになるのではあるまいかと心配してゐると、はたして義造は遽かに眼の色を變へて、一枚の株券をぐいと彈みつけた。義造は株券を手に持つたまま、暫くはものも云へないほど興奮した。それから、「フーン」と感嘆の息を吐くとともに、「こいつは、幽靈株だな」と叫んだ。すると、義造が手に持つてゐるのは、榊の葉であつた。義造はそれに氣がついたらしく、大急ぎで懷の葉をはねくり出して、全部疊の上にちらかした。「やりやあがつたな。狐め! かつぎやあがつたな。畜生! よくも木の葉を株券にしてくれたな」義造は怒號とともに木の葉を八方へ蹴散らかしたが、やがてがくりと疊の上に躍ると、もう全身の力を失つて、よろよろと橫になつてしまつた。橫に倒れながらも、餘程口惜しいのだらう、義造の胸は大きく波打ち、鞴のやうに激しい息をついた。「水をくれ、水を」と義造は喘ぎながら、しんに訴へた。しんが鐵瓶の水をコツプに汲んで差出すと、義造はぼんやりコツプを掌にしたまま眺めてゐたが、「をかしいな、このコツプのなかには金魚が泳いでゐるね」と子供のやうな調子で話しかけた。「いいえ、鐵瓶の水ですから金魚なんかゐませんよ」と、しんが云ふと、義造はすつかり安心したらしく、唇にコツプをあてたが、不圖また、コツプを離して、「どうも蛭のやうなものがちらちらする」と云つて眉を顰めた。しんが義造の額に掌をやつてみると火のやうに熱かつた。そのうちに義造はガタガタ慄へて、眼が潤んで眞靑になつた。「ああ、怕い。狐が、攻める。攻める、狐が」と義造は悶えながら口走つた。しんは義造の身體をしつかり摑へながら、「何處に、何處に狐がゐます」と尋ねると、義造は默つて頤で天井を指差した。見ると天井には何十匹の狐がぐらぐらと蠢いてゐた。狐達は絶えず入替つては上から義造の方を覗いてゐた。そのために、もさ、もさ、もさ、もさ、といふ狐達の跫音がしんの耳にも聽えた。そのなかの一匹は今にも天井から飛出しさうな氣配だつた。しんは思はず、「しよい!」と叫はうとしたが、聲は咽喉のあたりに痞へた。ところが、それと同時に一匹の狐はちよろちよろと壁を傳つて降りて來た。しんはまるで自分の背中の上を狐に走られてゐるやうな氣持がした。既に一匹が疊の上に達した頃には、他の狐達も一勢に四方からどろどろと雪崩れ落ちて來た。頭から水を浴せ掛けられたやうに全身びしよ濡れになつて、暫くは何も見えなかつた。やがて氣がついた時には、もう狐達は退却したのか緣側をどろどろと走つて行く音がした。[やぶちゃん注:「假睡」「うたたね」(轉寢)と訓じていよう。「挘ぎ取る」「挘」は「むしる」であるが、「ぎ」に繋がらぬから、「もぎとる」と読みたくなるのであるが、既に「捩ぎ」でそう訓じている(と私は採ってしまっている)わけで、とすれば、これは別な読みとして漢字を当てたと考えねばならず、葉であるから「はぎとる」(剝ぎ取る)か。「鞴」「ふいご」。「痞へた」は「つかへた」。]
見ると側の義造は何時の間にか氷囊を額の上にやつて、すやすやと睡つてゐるのだつた。緣側を走る跫音は再びしんの方へ近づいて來た。やがて、跫音は障子の外まで來たかと思ふと、ぴたつと立留まつて、何か囁き合つてゐる樣子だつた。さうして、すーつと障子が開けられた。はつとして振向くと、そこには二郎と三郎の顏が覗いた。「お父さんが病氣なのですから騷動してはいけません」と、しんは少し怕い顏で叱つた。義造はその物音で眼が覺めたとみえて、一寸頭をもちあげて、「こちらへはいつておいで」と云つた。子供達は父の枕頭にかしこまつて坐つた。二郎も三郎もシヤツ一枚で暑さうに額に汗の玉をかいてゐる。「二郎はもう霜燒はなほつたかい」と父が尋ねると、二郎は默つて額く。義造は額の氷嚢の口を開けて「さあ、氷砂糖をやらう」と、二人の掌に二つ三つ渡した。子供達は早速それを頰張り出した。「もう、あちらへ行つて遊びなさい。靜かにしてゐるのですよ」と、しんが云ふと子供達はそつと座を立つて出て行つた。やがて暫くすると、蜜柑色の光線が障子に射して來て、茫とした樹の枝が映つて、雀たちが一頻り囀り出すのだつた。しんは雀たちの呼聲を聽いてゐると、何だか少し睡たくなつて、とろとろしかけたが、時々、義造の額の上の氷囊がガチヤガチヤいふ音で、はつとして眼を開いた。それからまた、とろとろしてゐると、雀たちはいい氣になつて囀り𢌞るし、義造の氷囊のガチヤリといふ音は睡むりはなを見はからつては始まるので、しんはうつらうつらと裁縫をしてゐるやうな氣持だつた。長い間の看護疲れもあつたが義造は段々快方へむかつてゆくし、子供達が庭で元氣さうに遊戲をやつてゐるのを聽いてゐると、しんはすつかり安心してしまつた。實際のところ、あれは子供達が騷いでゐるのか、それとも雀の啼聲なのか、しんの耳には區別が出來なかつたが、そんなことはどうでもよかつた。そのうちに暫くあたりが靜かになつたかと思ふと、今度は庭の方で合唱が始まつた。「もし、もし、お前は誰ですか」と子供達は聲を揃へて歌つた。誰かが一人、「私はここらの狐です」と答へた。
と、今迄すやすやと睡つてゐた筈の義造はまるで電流を懸けられたやうに、かばと跳ね起きた。それから緣側へ飛出し、「馬鹿!」と大音聲で號んだ。子供達は義造の劍幕に恐れて、パタパタと逃げ出してしまつた。義造は緣側に立はだかつて、餘勢を持てあましてゐたが、やがて、「エイ!」と二聲氣合を入れたかと思ふと、右手に樫の棒を握り締めてゐるのだつた。「一雄二郎みんな來い。今晩這入つて來る泥棒を今に儂が退治するぞ」と義造はすつかりいい機嫌になつて、たつた今叱つたばかりの子供達を呼びかへした。子供等は珍しさうに父の後からぞろぞろと從いて步いた。義造はすつかり得意さうに樫の棒を振り翳し、時々、「エイ」「ヤア」と、手あたり次第柱や壁を撲りつけ、「そもそも泥棒はどこから這入る」と、家のうちをぐるぐる見張りして步くのであつた。そのうちに、義造は便所の脇の廊下に大きな足跡を發見して、「やあ、あつたぞ。あつたぞ」と叫んだ。「さあ曲者だ。さあ曲者だ」と家のうちをぐるぐる走り𢌞つて、簞笥から押入から佛壇まで到る處を探し𢌞つたが、もう曲者は逃げた跡らしかつた。「ああ、殘念だつたな。一足ちがひだつた」と義造は腕組して考へ出したが、「うん、大工を呼んで來て、あの足跡のところを切拔いてもらはう」と云つた。と、もうさつきの足跡のところには大工がやつて來て、鋸でゴシゴシ廊下の板を切拔いてゐた。義造は大工の側に行つて、「隨分大きな足跡だなあ」と感心しながら話しかけた。「足跡といふものは大きく見えるのですよ」と大工は切拔いた足跡を義造に手渡した。「ふん、これは參考になるから一つ小學校へ寄附してやらう」と、義造はその板を大切さうに袱紗に包んだ。[やぶちゃん注:「かば」はママ。]
その時、突然、火事の半鐘がガンガンとすぐ近くで鳴り出した。と思ふと、近所の小學校の方角の空に濛々と煙が立昇つてゐるのが見えた。「やあ、小學校が火事だ。僕が寄附した足跡が燒けてしまつては大變だ」と義造は樫の棒を抱へて表へ飛出してしまつた。しんも凝としてゐられなくなつて、二階の物乾棚へ上つてみると、もう向ふの小學校の講堂の屋根の上では、義造が樫の棒を振𢌞して活躍してゐた。さつき階下でみた時ほど、あんまり煙も立たないので、しんはもう消えたのかしらと思つたが、ワイワイといふ人聲や、往來を走る足音がまだ頻りに聞えた。義造はたつた一人、講堂の屋根で頑張つてゐるので、彼の姿が大變大きく見えた。義造の後の空はまるで火事とは反對に靜まり返つてゐるので、義造も少し退屈して欠をした。今、火事の騷ぎで飛出したらしい鴉が四五羽、義造の頭上を逃げて行つた。彼は樫の棒を振上げて、ポカポカと撲りつけた。すると、みごとに手答へあつて、鴉は四五羽ともぽとぽとと屋根の上に墜ちてしまつた。義造はすつかり偉大になつたらしく、今、樫の棒をしんの方向へむかつて正眼に構へると、忽ち彼の身體は宙を飛んで、もうしんの居る物乾棚のところへ戾つて來た。[やぶちゃん注:「欠」「あくび」。「あくび」の意の場合は「缺」としないのが正しい。]
ふと見ると、さつき義造が叩き落した鶉どもが、今靜かに舞上るのが恰度、蜻蛉位の大きさに見えた。鴉はまるで飛行機のやうな唸りを發して、物乾棚の方へだんだん近づいて來た。しんは大變心配したが、義造は一向に氣がつかなかつたらしい。やがて、サイレンが物々しく鳴渡り、パタパタと人の逃げ惑ふ足音や、犬の呼聲があちこちで生じた。その騷ぎの上を撫でまくるやうに、ぐわんといふ唸りと、大きな翼の影が橫切つた。しんは義造の手を引張つて、物乾棚を飛降りると、段階を滑り落ちて、風呂場の方へ逃げて行つた。何時の間に普請したのか、流しの所が地下室の入口になつてゐて、そこは百貨店の地階の入口のやうに飾つてあつた。しんは逃げながら、ちらと、模樣の變つてゐるのを見て、風呂場が便利になつたのが一寸嬉しかつたが、やがて地階の床へ足がとどいた時には、どたりと倒れてしまつた。もう大丈夫だらうと安心してゐると、すぐ外をオートバイの走る音がして、ガチヤンと硝子の壞れる音がした。「やられた!」と、しんのすぐ側に倒れてゐた義造は悲痛な聲で唸つた。しんは吃驚しながらあたりを見𢌞すと、壁のところに龜裂が生じてゐて、そこから白い煙が少しづつ洩れ入つて來た。義造は顏を痙攣させながら、淚を湛へて、「儂は今度こそもう助かるまい」と云つた。さう云つたかと思ふと義造の顏は少し落着いて來た。「それでなくても胃が惡いのに、あんな毒瓦斯を吸はされてはもう駄目だ」と、義造は壁の裂け目をぢつと視凝めてゐたが、「今死んでは子供が可哀相だが」と云つて淚ぐんだ。しんも淚を湛へて、ぢつと義造を見守つた。すると、義造はひよつこり立上つて風呂場の方へ步いて行き出した。
しんが氣づかつて後からおろおろ從いて行くと、義造は風呂桶をじろじろ見ながら段々、不平さうな顏色になつた。「あれほど儂の棺桶は檜で拵へて呉れと云つておいたのに、これは松ぢやないか。それに節穴だらけだし、恰好だつてなつてはゐないぢやないか」と、義造はしんを叱り出した。しんは死際になつてまで叱られるのが悲しかつたし、それに身に憶えのないことでもあつた。「いいえ、そんなこと私は聞きませんでした。それにこの桶は松ではありません。檜です」すると、義造は一そう怒り出した。「何! 儂が死なうとする時にあたつて、まだ口答へしたり強情はるのか。これは松だ。松だ。松だわい」「ええ、やつぱし松でした」と云つて、しんはそつと淚を零した。すると、お互に沈默がつづいた。「おい」と義造がたうとう口をきいた。「お前泣いてゐるのかい」しんは默つて答へなかつた。しんは義造がとつくに死んでゐた筈なのに、まだ生きてゐるのが今不思議に思はれた。「お前は悲しいのかい」と義造がまた尋ねた。しんは首を橫に振つた。「いいえ、死んだはずのあなたに、かうして叱られてゐるのが何よりも嬉しうあります」そして、義造の方を見上げようとすると、しんの言葉は餘程、義造の弱點に觸れたのか、義造の姿は見る見るうちに細りながら悶えて、空を摑まうとし出した。ああ惡いこと云つてしまつた、と、しんは後悔しながら義造の方を見ると、今、彼は煙のやうに空氣のなかに溶けて吸ひ込まれて行くのだつた。義造の眼の色だけが一番終りまで殘つて、その眼は少し羞んでゐるやうな恰好になつた。やがて左側の眼はぼつと消えてしまつたが、右側の眼だけがまだ美しく殘り、段々その眼球は魚の眼に似て來たが、最後に貝殼の釦のやうに平たくなつて、茫とした燐光を放つのであつた。しんはその靑い塊りを指先で弄つてみたくなつたが、いくら手を伸してみても其處にはとどかないので、不思議なもどかしさと怕さがあつた。何だか氣拔けしたやうな氣分で、しかし、誰かに後から催眠術でもかけられてゐるのか、しんは自分で自分の身體が自由にならず緩いリズムとともに兩手を前方へ上げたり下ろしたりし出した。胸のあたりが疼くやうに切なかつた。そのうちにしんはこれはどうも後の方に誰か立つてゐるらしいと感づいたが、振向かうとしても首筋が硬直して動かない。眼の前が段々昏むで行くと、さつきまで光つてゐた向ふの眼球が急にするすると墜落して見失はれてしまつた。それと同時にしんも立つてゐる力が失はれて、思はず足許へ蹲んだ。
[やぶちゃん注:「羞んで」「はにかんで」。「蹲んだ」「しやがんだ(しゃがんだ)」。]
激しい耳鳴と目暈の渦が靜まつた時には、しんは洗濯をするやうな恰好で盥に兩手を突込んでゐた。さうして兩手は水の中に浸された義造の襦袢の襟をしつかりと握り締めてゐた。じやぶ、じやぶ、とやりながら、しんはお腹のなかに子供がゐて兩足を突張るのが苦しかつた。さつきから誰かが頻りに後でものを云ひたげにしてゐるらしかつたが、しんは暫くの間、素知らぬ顏で洗濯をつづけた。が、ふと、手を休めると、後では暖かさうな咳拂ひがした。それで、あ、お父さんだなと、しんは思つた。父親は用事がなくても時々家へ立寄るのが癖なのだから、しんは大して氣にもしないで、また洗濯を續けて行つたが、何時の間にかお腹のなかの子供が輕くなつて行つて、非常に身體の具合が樂になつた。
[やぶちゃん注:「目暈」「めまい」(眩暈)。]
盥には洗濯石鹼の泡が日の光で美しく輝き、それに庭の楓の若葉が映つた。さうすると、隣の家の方で若い衆が臼を碾きながら緩い聲で歌を歌つてゐるのが聞え、時々、車井戸の車がヒラヒラヒラと可愛い金切聲をあげてゐた。往來を飴賣が太鼓を叩きながら通つた。チンチンテンチンと鈴が鳴つて、おそなへ賣もやつて來るらしい。しんのすつかり若やいだ頰にはちよろちよろと微風が來て撫でた。微風はまるで小さな魚のやうにしんの襟首をくるくる𢌞つて、髮油のにほひを遠くへ持運んだ。すると、しんの挿してゐる花簪を花と間違へて縞蜂がやつて來た。しんは恍惚として、お祭の提燈が續いてゐる軒や、水に浸つた海酸漿を思ひ、洗濯にいそしんだ。しんの頭にはあの祭の宵の藍色の空が美しくひろがつてゐた。それで、もう盥に浸つてゐるのは彼女の派手な長襦袢であつた。しんは娘友達の誰彼と一緒にはしやぎながら過す時のことを思ふとますます氣持が浮立つて來た。[やぶちゃん注:「車井戸」「くるまいど」は滑車の溝に掛け渡した綱の両端に釣瓶(つるべ)をつけて綱を手繰って水を汲み上げるようにしてある井戸。「縞蜂」一般に普及している蔑称としては、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科クロスズメバチ属クロスズメバチ
Vespula flaviceps の異名である。スズメバチ類の中では相対的にはおとなしい部類に属するが、毒成分はやはり相応に強い。幼虫や蛹を食用に供する種として古くから知られ、人間との関係は近しくはある。「海酸漿」「うみほほづき(うみほおづき)」。海産の腹足類(巻貝)の卵嚢で、特に赤螺(腹足綱吸腔目アクキガイ超科アクキガイ科 Rapana
属アカニシ Rapana
venosa)・天狗螺(アクキガイ超科テングニシ科カンムリボラ(テングニシ)属テングニシ Hemifusus ternatanus)・ナガニシ(アクキガイ超科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus)のそれを指す。長刀(なぎなた)状・軍配状など種々の形状があり、植物のホオズキの果皮と同様、口に含んで、「キュッツ」と鳴らして遊ぶ。特に鳴らし易いのはテングニシの団扇状のものである。私の遠い思いでの懐かしい玩具である。]
すると微風がまたやつて來て、今度はしんの袖を引張つた。しんが知らない顏でゐると、微風は一そう強く引張り出す。まあ、まるで人間のする通りに袖を引張るので、しんは何だかをかしくなつて、振向いて微笑した。ところがすぐしんの後の柱には一雄が大變不機嫌な顏をして突立つてゐるのだつた。しんはちよつと意外な氣持がして、同時にまたをかしくなつて笑つた。息子はますます憂鬱に顏を曇らした。大きな男がまるで子供のやうに不貞腐れてゐるのを視ると、しんは、「まあ、まあ、そんなに怒るものぢやありませんよ」と云つた。すると一雄は悲しさうな聲で、「どうせお母さんなんかにはわからないのさ」と云つた。「僕がいくら眞面目に相談しても、茶化すことしか出來ないのだもの」と一雄は怕い眼でしんを睥み出した。「おや、さうかい。何か相談があつたのかい。ちよつとも知らなかつたのだよ。それなら早く云へばいいのに、一體どうしたの」としんは心配になつて尋ねた。すると一雄は頑に口を噤んでしまつた。「どうしたのよ、何がいけないの」としんはまた優しく尋ねた。「わかつてらあ」と一雄は突慳貪に云つて、とつとと向ふへ行つてしまつた。
息子が殘して行つた跫音が何時までもカタカタと緣側で鳴つた。しんは心配になつて、跫音を辿つて行つてみると、二階の階段の中途で息子の跫音はぱつたり止んでゐた。それでは、もしかすると、と思ふと、しんの胸は惡い豫感に襲はれて呼吸がはずんだ。やつと二階へ辿りついて、襖の隙間からそつと覗いてみると、一雄は元氣で本と相撲をとつてゐるのだつた。一雄が相手にしてゐる大きな書物は、本の癖に手足をもつてゐて、なかなか倒れない。一雄は餘程汗が出るとみえて、たうとう肌脱ぎになつて、手拭で鉢卷をした。それから奮然と本へ組みついて行つたが、海龜のやうな書物は、見る見るうちに一雄をばつたりと疊の上に倒してしまつた。一雄は元氣を失つて、顏が眞靑になつた。ひどいことをする奴だと、しんは口惜しくなつて、次の間へ飛込んで行つた。しんが一雄の頭を抱へて起さうとすると、一雄は蟲のやうな息をしてゐた。「どうしたのです。元氣を出しなさい」としんが云ふと、息子は細い眼を見開いて、「ああ、若しかつた」と呟いた。それから不審さうにあたりを見𢌞して、「さつき、ここに大きな龜がやつて來て僕をいぢめたのだが、何處に行つたのかしら」と云つた。しんも息子に氣をとられてゐて、さつきの書物の怪物のことを忘れてゐたが、氣がつくともうそれらしいものは見あたらなかつた。ただ、一雄の周圍にはいろんな書物が散亂してゐて、どたんばたんやつたらしい形跡が殘されてゐた。
一雄はうつろな瞳孔を開いて、ぼんやり天井を眺めてゐるのだが、餘程さつきの海龜が怕かつたのだらう、まだ心臟がどきどきと、しんの膝の上に響いた。さうしてゐる息子の姿は段々、素直な顏になつて行くので、しんは嬉しかつた。額から眉のあたりがそつくり義造に似てゐて、頤や下唇は子供らしくつるりとしてゐたが、頰が病後のやうに瘦せてきて、産毛が侘しさうに生えてゐるのは、どうやら一雄ではなくて二郎のやうな氣がした。さう思ひ出すと、たしかその顏は二郎であつた。二郎は長い病ひですつかり窶れた靑年らしい瞳に、なほ生きることの希望を燃やしてゐるらしく、美しくキラキラ光る淚を湛へて、しんの顏を見上げてゐるのだが、さうされると何だかしんは自分が苛められてゐるやうに辛かつた。ところが幸なことに二郎は次第に元氣を恢復して行つた。やがてむつくりと立上ると、さつきしんに甘えてゐたのを今になつて恥ぢてゐるのか、しんの方へは顏を外けたまま机の前の座蒲團に坐つた。それからあたりに散亂してゐる書物を兩手で寄せ集めると机の上に積み重ねて行つた。まるで橫木細工をしてゐるやうに書物の山は段々高くなつて行つたが、土臺の方が弱つてゐるために、ぐらぐらと左右に少しつつ搖れてゐるのだつた。それを二郎はまだ氣がつかないのか、無造作に後から後から積重ねて行く。しんは注意してやりたくなつたが、ああして折角獨りでいい機嫌で遊んでゐるものを、餘計なことを云つて怒らすにもあたるまいと、我慢してゐた。ふと本棚の方を見ると、壁の隅の薄暗い處から何かのこのこ這ひ出さうとしてゐるので、しんはまたさつきの海龜ではないかと冷やりとした。が、靜かに音もなく立上つて出て來たのは、三郎の友達だつたのでまづ安心した。
ところが、第一、二郎のところへ弟の友達が來るのも變だし、あんな處から這ひ出て來るのも怪しげだつたが、その友達は大きなペン軸を槍のやうに右手に抱へて、壁に映る影は細長い蜂のやうだつた。その友達は足音を祕めて、二郎の後へ近づいて行くので、これは怪しからぬと、しんが一聲叫ばうとした時、もうペン軸の先で机の上の書物に一擊を與へてしまつた。ガラガラガラと書物は崩れ落ち、それに和して窓のすぐ外で三郎の友達が五六人一齊に歡聲をあげて顏を覗かせた。ほつとして今氣がついたらしいのは三郎だつた。三郎は口惜しさに靑ざめ、ガタガタ手足を慄はせながら、窓の方を睥み返してゐたが、もうその時には友達は逃げてしまつたらしく、遠くでげらげら笑つてゐる聲が響いた。口惜しさは三郎の頭の芯を打つたのか、眼がぢいつと据つてしまひ、あんまり殺氣立つてゐるのでもう何にも見えないらしく、頭髮から茫と白い湯氣さへ立つてゐた。暫くすると三郎は何か手探るやうにして本棚の方へ近寄つて行つたが、抽匣から手斧を取出すと、やにはにあたりに散つてゐる書物を割り出した。三郎は薪を割るやうな恰好で斧を振上げ振下すのだが、書物が割れる度にパツパツと火花が散つた。呼吸をもつがずやつてゐるのは餘程口惜しさの餘りだらうが、あんなに弱い身體の癖に、あんまり無茶をやつてくれなきやよいがと、しんははらはらして留めるすべもなかつた。[やぶちゃん注:「抽匣」「ひきだし」。]
そのうちに三郎は到頭ふらふらになつて倒れてしまつたが、まだ口惜しさが殘つてゐるのか、倒れたままも地蹈鞴を蹈むやうなつもりで、足をバタバタやつてゐた。はだかつた懷から鳩尾の凹みがみえ、その凹みには膏汗が貯まつて、薄い煙を發してゐた。あんなにひどく怒つては今に死んでしまふだらうに、どうして平靜になれないのかしらと、しんは疊の上に落ちてゐた厚紙で遠くからそろそろ煽いでやつた。すると多少人心地がついたのか、三郎はぱつと眼を見開いた。「あんまり怒るものぢやないよ」としんが宥めると、三郎は不思議に淚ぐみ出した。「お前のやうに何でも彼でも一々本氣にとりあはうものなら腹も立つだらうが、世間には腹を立てるのが馬鹿馬鹿しい程腹の立つことだつてざらにある。お前がそんなものに一々腹を立てるなら、それこそ相手の望むところで、馬鹿をみるのはお前一人だよ」と、しんが云ひ聞かせてゐるうちに、三郎の顏は段々赤ん坊らしくなつて來た。赤ん坊になつてしまつてからも、三郎はまだ時々噦るやうに呼吸をするので、しんは兩手に抱き上げて、口に乳房を含ませてやつた。
[やぶちゃん注:「地蹈鞴を蹈んで」「地蹈鞴」の「蹈」は底本の用字(但し、後の「蹈んで」は底本では「踏んで」)。「地蹈鞴」は「ぢだたら」で鞴(ふいご)を頻りに踏むことから、「地団駄(じだんだ)を踏む」、悔しがったり怒ったりして激しく地を踏むの意と同義。「噦る」「さくる」或いは「しやくる(しゃくる)」と読み、しゃっくりをする、或いは、しゃくりあげて泣く、の意。]
すると、三郎は咽喉が乾いてゐたとみえて、夢中で乳豆をしやぶり出すのだつた。しんは三郎の鼻翼に出てゐる汗をそつと拭き除つてやりながら、厚紙で襟の邊へ風を入れてやると、三郎はすつかり安靜になつたらしく、すやすやと陸り出した。三郎はまだ乳房を離さなかつたので、しんは暫くぼんやりと坐つてゐた。三郎は時々、乳の出の惡い乳豆を無理に吸はうとして、ちゆるちゆると膚を鳴らしてゐたが、突然、がくりと乳豆に嚙みついた。「痛いよう」と、しんがびつくりして悲鳴をあげ、三郎を押返けようとすると、乳豆に嚙みついてゐるのは死んだ娘の芳枝だつた。今も死んでゐるのか、蠅のやうな頭をして、大きな丸髷ばかりが艷々と黑かつた。
きやつと叫んで、しんは逸散に逃げ出した。どこをどう逃げて行つたのか、何時の間にやら、階下の緣側まで來てゐたが、其處でまたばつたりと芳枝に出逢つた。しんは到頭、觀念して、ぺつたりと緣側に坐り、念佛とともにガタガタ傑慄へた。ところが芳枝はさつきからしんの肩を搖さぶりながら、頻りに心配さうな聲で、「お母さん、お母さん」と呼んでゐるらしい。しんは眼を塞いだまま、「ああ、おどろかさないでくれ」と絶え入るやうな聲で云つた。「何を云つてるのよう。お母さん、しつかりして頂戴な」と云ふ聲がすぐ耳許でして、温かい息が首筋に觸れた。それでそつと薄眼を開いて見ると、どうやら相手は芳枝ではなく妙子らしかつた。「ああ、びつくりした。お前の顏が死んだ姉さんそつくりに見えたのだもの」さう云つてしんはまだ苦しさうな息をした。「私の方が吃驚するぢやないの。どうなさつたのかと思つてはらはらしてしまつたわ」と妙子は少し不平さうに云つた。「あんまり苦勞を重ねたせゐだよ」としんが詫びるやうに甘え心地で云つた。それから、しんはすつかり安堵して、却つて子供らしくなつた。「一緒に少し步いてみないか。晴々するよ」「まあ、もう氣分は大丈夫なのですか。をかしい」と妙子は笑ひながら、それでもしんの手を執るばかりにして、外へ出た。
玄關を出ると、すぐ家の前にはアスフアルトを修繕するために變な車が置かれてゐて、その車から陽炎がぺらぺら昇つてゐた。大變、季節がいい證據には、街の上の空が靑く潤んでゐて、白壁からはみ出してゐる無花果の葉に透き徹る陽光があつた。しんの後から微風が吹いて來て、妙子の髮がふわふわと搖れた。しんは娘の髮が明るい光でみると赤茶けて煙つてゐるのを後から眺めながら步いた。ふと、妙子は振向いて、「お母さん、どこへいらつしやるの」と尋ねた。「お寺」としんは子供のやうな聲で答へた。すると娘はまるで母親のやうに分別顏で頷いた。その時、妙子の頭のすぐ二三間上を蝙蝠が一匹くるくる舞ひながら飛んで行つた。しんは娘に何だか置去りにされさうで不安になつたが、手を引いてくれと云ふのが遠慮だつた。向ふの角の疊屋のところから栗毛の馬を連れた洋服の男が現れた。馬の橫腹がピカピカ光つてゐて、おそろしく元氣がよささうだつた。惡いことには、さつき飛去つた蝙蝠がまた現れて來たかと思ふと、馬の鼻つらを掠めて飛んで行つた。パタン! とピストルを撃つやうな音がした。馬が暴れ出したのだつた。忽ち馬は四つの足で地面を蹴飛ばしながら、鬣を反らして、しんの方へ突進して來る。しんは周章てて果物屋の奧へ身を潛めたが、妙子を顧る暇がなかつた。その時、はつしゆ、はつしゆ、ぷるぷる、と、白いいきれと其赤な塊りが門口を掠めて過ぎ去つた。やがて蹄の音も遠のいたので、しんは恐る恐る往來を覗いた。
ところが、何時の間に現れたのか三人の無賴漢が妙子の腕を拗ぢ上げて、今何處かへ連れ去らうとしてゐた。三人とも鼬のやうに後を見ながら、足はせかせかと步いてゐた。拗ぢ上げられてゐる妙子の白い腕は今にも折れさうに曲つてゐた。しんは泣聲で往來へ飛出すと、男達の後を追つて、「妙子を返せ、妙子を返せ!」と號んだ。男達は暫く困つたらしく立留まつて、しんを橫眼で眺めてゐたが、やがて何か策略が出來たのか、三人は突然お互にお叩頭をし合つて、「やあ、これは暫くでした」「ところで景氣は如何です」「いえ、何しろお互にワハハハ」と立話をし始めた。見ると何處へ隱してしまつたのか妙子の姿はなかつた。しんは一層嚇怒して、「妙子を返せ、妙子を返せ」と三人のまはりをぐるぐる喚き𢌞つた。男達は一向平氣で談笑を續けてゐたが、「あの女は何でせう」「さあ、この邊の氣違でせうな」「見たことのあるやうなキじるしですな」「何やら喚いてるやうですな」「なあに、亭主が欲しい、亭主が欲しいつて云ってるのでせうよ」三人は面白さうにじろじろと、しんを見物し出した。「その手は喰はぬぞ。ひとの娘を如何して隱した。さあ、妙子を返せ、妙子を返さぬか」と、しんは三人に喰ひついてやり度くなつた。[やぶちゃん注:「拗ぢ上げられて」またしても違う漢字であるが、これは普通に正しく「ねぢあけられて」と訓ずることが出来る。「嚇怒」「かくど」で激しく怒ること。激怒と同義。]
その時後から、「お母さん、お母さん」と呼ぶ聲がしたので、振向くと、何時の間にか娘は元の姿で平氣さうに立つてゐる。「どこへ迷つてたの、隨分探したのに」と娘は脹れ面をした。「お前こそ、どこへ消えてたの」としんは嬉しさに息もつげなかつた。それから何度も娘の顏を見守つたが、たしかに妙子であつた。見るとさつきの三人連れは何時の間にか向うの方へぶらぶら步いて行くのだつたが、如何にも紳士らしく落着拂つて肩を竝べてゐた。「もうこれからは消えないでおくれよ」と、しんは娘と竝んで步きながら云つた。「何を云ふのよ。變なことばかり云つてお母さん駄目ぢやないの」と娘はつんと澄ましてゐた。そのうちに二人はお寺の門まで來てゐた。すると娘は急に忙しさうな顏をして、「後でお迎ひに來ますから一人でお説教聽いてゐらつしやい」と命令した。「お前も一緒にまゐつてはくれないのかい」「だつて、私はまだ洗濯もしなきやならぬし、縫物だつて貯つてゐるのですよ」さう云つたかと思ふともうとんとんと勝手な方向へ消えて行つてしまつた。
しんはぼんやり立留まつて、躊躇してゐたが、やがて諦めてお寺の門を潛つて行つた。何時の間に改築されたのか、甃石がタイル張りになつてゐたし、正面の建物もまるで銀行のやうな扉があつた。石段を昇つて、しんが重たい扉の前でおどおどしてゐると、洋服を着た少年がいち早く扉を開けてくれた。内部はステンドグラスの天井から綠色の照明が落ちてゐて、金網で向ふが仕切られてゐた。金網の向ふには大きな時計や金庫らしいものがあつたが、「一錢也十錢也百圓也三錢也」と奇妙な聲や、時々、ヂヤラン、ヂヤランと樂器を打つやうな音がした。髮を綺麗に分けた男子達が、金網の向ふで絶えず動作を變へてゐた。しんがぼんやり呆氣にとられてゐると、守衞らしい男が側にやつて來て、「あなたはこちらです」と。一つの窓口へ連れて行つて呉れた。その窓口には二郎の中學の時受持の先生だつた男とそつくりの紳士がゐた。相手は萬事、呑込顏で丁寧にお叩頭をすると、「どなた樣でしたかしら。ほあ、左樣でゐらつしやいますか。その、ええ、この節は銀行もよく破産致しますので、成程、御尤で御心配に達ひありませんが、いや、なあに、今日とも知らず明日とも知らずと申しますのは人間の壽命のことでして、それだから、そもそも人間、貯蓄をなさらなきやならぬのです。おわかりになりましたか」[やぶちゃん注:「甃石」「しきいし」と訓じていよう。]
さう云ひながら、頻りに眼球をパチパチ𢌞轉させて、机の上で蜜柑を剝いでゐた。やがて彼は蜜柑を一袋、自分の唇へ持つて行つて默つて味はつてゐたが、急いで指尖で別の一袋を摘むと、それをしんの唇許へ突出して、「一ついかがです、まことに結構な味で御座います」と、にやにや笑ひ出した。あんまり突然だつたので、しんが周章てて、その蜜柑の一袋を掌で拂除けると、袋はゴロゴロと床の上に落ちた。「ワハハハ、お氣にさはりましたか。こいつはどうも、ワハハハ、まあ奧さん、あのおつこちた蜜柑の恰好見てやつて下さい。こいつはどうも、ワハハハ」あんまり彼が大袈裟に笑ひ出したので、他の銀行員達も何事かと彼の周圍へ集まつて來た。そして何が何やら譯もわからぬ癖に忽ち笑ひが傳染して、床の上の蜜柑の袋を指差しては「ワハハハ、こいつはどうも」「ワハハハ、こいつほどうも」とてんでに腹を抱へて騷ぎ出した。
そのうちにまた、ヂヤラン、ヂヤランと樂器を打つやうな音が響き亙ると、今迄無意味に騷ぎ𢌞つてゐた連中はあわてて奧の方へ逃げて行つた。すると天井の方から、牡丹に唐獅子を染めた幕がするすると降りて來て、しんは何だか自分の立つてゐる處がくるくる𢌞つて行くやうな氣持だつた。と、思ふと、パチパチパチと拍手が湧いて、しんの周圍はぎつしり人で滿ちてゐるのだつた。と、しんのすぐ橫には三郎がキヤラメルをしやぶりながら小學生の帽子を被り、片手を頻りにしんの手に繫いでゐた。再びヂヤラン、ヂヤランと樂器が鳴つて」幕が上ると、辮髮の支那服の男が六七人どかどかと現れた。と見ると、彼等は忽ち、ヤハチヨンと掛聲もろとも、宙返りを打つて、手に持つてゐる鐵の棒をお互にガチンと打ち合はせた。それからもう逆立やら宙返りやら呼吸をもつがぬ猛烈な立𢌞りが始まり、それにつれて奇妙な囃が一頻り鳴渡つた。遠くの方で、時々、ウオーと唸るライオンの聲や、ピシ、ピシと打つ鞭の音も聞えた。その雜音のなかには焰硝の臭ひや、筵埃が立籠め、人いきれでしんの耳は熱く火照つて來た。もう何を見てゐるのやら目の前のごたごたした景色もぼんやりして、しんは睡むたいやうな、うつとりした氣持でゐた。ふと、氣がつくと、何時の間にかさつきの曲藝は終つてゐて、今舞臺には三人の紳士が竝んで立つてゐた。紳士達は何か始めるらしく、神妙な顏つきをしてゐたが、どうも見憶えのある顏だと思つたら妙子を誘拐かさうとした連中だつた。しんは胸騷がして、氣色が惡くなつたので、人混みのなかを揉分け、ずんずん出口の方へ出て行つた。外へ出ると少し淸々した。もう夕方らしい光線であたりは黃色つぽく染められてゐた。高い櫓の上からクラリネツトの音が風にちぎられて飛んでゐて、自轉車屋の飾窓に赤い太陽が溢れてゐた。しんはその飾窓が眩しいので、橫の日蔭の小路へ這入らうとすると、そこには大變な人だかりで、今、何事かあるらしかつた。[やぶちゃん注:「それにつれて奇妙な囃が一頻り鳴渡つた」の「囃」は底本では「口」+「雑」の字体である。ブラウザで表記出来ないこと、この字は「囃」(はやし)の異体字であることから、特異的に「囃」で示した。「ヤハチヨン」中国語の掛け声のカタカナ音写と思われるが、不詳。「焰硝」「えんせう(えんしょう)」で有煙火薬の俗称。「筵埃」読み不詳。「むしろほこり」「むしろぼこり」か。莚(むしろ)をはたいた時の埃か。「誘拐かさう」「かどわかさう(かどわかそう)」。]
近寄つてみると、一臺の空の荷馬車が放つてあつた。しんは何のことか解らないので、暫くぽかんとしてゐた。すると間もなく人垣を押分けて、荷馬車のところへ馬丁が現れた。馬丁は悠々と落着拂つて何か考へてゐるらしかつたが、「ところでえーと、君、君、ちよつとここへ來い」と、誰かを指差して差招いた。呼ばれて出て來たのは、意外にも妙子であつた。妙子は頭をうなだれた儘、兩方の掌でしつかりと袂の裾を握り締めてゐた。しんは周章てて荷馬車のところへ飛出し、「これは私の娘です。何か惡いことでもしたのですか」と性急に尋ねた。馬丁は胡散さうな眼でじろつとしんを見下し、「お前さんは引込んでろ」と命令した。それから默々と妙子を眺め𢌞してゐたが、「袂の裾を握るんぢやない」と一喝すると、妙子は電流に打たれたやうに兩手を袂から離した。しんは默つてゐられなくなつた。「何故、私の娘覽にそんな劍幕を振ふのか。あなたは一體誰だ」馬丁は輕く肩を聳かして、「譯は後で話す」と云つた。さう云つて今度は馬の腹へ近寄つて、馬具を直してゐたが、ふと妙子の方を振向いて、「ああん、いい加減に謝罪せんか」と云ふのであつた。妙子が相變らず默つた儘うつむいてゐると、馬丁はまた彼女の側に近寄り、「強情張ると君の爲にならんぞ」と妙子の肩を小衝いて、それから靜かな口調で話し出した。「なあ、君は第一、左側通行を守らなんだのがいけないのだ、それに我輩の馬車に衝き當つておいて默つて行過ぎるつて法もないのだ」「それ位のことにそんな難癖つけるのですか」と、しんは再び口を挿んだ。「引込んでろ。お前さんに云つてるのぢやない。ああん」と呶鳴つておいて、馬丁は馬車の上にどかりと胡座をかいて坐つた。[やぶちゃん注:「胡坐」「あぐら」。]
「大體そのう、その精神がよくないのぢや。我輩はお前さんの子供を知つとるが、どいつもこいつも氣に喰はん。あんなことで世間が渡れると思ちよるのか。ああん」と云ひながら、馬丁は何時の間にか德利を出して、ごくごくと酒を飮むのであつた。「世間と云ふものは團栗の丈競べぢやが、お前さんの産んだ息子は氣違茄子ぢや」と馬丁は大分醉ぱらつたとみえて、變てこなことをべらべら喋り出した。しんは息子の惡口を云はれるので腹が立ち、ぢつと馬丁を睥み、まるで章魚のやうな男だと肚のなかできめた。ところが、馬丁は急にぷつと口を閉ぢると、眼をまぢまぢさせて、肩を左右に搖り出した。てらてら光つてゐた顳顬の邊が段々窄つて、ギラギラ輝いてゐた眼も霞み、と思ふと、窄めて突出してゐた唇をぴよいと開いて、ちゆちゆと空氣を吸はうとした。それからその男の表情はどうも自分ながら合點が行かないらしく宙にさ迷つてゐたが、もう全くほんものの章魚になつてゐた。するとさつきまで荷馬車だと思つてゐたのが早速爼に變つてしまつた。[やぶちゃん注:「章魚」「たこ」(蛸)。「顳顬」「こめかみ」(蟀谷)。二箇所の「窄」は「すぼ(む)」と訓じていよう。「爼」「まないた」(俎)。]
爼の上にぐにやりと倒れた大きな章魚を、今、頻りに白い手が現れて揉み出した。皿のまはりには割烹着を着た女達が集まつてキヤツキヤツと笑ひ出した。見ると一雄の嫁も、妙子もゐる。皆ががやがや云つて、てんでに働いてゐる。白い德利や、小鉢や皿がぐらぐら笑ひ、鍋からぼつぽと白い輪が出る。さうなると、しんもぼんやりしてゐられないので、しちりんに掛つてゐる豌豆を笊に移した。すると、しんの袂の橫から、何時の間にか孫達がやつて來て、筑の碗豆を摘み喰ひする。竃の下に燃えてゐる火からザザザザザと走つて行く兵隊の靴の音がする。と、思ふと誰かが蛤をガラガラ洗ひ、何處かで機關銃もパンパンパンと鳴り出す。ひひひん、と女中が馬の笑ひ聲を放つ。J・O・Z・K・J・O・Z・E……J・O タツクタカチテタ、トテチテタと喇叭が鳴る。ビユーウとサイレンが鳴る。しんはそれらの騷音にすつかり逆上せ、今、背伸して頭を上にあげた。すると、眼には薄暗い天井の天窓が映つたが、忽ち腦貧血とともに、身はふわと宙に浮び、天窓の外へするすると運び出された。[やぶちゃん注:「J・O・Z・K・J・O・Z・E……J・O」意味不詳。識者の御教授を乞う。「逆上せ」「のぼせ」。]
しんが屋根の上に這ひ出してみると、不思議なことに、そこは何時の間にか宴會場になつてゐるのだつた。紋附を着た男や女が、てんでに瓦の上に坐つて、御馳走を摘んでゐた。どれもこれもしんの内輪の人ばかりだつたし、第一すぐ頭の上に靑空があつて見晴しがいいせゐか、皆晴々とした顏であつた。見ると向ふの煙突には義造の寫眞が吊されてあつた。皆は空に浮ぶ白雲を眺めながら、悠々と酒を飮むのであつた。やがて、叔父が立上つて、「今日は義造さんの十七囘忌でほんとに結構なことです。それにこんなに皆が揃へて愉快この上ありません」と演舌し出した。「それにつけても、つけましても、とにかく、しんさんの偉大さは偉大なものです」すると皆がパチパチと拍手をした。その時、屋根の下にゐた鷄が、「お母さん、萬歳」と啼いた。皆は面白がつてまた拍手をした。そこで、しんは立上つて皆に晴々と挨拶をした。
「有難う、有難う。何も私がそんなに偉いのではありません。私はただ一羽の鳥ですよ。お父さんだつて一羽の鳥です。さうして皆さんもやつぱし終には鳥になられます。それ御覽なさい」と、しんが指差す義造の寫眞は、ぱつと眞白な鳥になつたかと思ふと、靑空へ飛んで行つた。おやおやおや、と皆が驚いてゐると、「私も飛んで行きますから、皆さんも後から來て下さい」と、しんが云ひ、さう云つたと同時に、しんはもう一羽の鳥になつて、義造の後を追つて行つた。あらあらあら、と皆は呆氣にとらはれながら、一人づつ、忽ち鳥となつては、ばたばたと飛んで行くのであつた。
« もともと | トップページ | 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 明治四一(一九〇八)年東京府立第三中学校第四学年夏季休暇中の七月二十一日から八月三十一日までの芥川龍之介満十六歳の日誌 »