ガリヴア旅行記 K・Cに 原民喜
[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年三月号(原民喜が没した(三月十三日)翌月に当たる)『近代文学』初出。
底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集Ⅱ」を参考底本に用いたが、昨日、本カテゴリ「原民喜」で電子化注を完成したジョナサン・スイフト原作・原民喜譯「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)の表記に則り、恣意的に漢字を概ね正字化した。本篇は既に新字正仮名版が「青空文庫」で公開されているが(二〇〇二年七月二十日作成)、私のこの電子テクストはこの仕儀により、より原民喜の原稿に近いものとなっていると考えている。
なお、副題の献辞者「K・C」はイニシャルから考えて、親友の詩人長光太(ちょう こうた 明治四〇(一九〇七)年~平成一一(一九九九)年)ではないかと推定される。末尾に「(二五・八)」とあるが、これは昭和二五(一九五〇)年八月のクレジットである。少なくとも、この年の年末には自死を決していたと考えられる。
第一段落の「吻と」は文脈から考えて「ほつと」(ほっと)と当て訓しているものと思われる。
同段の「老水夫の話にきき入つてゐる少年ウオター・ロレイの繪」の「ウオター・ロレイ」とはイングランドの女王エリザベスⅠ世の寵臣にして探検家・詩人であったウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh 一五五二年又は一五五四年~一六一八年:新世界アメリカに於いて最初のイングランド植民地を築いたことで知られる。信頼されていたエリザベスⅠ世が一六〇三年四月に死去すると、同年十一月に内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に一六一六年まで凡そ十二年監禁されている。それが解かれた同年、南米にエル・ドラド(黄金郷)を求める探検隊を指揮して向かったが、その途中、部下らがスペインの入植地で略奪を行い、一行がイングランドに帰還後、憤慨したスペイン大使がジェームズⅠ世に彼の死刑を求め、一六一八年十月十八日に斬首刑に処せられている。以上はウィキの「ウォルター・ローリー」に拠った)の少年時代を描いた、イギリスのラファエル前派の画家サー・ジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais 一八二九年~一八九六年)の一八七一年の作品“The boyhood of Raleigh”を指している。Wikimedia Commons(英文)にある再使用許可画像をここに掲げておく。
挿入される「ボードレール」の『「航海」といふ詩』というのは、シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の「悪の華」(Les
Fleurs du mal:初版・一八五七年/第二版・一八六一年/第三版(没後)一八六九年)の中の「死」(La mort)パートの最後の一篇“Le
voyage”(「旅」とも訳される)で、この一篇には“A Maxime Du Camp.”という献辞が附されている(マクシム・デュ・カン(Maxime Du Camp 一八二二 年~一八九四年)はボードレールの友人で写真家。写真集「エジプト、ヌビア、パレスティナ、シリア」(Egypte
Nubie Palestineet Syrie 一八五二年~一八五四年)で知られる)。全八章から成る長詩で、この引用は、その第一連。フランス語原詩全文はこちらで読め、詩人小林稔氏のブログ「ヒーメロス通信」のこちらで邦訳が読める。原民喜の訳はかなり原詩に忠実である。
「ニユーホランド」“New Holland”。オーストラリア大陸の歴史的名称。
「この物語を書いた作者が發狂して、死んで行つた」最愛の女性や良き協力者であった友人らが亡くなる中、スウィフトに最初に病気の徴候が顕れたのは一七三八年であった。一七四二年になると発作が起こるようになり、会話能力を失うとともに精神障害が発現、一七四五年十月十九日、満七十七歳で亡くなった。なお、実は彼の罹患していた疾患は実は梅毒性の神経障害であった。その罹患はダブリン大学トリニティ・カレッジ(Trinity College, University of
Dublin)在学時代に買った売春婦からうつされたものであったが、スゥイフトは自分が梅毒に罹患していることを知っており、それが進行して発狂するのではないかということを非常に恐れていたことは事実であった。芥川龍之介は「侏儒の言葉」の「人間らしさ」で次のように述べている。
*
「人間らしさ」
わたしは不幸にも「人間らしさ」に禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「人間らしさ」に輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事實である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。
スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。
*
私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)』も参照されたい。
「ゴーゴリの場合」ウクライナ生まれのロシアの作家ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь 一八〇九年~一八五二年)は、一八四八年、宿願であったパレスチナへの巡礼旅行を終えてロシアへ帰って後は、一旦、焼き捨てた「死せる魂」第二部の執筆を続け、一八五一年末には完成に近づいていたらしいが、かねてより、霊的指導者として文通していた神父マトベイ・コンスタンチーノフスキーの影響も手伝って、「神の啓示なしに」作家としてとどまることに罪悪感を抱くようになり、一八五二年二月、完成直前であった「死せる魂」第二部の原稿を焼却してしまうと、その後、間もなく、半ば錯乱した状態のまま、断食に入り、三月四日の朝、絶命した(以上は小学館「日本大百科全書」の木村彰一氏の解説に拠った)。
なお、最終段落に語られる、被爆直後の馬のシークエンスは、随筆「一匹の馬」(初出未詳)に語られているので、本篇の公開後に電子化する(公開終了。こちら)。]
ガリヴア旅行記
K・Cに
この頃よく雨が降りますが、今日は雨のあがつた空にむくむくと雲がただよつてゐます。今日は八月六日、ヒロシマの慘劇から五年目です。僕は部屋にひとり寢轉んで、何ももう考へたくないほど、ぼんやりしてゐます。子供のとき、僕は姉からこんな怪談をきかされたのを、おもひだします。ある男が暗い夜道で、怕い怕いお化けと出逢ふ。無我夢中で逃げて行く。それから灯のついた一軒屋に飛込むと、そこには普通の人間がゐる。吻と安心して、彼はさきほど出逢つたお化けのことを相手に話しだす。すると、相手は「これはこんな風なお化けだらう」と云ふ。見ると、相手はさっきのお化けとそつくりなのだ。男はキヤツと叫んで氣絶する。――この話は子供心に私をぞつとさすものがありました。一度遇つたお化けに二度も遇はすなど、怪談といふものも、なかなか手のこんだ構成法をとつてゐるやうです。
先日から僕はスウイフトのガリヴア旅行記をかなり詳しく讀み返してみました。小人國の話なら子供の頃から聞かされてゐます。夏の日もうつとりして、よく僕は小人の世界を想像したものです。子供心には想像するものは、實在するものと殆ど同じやうに空間へ溶けあつてゐたやうです。さういへば、少年の僕は、船乘になりたかつたのです。膝をかかへて、老水夫の話にきき入つてゐる少年ウオター・ロレイの繪を御存知ですか。あの少年の顏は、少年の僕にとても氣に入つてゐたのです。
地圖を愛し版畫を好む少年には
宇宙はその廣大なる食慾に等し。
ああ! ランプの光のもと世界はいかに大なることよ!
されど追憶の眼に映せばいかばかり小なる世界ぞ!
ボードレールは「航海」といふ詩でかう嘆じてゐますが、僕自身は今でもまだ人生の航海を卒業してゐない人間のやうです。
しかし、近頃の新聞記事を讀むと、何だか、この地球はリリパツトのやうに、ちつぽけな存在に思へて來るのです。卵を割つて食べるのに、小さい方の端を割るべきか、大きい方の端を割るべきかと、二つの意見の相違から絶えず戰爭をくりかへさねばならないほど、小ぽけな世界に……
だが、小人國から大人國、ラピユタ、馬の國と、つぎつぎに讀んで行くうちに、僕はもつとさまざまのことを考へさせられました。この四つの世界は起承轉結の配列によつて、みごとに效果をあげてゐるやうですが、僕を少しぞつとさせるのは、あの怪談に似た手のこんだ構成法でした。
小人國からの歸りに、ガリヴアは船長にむかつて躰驗談をすると、てつきり頭がどうかしてゐると思はれます。そこでポケツトから小さな牛や羊をとり出して見せるのです。そして、その豆粒ほどの家畜をイギリスに持つて歸って飼つたなどといふところは、まだ輕い氣分で讀めます。しかし、大人國からの歸りには、ガリヴアは箱のなかにゐて、鷲にさらはれて海に墜されて、船で救はれるのですが、ここでも船員たちとガリヴアとの感覺がまるで喰ひちがつてゐます。最初私を發見したとき何か大きな鳥でも飛んでゐなかつたかと、ガリヴアが訊ねると、船員の一人は、鷲が三羽北を指して飛んでゐるのを見た、が大きさは別に普通の鷲と變ったところはなかつたと答へます。もつとも非常に高く飛んでゐたので小さく見えたのだらうとガリヴアは考へるのですが、これは少し念が入りすぎてゐるやうです。そして、こんな手法は馬の國からの歸航では更らに陰欝の度を加へてくりかへされてゐます。ここでは人間社會から逃げようと試みるガリヴアの悲痛な姿がまざまざと目に見えるほど眞に迫つて訴へて來ますが、奇妙なのは船長とガリヴアとの問答です。はじめ彼の話を疑つてゐた船長が、さういへばニユーホランドの南の島に上陸して、ヤーフそつくりの五六匹の生物を一匹の馬が追ひたててゆくのを見たといふ人の話をおもひだした、といふ一節があります。實に短かい一節ながら、ここを讀まされると、何かぞつと厭やなものがひびいて來ます。何のために、こんな念の入つたフイクシヨンをつくらねばならなかつたのかと、僕には、何だか痛たましい氣持さへしてくるのです。
身振りで他國の言葉を覺えてゆくとか、物の大小の對比とか、さういふ發想法はガリヴア全篇のなかで繰返されてゐます。この複雜な旅行記も、結局は五つか六つの回轉する發想法に分類できさうです。だが、それにしても、一番、人をハツとさすのは、ヤーフが光る石(黃金)を熱狂的に好むといふところでせう。僕は戰時中、この馬の國の話を讀んでいて、この一節につきあたり、ひどく陰慘な氣持にされたものです。陰欝といえば、この物語を書いた作者が發狂して、死んで行つたということも、ゴーゴリの場合よりも、もつと凄慘な感じがします。
また僕は五年前のことをおもひ出しました。原爆あとの不思議な眺めのなかに――それは東練兵場でしたが――一匹の馬がゐたのです。その馬は負傷もしてゐないのに、ひどく愁然と哲人のごとく首をうなだれてゐました。(二五・八)
« 安心したまえ | トップページ | 一匹の馬 原民喜 »


