柴田宵曲 俳諧博物誌(27) 鶴 一
鶴
一
日本における鶴はおめでたいものときまってしまった。おめでたいものは動(やや)もすれば陳套(ちんとう)に陥り、俗に堕する虞がある。「人に死し鶴に生れて冴返る」という漱石氏の句などは、仮令(たとい)丁令威(ていれいい)の故事を持出さないにしても、どこまでも支那趣味の鶴で、日本の鶴亀松竹趣味では割切れない。芥川氏の「動物園」に「縣下第一の旅館の玄關、芍藥(しやくやく)と松とを生けた花瓶、伊藤博文(いとうはくぶん)の大字(だいじ)の額、それからお前たちつがひの剝製……」とあるのは、日本における月並趣味の鶴を指したので、仙禽たる漢土の鶴には縁が遠いようである。こういう伝統と全然没交渉な西洋人の眼には、鶴の首の長いのがむしろ滑稽に映ずるとか聞いている。ルナアルの『博物誌』には鶴を欠いているが、恐らく道化方としても多くの価値を認めなかったものであろう。
[やぶちゃん注:動物界脊索動物門脊椎動物亜門鳥綱ツル目ツル科のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属
Balearica・ツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus
に分かれる。通常、現行でも我々は鶴というと、百人中、九十九人は漠然と丹頂鶴、ツル属タンチョウ Grus japonensis をのみ想起してしまうが、これは博物学的には誤りである。私の最近の仕儀、「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」の注などを参照されたい。
「人に死し鶴に生れて冴返る」夏目漱石の明治三〇(一八九七)年の「正岡子規に送りたる句稿 その二十三」中の一句。子規は本句を秀句と認め、自身の他者の摘録句帳「承露盤」に転記している。私はいいと全く思わぬ。
「丁令威(ていれいい)の故事」私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「鶴になつた人」』を参照されたい。
『芥川氏の「動物園」』既出既注であるが、この「鶴」は「俳諧博物誌」の最後に当たる項なので、再掲しておく。大正九(一九二〇)年一月及び十月発行の雑誌『サンエス』に分割掲載された、明らかにルナールの「博物誌」の二番煎じのアフォリズム集。私の電子化注がある。引用部(これで「鶴」の全文)は私のそちらの表記で書き換えた。
「ルナアルの『博物誌』」既出既注。]
しかしあらゆるものは――それが芸術の世界に属する限り、問題は作者の手腕如何によって決せられなければならぬ。日本における鶴の画は、実物以上に世間に氾濫しているのみならず、月並な程度においても遥に実物を凌駕している。鶴を俗了し陳套化して、おめでたい世界に祭込んだものは、半ば画家の力によるのではないかと思われる位である。しかるに子規居士が病牀で絵本の中から鶴を探して見たところによると、「澤山の鶴を組合せて面白い線を作つて居るのは光琳。ただ譯もなく長閑に並べて畫いてあるのは抱一。一羽の鶴の嘴と足とを組合せて面白い線の配合を作つてゐるのは公長。最も奇拔なのは月樵の畫で、それは鶴の飛んで居る處を更に高い空から見下した所である」とあって、必ずしも平凡陳套を歎じてはいない。俗画家の俗了した鶴だけを見て、直にこれを品する尺度に当てるのは、月並連の作品を材料にして梅や鶯を説くようなものである。殊に昔は今のように、鶴といえば動物園や公園を連想する時代と違う。実際青天に羽持つ白鶴を目撃していたのだから、われわれもそのつもりで、古人の心に映じた鶴を見なければならぬ。
[やぶちゃん注:以上の子規の叙述は、子規が新聞『日本』に死の二日前まで書き続けた連載随筆(明治三五(一九〇二)年五月五日~九月十七日)、かの名作「病牀六尺」の「三十五」(末尾クレジットは六月十六日)の中の一条であるが、例によって宵曲の引用には途中に錯誤と脱落がある。当該部を引く(太字は傍点「◦」)。
*
一、そこらにある繪本の中から鶴の繪を探して見たが、澤山の鶴を組合せて面白い線の配合を作つて居るのは光琳。ただ譯もなく長閑に並べて畫いてあるのは抱一。一羽の鶴の嘴(くちばし)と足とを組合せてやや複雜なる線の配合を作つてゐるのは公長。最も奇拔なのは月樵の畫で、それは鶴の飛んで居る處を更に高い空から見下した所である。
*
この引用の誤りはひどい。
「光琳」尾形光琳(万治元(一六五八)年~享保元(一七一六)年)は画家・工芸意匠家。琳派の大成者。京都生まれ。尾形宗謙の次男で尾形乾山の兄。狩野派の山本素軒に学び、また、本阿弥光悦・俵屋宗達に私淑して、その作風の復興をも志し、装飾的で華麗な表現の世界を築いた。晩年は兄乾山の陶器の絵付も手がけ、工芸意匠にも優れた作品を残した。ここで子規が言っているのは恐らくは六曲一双の「群鶴図屏風」であろう。
「抱一」酒井抱一(ほういつ 宝暦一一(一七六一)年~文政一一(一八二九)年)は絵師・俳人。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し、江戸琳派の祖となった。これは例えば「群鶴図屏風」辺りか。前の光琳ともに個人ブログ「感性の時代屋」の『琳派の「鶴」』の画像をリンクさせて戴いた。
「公長」上田公長(こうちょう天明八(一七八八)年~嘉永三(一八五〇)年)は江戸時代に大坂で活躍した絵師。当時板行された人名録や絵師番付には必ずといっていいほど名が挙がる、近世大阪画壇を語る上で欠かせない画家の一人。
「月樵」張月樵(ちょう げっしょう 安永元(一七七二)年~天保三(一八三二)年)は文人画家。近江国彦根城下の表具師の息子として生まれた。長じて京に上り、近江醒井(現在の米原市)出身の絵師市川君圭に南画を習い、次いで与謝蕪村を師とする松村月渓に師事し、月樵の号を与えられた。蕪村没後、師である月渓が円山応挙の門に入る(応挙入門後月渓は呉春と号を改めた)と、月渓の画風は蕪村風の精神性豊かな文人風の筆法と応挙の写生を追及した筆法が融合し、平明だが、感情に溢れた画風を確立した。月樵は応挙門下の長沢蘆雪と特に親しく、応挙没後の寛政一〇(一七九八)年頃、蘆雪とともに美濃への旅に出たが、帰途、月樵は蘆雪と別れ、尾張名古屋に留まって、名古屋における南画中興の祖とされる山田宮常の画風を追求した。後、月樵は尾張徳川家の御用絵師として御用支配の役職を賜った上、名字帯刀を許され、名古屋城内の杉戸・屏風・襖に独特の気迫を持った花鳥山水画を多く描いた。この子規の言っている絵、不詳。知りたい、見たい。]
歳時記の春の部に「引鶴(ひきづる)」というのがある。北地へ帰る春の鶴を見遁(みのが)さぬ俳人が、日本に渡来するその姿に無関心でいるはずがない。
鶴の來る空や見る見る神無月 正秀
鶴なくやひゞきの灘を渡り口 荒雀
の二句はいずれも卯七(うしち)の編んだ『渡鳥集(わたりどりしゅう)』の秋の部に出ているので、渡る鶴を詠んだものであることは明(あきらか)である。「ひゞきの灘」は播磨灘の一部であるともいい、また筑前国遠賀郡の北、長門国豊浦(とよら)郡の西方なる灘をいうともある。荒雀は『渡鳥集』には山城の作者として挙げてあるけれども、あるいは何か九州に因縁のある人だつたかもわからぬ。この句は単に「ひゞきの灘」という地名を取入れたものでなく、毎年同じ処にあって同じ季節に鶴を迎える人の心持らしいものが感ぜられるからである。
[やぶちゃん注:「渡鳥集」は元禄一五(一七〇二)年跋で他に去来も編者に加わっている。「愛知県立大学図書館」公式サイト内の「貴重書コレクション」のここで原本の掲載部分が見られる。
「ひゞきの灘」を宵曲のように、現在の北九州と山口の間の「響灘」と採るならば、この空を飛んでいるのは、ツル属ナベヅル Grus monacha、或いはツル属マナヅル Grus vipio である。]
広瀬旭荘の『九桂草堂随筆』を読むと、久留米侯のために鶴を捉える者から聞いたといって、春先鶴の外国に赴かんとする時のことが書いてある。数十隊をなした鶴は悉く盤旋して直上し、影も見えぬほどになってから、いずくともなく翔り去る。盤旋直上するのはよほど骨が折れると見えて、一として鳴かざるはなしというのである。旭荘はこの話によって、はじめて「一一鶴聲飛上天(いちいちかくせいとんでてんにのぼる)」という楊臨賀の詩句の妙を悟ったといっている。天暖の候に及んで外国に赴くのは、季題にいわゆる「引鶴」であるが、これは実際に就ての観察だけに、簡単ながらいうべからざる力がある。九州の天地が鶴の去来と密接な関係を有することを想えば、『渡鳥鶴』の句に異色があるのは決して偶然ではない。
[やぶちゃん注:広瀬旭荘(ぎょくそう(底本は「きょくそう」と清音でルビを振っている) 文化四(一八〇七)年~文久三(一八六三)年:儒学者で漢詩人)の考証随筆「九桂草堂随筆」の当該条は「卷五」の「一々鶴聲飛上天云々」である。原文は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。短いので、電子化しておく。
*
一、一々鶴聲飛上天を偸みたるやの話しは、古今の笑柄なり、余未だ名句たるを覺えず、一日久留米侯の爲に鶴を捕ふることを掌る者より、鶴天暖の時に至り、將に外國に赴んとす、數十隊をなすもの悉く盤旋して直上し、影も見えぬ程に至り、而して後何ともなく行く、其上ること餘程骨折ことと見へ、一として鳴かざるはなしと云話しを聞けり、因て楊臨賀此句の妙を悟れり。
*
「楊臨賀」これは中唐の詩人で柳宗元の岳父であった楊憑ことであるが、どうも、おかしい。この「一一鶴聲飛上天」詩句は彼の詩の一句ではなく、同じ中唐の詩人で名の似通った楊衡なる詩人の、「句」という詩の、
*
賢人處霄漢
荒澤自耕耘
隴首降時雨
雷聲出夏雲
一一鶴聲飛上天
*
末尾の一句だからである。宵曲は広瀬の「九桂草堂随筆」の誤りを無批判に採り上げ、原詩の検証もせずに、ここに挙げてしまったのである。無論、誤って書いた広瀬に咎は大きいが、それをろくに調べずにかく転写し、わかったような気になっていた宵曲の責任も大きい。]
國に入込(いりこむ)つるや神無月 先放(せんぱう)
という句も、同じく渡って来た鶴なのであろうが、正秀の句に比すると、よほど見劣りがする。正秀にしても格別鶴の姿を描いているわけではないけれども、「空や見る見る」の中七字にいうべからざる力があって、現在鶴を仰ぎつつある作者の心持が、一句の真に脈々と動いている。「国々に入込」というのは隠密か何かのようで、単に言葉として見ても面白くない。
鳴渡る鶴の高さよ霜の月 卯七
名月やたしかに渡る鶴の聲 嵐雪
この二句は渡る鶴の句とも解釈出来れば、「あしべをさしてたづ鳴き渡る」の「渡る」意とも解せられる。卯七の句はやはり『渡鳥集』所収のものだから、渡る鶴と解すべきであるかも知れぬが、嵐雪の方は「鳴渡る」だけでもよさそうな気がする。ここらが俳句のいささか面倒な点で、「渡る」という言葉が含まれているために、解釈が二、三になるのである。「行雁(ゆくかり)の腹見送るや舟の上」という句なども、其角自身『五元集』の秋の部に入れているのだから、舟の空を飛び過ぐる雁と見て差支あるまいと思うが、「行雁」とか、「見送る」とかいう言葉に拘泥すれば、春の帰雁という解釈も成立つことになる。卯七や嵐雪の句も普通の詩歌であったら、「數行過雁月三更(すうかうのくわがんさんかうのつき)」と同様に解し去って、何も問題は起らぬのかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「五元集」榎本其角自撰・小栗旨原(おぐりしげん)編の、延享四(一七四七)年刊の俳諧集。其角自撰の千余句の発句集「五元集」と、句合わせ「をのが音鷄合(ねとりあはせ)」、旨原編の「五元集拾遺」からなる。
「數行過雁月三更」一般に上杉謙信(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)が、天正五(一五七七)年に能登国七尾城を攻め落とした際(十ヶ月余りかかった)、将兵を慰労する席で作った詩と言われ、「九月十三夜」(或いは「九月十三夜陣中の作」)と呼ばれるものの最終句。
*
霜滿軍營秋氣淸
數行過雁月三更
越山倂得能州景
遮莫家郷憶遠征
霜 軍營に滿ちて 秋氣 淸(きよ)し
數行(すかう)の過雁 月 三更
越山 倂(あは)せ得たり 能州の景
遮莫(さもあらばあ)れ 家郷 遠征を憶(おも)ふ
*
但し、左大臣光永氏のサイト「漢詩の朗読」のこちらによれば、頼山陽の「日本外史」に採り上げられているが、「北越軍記」などとは記述が違うので頼山陽によって改変がなされていよう、とある。]
おのこ共庭に下り菊を𢌞るに折ふし
鶴一行渡る各句有(あり)、予も苗
の時雁に云しをおもひて
鶴や來る雁に教へし菊の上 土芳
句は頗る妙でないが、庭に立って菊を見る空を一行の鶴が渡るという前書の趣は、想像しただけでもいい感じである。「苗の時雁に云し」とは、同じ年の春に「かへる雁來る比畠見わすれな」という「きく植る日」の吟があるのを指す。一行の鶴は即ち季節に従って渡り来ったので、雁との因縁もそこで繫(つなが)るのである。