柴田宵曲 俳諧博物誌(30) 鶴 四 /「俳諧博物誌」電子化注~完遂
四
子規居士の『病牀六尺』に「漢語で風聲鶴唳(ふうせいかくれい)といふが、鶴唳を知つて居るものは少い。鶴の鳴くのはしはがれたやうなはげしき聲を出すから、夜などはよほど遠くまで聞える。聲聞于天(こゑてんにきこゆ)というも理窟がないではない。もし四、五羽も同時に鳴いたならば恐らくは落人を驚かすであらう」と書いてあるが、この説は根岸近況数件の「某別莊に電話新設せられて鶴の聲聞えずなりし事」と関連があるらしい。鶴のいた別荘と子規庵との距離は何ほどでもなかったから、あの声は勿論居士の病牀にも聞えたはずである。われわれの鶴唳についての知識も、煎じつめれば某別荘の鶴に帰著するのかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「病牀六尺」の前者は明治三五(一九〇二)年の「九月四日」のクレジットを持つ「百十五」。傍点「●」は太字に代えた。
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○漢語で風聲鶴唳といふが鶴唳(かくれい)を知つて居るものは少い。鶴の鳴くのはしはがれたやうなはげしき聲を出すから夜などはよほど遠くまで聞える。聲聞于天(こゑてんにきこゆ)といふも理窟がないではない。もし四、五羽も同時に鳴いたならば恐らくは落人(おちうど)を驚かすであらう。
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単に「鶴唳」と言った場合は「鶴が鳴くこと・その声」であるが、「風聲鶴唳」は故事成句で、「怖気(おじけ)づいた者らが、何でもない少々のことに驚くことの譬え。戦さに敗れた前秦の苻堅(ふけん)の軍が風の音や鶴の鳴き声などにも驚き騒いで敗走したという「晋書」の「謝玄傳」の故事に基づく。だから子規も「落人(おちうど)」を出したのである。
後者は既出既注で、同年の七月十一日のクレジットを持つ「六十」の「○根岸近況數件」の五番目の条。]
しかし一般に鶴が珍しくなったのは、銃猟の発達した明治以後の話で、田圃郊野にしばしばその姿を見かけた昔は、鶴唳は実際に落人を驚かしたのみならず、耳にする機会がいくらもあったものであろう。古人はいろいろな場合にこの声を捉えている。
引鶴(ひくづる)の聲や流れて磯の月 后覺
時鳥(ほととぎす)聲まじる鶴の聲 杉風
萩の花咲そろふ日や鶴のこゑ 鼠彈
大名の耳にもさむし鶴の聲 風叩(ふうこう)
乘懸(のりかけ)の見𢌞し寒しつるの聲
昌尚
鶴の聲菊七尺のながめかな 嵐雪
名月や江はさわさわと鶴の聲 木導
蕣(あさがほ)の庭にのどけし鶴の聲 其糟(きさう)
秋ふかしみこの足どり鶴の聲 尺草
鶴の聲疊におつる火燵かな 野紅
翁の病中祈禱の句
木がらしの空見直すや鶴の聲 去來
畫讚
鶴啼くやその聲に芭蕉やれぬべし 芭蕉
畫讚
浦嶋(うらしま)がたよりの春か鶴の聲
其角
九日洛外にて
菊の日や旅の寢覺の鶴の聲 舎羅
わかのうら
ゆく月や國なきかたに田鶴(たづ)の聲
几董
和歌浦にて
春雨や松に鶴なく和かの浦 樗良
俳人は伝統的な風声鶴唳などということに深く拘泥しないから、ここにある鶴の声は多種多様である。同じ画讃の例にしても、芭蕉の句が如何にも鶴唳らしい悲涼な響を伝えているのに対し、其角の句はあくまで長閑(のどか)である。長閑でありながら、仙禽たる鶴の感じを失わぬのはさすがといわなければならぬ。和歌の浦の鶴は赤人(あかひと)の「和歌の浦に汐みち來ればかたをなみ」の歌を連想せしめやすい。九重の句はいまだこの歌の範囲を脱却せずに居るが、樗良は慥に別な世界に出た。松に鶴という極めて陳腐な配合が、春雨の中に置かれたため、絵画に見られぬ趣を発揮しているのは注目に催する。
[やぶちゃん注:嵐雪の「鶴の聲菊七尺のながめかな」は「其袋」(そのふくろ:嵐雪立机二年後の元禄三(一六九〇)年に成った彼の編になる大著の俳諧集。全二冊。江戸蕉門の俳人の句を主に収録)に載るが、菊を詠じた「菊花九唱」の一句、
菊花九唱 其五
菖(あやめ)のたけみやびやか
なるは哥のすがたなる也けらし。
菊をみて句をまうく
鶴の聲菊七尺のながめかな
という前書を持つ。「菖(あやめ)のたけみやびやかなるは哥のすがた」とは「古今和歌集」の「卷第十一 戀歌一」の冒頭を飾る、読み人知らずの一首(四六九番歌)、
郭公(ほととぎす)啼くや五月(さつき)の菖草(あやめぐさ)あやめも知らぬ戀もするかな
を指す。実は芭蕉もこの歌を、
ほとゝぎす啼くや五尺の菖草
とインスパイアしている(元禄五(一六九二)年)夏の作か)が、ここで嵐雪は「菖蒲(あやめ)」に「杜鵑(ほととぎす)」のカップリングを、遙かにすくっと佇立した「菊」と「鶴」に転じて、諧謔というよりも、原歌よりも遙かにフレーミングが大き、しかも雅びやかな世界を現出させていると言える。
芭蕉の「鶴啼くやその聲に芭蕉やれぬべし」は前書に「畫讚」とするが、これは引用元が判らぬ。「曾良書留」には、
はせをに靏(つる)繪がけるに
靏鳴(なく)や其聲に芭蕉やれぬべし
元禄二(一六八九)年四月十五日、「奥の細道」の旅の奥州のトバ口黒羽での贈答句。この句にはある種の棘があるように私は思っている。それについては私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅10 黒羽 鶴鳴や其聲に芭蕉やれぬべし 芭蕉』を参照されたい。
「和歌の浦」は和歌山県北部、現在の和歌山市南西部に位置する海浜を含む広域の景勝地で古来よりの歌枕でもある。ウィキの「和歌浦」によれば、現行の『住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する』とあり、「万葉集」にも『詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られない』ともある。『和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が』、
若の浦に潮滿ち來れば潟をなみ葦邊をさして鶴(たづ)鳴き渡る(「万葉集」巻第六(九一九番歌))
『と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている』。『平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる』とある。ここ一帯(グーグル・マップ・データ)。]
芭蕉が大坂の客舎で最後の病牀に就いた時、たまたま旅中にあって駈付けた其角は、師の平癒を祈るべく、
吹井(ふきゐ)より鶴をまねかん時雨かな 其角
という句を詠んでいる。この句は「天つ風吹飯(ふきい)の浦にゐるたづのなどか雲居にかへらざるべき」の歌を蹈えたもので、特に「吹井より鶴をまねかん」といったのは、回春を望むの意を寓したのであろう。去来の「木がらし」も同じ場合の作であるが、この鶴の声にも明るい希望の光がある。もし作者が風声鶴唳にのみ捉われていたならば、到底こういう鶴の声は点出し得なかったに相違ない。
[やぶちゃん注:「吹井(ふきゐ)」は本来は和泉国の歌枕としての「吹飯の浦」があるが、紀伊国の歌枕である吹上浜の異名と混同され、そちらで認識されることの方が多く、これもそのケース。先の「和歌浦」の北、和歌山城に至る部分にかつて存在した砂丘海岸。この附近(グーグル・マップ・データ)。以下に引く元歌は、「新古今和歌集」の「巻第十八 雑歌下」に載る、藤原清正の一首(一七二三番歌)、
殿上離れはべりて詠み侍りける
天つ風ふけひの浦にゐるたづのなどか雲ゐにかへらざるべき
天歴元(九五六)年正月に紀の国の守を任じられて、殿上から退く際に詠んだ歌。最昇殿の望みを期した一首。水垣久氏のサイト「やまとうた」の「藤原清正」の同歌の解説によれば、『『清正集』の詞書は「紀のかみになりて、まだ殿上もせざりしに」とあり、紀伊国守となって都を離れる時、紀伊の歌枕「ふけゐの浦」に言寄せて、いつか帰京し昇殿を許されることを願って詠んだ歌。但し『忠見集』によれば、清正が紀伊守となった頃、壬生忠見が清正に代わって少弐命婦に贈った歌とある。清正の代表歌とされ、彼が三十六歌仙に選ばれたのも』、『この歌あってのことに違いない。因みに清正が紀伊守に就いたのは』天暦十(九五六)年『正月で、同年十月には還昇を果たしている』とある。]
古人の描いた鶴の姿に平凡なものが多いことは、前に例句を挙げた通りである。平凡な鶴の声に人を驚かすものが少いのは怪しむに足らぬ。強いてその種類の句を求めるとしたら、風叩、昌尚の二句位なものであろうが、それとても特筆大書するほどのことはない。但(ただし)仙家の友とならず、山野に棲息する以上、鶴といえども時に生命の不安を免れぬのは当然である。『甲子夜話』に筑前の蘆屋川(あしやがわ)のほとりで、鶴を逐う声を耳にすることが記されているが、その辺は年々鶴に穀物を害せられること甚しく、しかも領主の放鷹の場で、これを捕えることを禁ぜられているため、昼夜をわかず声をあげて逐うより仕方がないのだとある。明治になって保護鳥の列に入る以前、鶴の捕獲が禁ぜられたのは、多くの場合放鷹のためであった。猟師の筒先を逃れた鶴は、鷹狩の犠牲にならざるを得ない。
[やぶちゃん注:松浦静山の「甲子夜話」は電子化注しているが、なかなか進まぬ。これはどこに書いてあるかが判らぬと原典が引けぬ。何方か、御存じの方、巻数をお教え下されよ。
「明治になって保護鳥の列に入る」ツルの禁猟が明記されたのは、明治二五(一八九二)年十月の旧「狩猟規則施行細則」。]
鶴の首も追(おひ)すくめたる鷹野かな 尚白
小男のさし荷(にの)うてや鷹の鶴 冶天(やてん)
鷹組(くみ)て鶴の毛散(ちら)すみそらかな
曉臺
和漢の詩歌に幾多の資料を提供した雁も、実生活の面より見る時は「麥くひし雁と思へど別れかな」の歎がある。鷹狩の一事がなかったならば、田野に及ぼす鶴の害はもっと大きく伝えられたかも知れぬ。治夫の句の「鷹の鶴」は鷹狩の獲物の鶴なので、俳諧以外には通用しにくい省略法であろう。首の長い鶴を荷う小男の姿は、俳画にはならずとも、漫画に取入れらるべき要素を十分に具えている。
鷹狩の鶴を捉えた俳人は、一転して地上にとどめた鶴の遺失物も見逃さなかった。
花はまた下かげ寒し鶴の屎 五明
高砂
松の花ちるや眞砂の鶴の糞 燕説(えんぜつ)
西岳亭記
柑類の花のはやしや鶴の糞 露川
これらの句には殊更に奇を好んだ形迹は認められぬ。どこまでも自然である。花も名所も鶴の糞も、一切平等と観じ得る時、その詩眼ははじめて豁然(かつぜん)と開けることになるのであろう。
[やぶちゃん注:「豁然」視野がぱっと大きく開けるさま。転じて、心の迷いや疑いが一気に消えるさま。]
鶴に関する文学は支那に多いが、漢土の鶴はいささか仙界に偏し過ぎた嫌がある。「後赤壁賦」の中で江の空を飛ぶ孤鶴の如き、「翅如車輪。玄裳縞衣。戛然長鳴。掠予舟而西也」というだけで十分であるのに、東坡はそれに満足せず、夢裏の一道士として再びこれを登場せしめている。実際の光景は「鳴渡る鶴の高さよ霜の月」や「明月や江はさわさわと鶴の聲」と大差ないはずであるが、文章の趣向に一歩を進めただけ、自然を遠ざかる結果になったのは何とも致し方がない。
[やぶちゃん注:「後赤壁賦」宋の詩人蘇軾(東坡)の「前赤壁賦」と「後赤壁賦」とは、一〇八二年の秋七月と、その三ヶ月後の冬に、流罪地であった黄州を流れる長江の名勝赤壁に遊んだ際の作。
「翅如車輪。玄裳縞衣。戛然長鳴。掠予舟而西也」底本は総ルビであるが、排除した。もう少し前から引けばいいものをと思う。少し前から原文を引いて、後に訓読で示す。
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時夜將半。四顧寂寥。適有孤鶴。橫江東來。翅如車輪。玄裳縞衣。戛然長鳴。掠予舟而西也。
(時に夜、將に半ばならんとし、四顧すれば、寂寥たり。適(たまた)ま、孤鶴あり、江を橫ぎりて東より來たる。翅(つばさ)は車輪のごとく、玄裳(げんしやう)縞衣(かうい)、戛然(かつぜん)として長鳴(ちやうめい)し、予が舟を掠(かす)めて、西せり。)
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宵曲の言う通り、この後に続けて、詩人は床に入るのであるが、その夢に道士が登場することで鶴―仙界の構造が発生している。
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須臾客去。予亦就睡。夢一道士。羽衣扁遷。過臨皋之下。揖予而言曰。赤壁之遊樂乎。問其姓名。俯而不答。
(須臾(しゆゆ)にして、客、去り、予も亦、睡りに就く。一道士を夢みむ。羽衣、扁遷として、臨皋(りんかう)の下を過ぎり、予に揖(いふ)して言ひて曰く、「赤壁の遊び、樂しかりしか。」と。其の姓名を問へど、俯して答へず。)
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「臨皋(りんかう)」臨皋亭(りんこうてい)。この時、蘇軾の滞在した寓居の名。「揖(いふ)」中国の昔の礼法の一つ。両手を胸の前で組んで、これを上下したり、前に進めたりする礼式を指す。]
日本の歌にもまた鶴を詠じたものが少からずある。しかし『万葉集』中のものを除けば、概して生趣に乏しく、動(やや)もすれば松上に巣を営んで画裡に化し去ろうとしている。
[やぶちゃん注:「万葉集」には意想外に四十二首にも及ぶ鶴(たづ)の和歌が収録されている。個人サイト「たのしい万葉集」の「万葉集 鶴(たづ)を詠んだ歌」を参照されたい。]
名月や鶴のびあがる土手の陰 且只(しよし)
の如き自然の小景を身近に捉え来ることは、けだし俳人の擅場(せんじょう)で、俳句ほど多種多様の鶴を描いたものは、あるいは他に類がないのかもわからない。
盜鶴捨賣にするしぐれかな 朱拙
に至っては、その多種多様な俳句の中でも珍しい題材の一である。どこかの鶴を苦心して盗んだものの、そう右から左へ売れるものでもなし、勿論大びらに売り歩かれもせず、遂に捨売にしてしまう。西鶴のような作家でもなければ、小説中の趣向に取入れそうもない事柄である。蕪村、太祇以下の天明の俳家は好んで小説的事件を句にしたが、これほど奇抜なものは見当らぬ。朱拙は苦心惨澹、如是(にょぜ)の趣向を拈出(ねんしゅつ)し得たのでなしに、何らかの事実に基いてこの十七字を成したように思われる。
[やぶちゃん注:以上を以って日本古書通信社から刊行された柴田宵曲著「俳諧博物誌」(全十章。没後十五年後の遺稿出版)は終わっている。
最後に本邦に於いては鶴が高級食材として戦前まで食されていたことを知らぬ人が多いように思われるので、私の『杉田久女句集 240 花衣 Ⅷ 鶴料理る 附 随筆「鶴料理る」』をリンクさせて私の博物誌的注の終りとする。]
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