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2017/12/25

原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 少年

 

 少年

 

 空地へ幕が張られて、自動車の展覽會があつた。誰でも勝手に這入れるので、藤一郎もいい氣持で見て步いた。ピカピカ光るお腹(なか)や、澄ました面(つら)した自動車を見ると、藤一郎の胸にはふんわりと譯のわからぬ感情が浮き上るのであつた。いくら見惚れたつて自分の所有(もの)にはならないのだが、ああ云ふ立派な自動車に乘つて走れたら、どんなに素晴しいだらうか――藤一郎はその素晴しさを想像して一人でいい氣持になつた。美しい女が、たしかにああ云ふ自動車には乘つてゐて、彼の知らない世界を走つてゐるのだ。藤一郎はついさうした夢想に耽り出すと、眼の前が早くも茫として額に微熱を覺えた。その時、遙かに遠い空間に一つの點が見えて、その點が彼の運命らしく感じられた。だから萬が一には彼だつて、その美しい女と一緒に自動車に乘つて走るかも知れないのだ。いや、たしかに、そこにはさう云ふうらなひがあつた。はつと氣がつくと、眼の前には一匹の蜻蛉が飛んでゐて、そこは展覽會の出口だつた。藤一郎は今迄引張𢌞してゐた自轉車に乘ると、忘れてゐた用件を思ひ出して、滅茶苦茶に走り出した。

 

 やがて店へ戾ると、案の定、藤一郎は主人から叱られた。どうして主人には彼が道草食つてゐるのがわかるのか、藤一郎にはわからなかつたが、「君は一體此頃ぼやつとしてるぞ。」と云はれた時にはギヨクツとした。さつきまで目が眩むほど美しい女のことを考へてたのだが、さう云ふことまで主人にはわかるのかしら。自分の不甲斐なさを思ふと、少しづつ慄へる唇を藤一郎は努めて慄はせまいとした。恰度いいことに、藤一郎はまた用件を吩(いひつ)かつた。今度はしくじるまいと、藤一郎は自轉車に燈をつけた。

 幾臺も自動車が彼を追越した。何だ、ボロ自動車。や、今度は素適な奴が拔いた。あ、あの自動車に乘つてる男、女の肩へ手を掛けてゐた。その次は、何だまたボロ自動車か。また來た、ボロ自動車。……何時の間にか藤一郎は自分が立派な自動車に乘つてゐるつもりでペダルを蹈んだ。口笛が、ハーモニカのかはりに吹かれて、雜沓に紛れた。ハーモニカを吹いて、夜の田舍の海岸を走つてゐるやうな氣もした。實際のところ、藤一郎は何時の間にか雜沓を拔けて、豪華な邸宅地の滑らかな路に出てゐた。霧がハンドルにかかつて、眼の前がはつきりしなかつた。突然後から一臺の流線型が音もなく光つて來た。その車が背を見せた時、藤一郎は女を見た。若い綺麗な女がたつた一人乘つてゐた。あ、あの女だ――と藤一郎は遽かに頰笑むと、夢中で追跡を試みた。光が遠のいて行くばかりで、呼吸が切れさうになつた。その時背後から襲つた光の洪水に藤一郎は絶望を感じた。次いで烈しい罵倒が彼の全身をガーンと打つた。

 

[やぶちゃん注:太字「うらなひ」は底本では傍点「ヽ」。]

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