柴田宵曲 俳諧博物誌(27) 兎 三 / 兎~了
三
春の句は秋冬に比して数も少く、見るべきものがあまりない。
豆畑のあとに兎の子(ね)の日かな 道彦(だうげん)
けふの菜も庵(いほ)は兎のくひ殘し 同
嵯峨にて
夜に入(いり)て兎のかよふ若なかな 諷竹
千代萬代とは松平(たひら)カ
に治る御世は
彌勒まで御世や兎の御吸物 越人
これらは皆歳旦の句である。若菜は正月七日に摘むので、「けふの莱」の「けふ」は七日を指す。道彦は兎の食残した若菜を摘むといい、諷竹は人間の摘んだあとの若菜を、夜になつて兎が食いに来るという。いずれも七種(ななくさ)が中心になっている。
兎と豆との関係は前に記した。道彦はそれを少しひねって、現在豆のない畑を持出し、「兎の子の日」という趣向にしたのである。子の日は例の小松引(こまつひき)で、兎が豆畑のあとで何かあさるのを、人間の松を引くのに擬したのであろう。現在の事柄からいえば、若菜を食いに来る方が実際であるのに、過去に遡って豆畑の因縁を辿り、それを歳旦に結び付けたので、こういう趣向の立て方は、作者がひねればひねるほど、自然より遠ざかる結果とならざるを得ぬ。
[やぶちゃん注:「小松引」「子(ね)の日の遊び」とも称され、奈良・平安時代、正月初めの子の日に、野山に出でて、小松を引き合った遊び。この日は先に出た人日(じんじつ。:五節句の一つ。陰暦正月七日の称)と同様、若菜を食する習わしがあり、この松も芽を食用としたのが本来の行為の目的。子の日に野山へ出る行事は唐から伝えられたもので、陰陽の静気を吸収し、煩悩を除く術とされ、正月行事の一種として行われた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]
越人の句は徳川氏謳歌の意であろう。徳川という文字をあらわに出すことを憚って、「松平カ」というような使い方をした。一句だけ切離せば季節不明だけれども、歳旦に「御代の春」という季題があるし、賀意の明(あきらか)な点から見て、歳旦の句とするより外はあるまいと思う。兎の吸物を正月に用いることがあるにしても、それを以て直に一般的な季題とすることは困難だからである。
[やぶちゃん注:この最後の宵曲の考察は、まさに俳句を形態上の見かけのも類似性から、強引に分類して並行進化した全く縁の遠い別個な生物を同一とした、生物学の古典的分類学を思わせる。ただ、それ自体は博物学の真骨頂であり、「俳諧博物誌」の名にし負うことであり、同時にまた、宵曲の歳旦吟という考証は確かに的を射ているから問題ないわけではある。しかし、読んでいて、おかしく感じないか? 句を味わうのではなく、句の季は何時か、季詞(季語)は何かを穿鑿し、それが見当たらなければ、一句の物理的表現内容から、推定して季を決めるが、この句の場合は歳時記には載せようがないとするのは、明治以降の俳句の癌とも言うべき、季語第一主義、季題分類主義に堕した、俳諧ディレッタンティズムの本末転倒であると私は断ずるものである。]
干(ひ)るかたや菟(うさぎ)のあしへ今朝の海
登石
明(あけ)る野や兎の尻に春の風 曉臺
谷々や兎もふまで殘る雪 龍渚(りゆうしよ)
土くれうつ老父を呼(よび)かけ
花は花はと尋れば是もいさ白雲と
答へけるぞをかしき
人の行く兎の道や山櫻 樗堂(ちよだう)
兎と海との因縁も、春は一面の干潟となった。「あしへ」というのは兎の足の短いことを利かせたのかと思うが、はっきりわからない。暁台は兎の句を作ること四、猪と同座した「榾明り」の外は、「兎鼻つく」といい、「兎の耳」といい、「兎の尻」といい、それぞれ違った部分に眼を著(つ)けている。あるいは兎という動物に何か興味を持っていた人かも知れぬ。
龍渚及樗堂の句は、現在そこに兎がいるわけではない。谷々に白く残った雪には兎の蹈んだ跡もないというのだから、人間その他の足跡がないのは勿論である。「兎の道」は兎の通うような細い山道の意であろう。星布尼の句の前書にあった「兎徑」というのがそれである。
花に風兎兵法や平家武者 宗俊
絵にかきし兎の耳の春日かな 堅結
涅槃會や月の兎は間に合はず 吐月
手杵(てぎね)を
花生(はないけ)
に作りたるに
搗(つき)しらぬ兎の杵や月とうめ 蓼太
白笑齋四十二の賀
梅が香や兎杵とる月の中 冥々
「兎兵法」という言葉は前にも一雪の「雪の竹」の句があった。宗俊の句は「花に風」といい「平家武者」という前後の意味から想像するに、一ノ谷で義経の奇襲を受けた平家の軍勢が逸早く逃出す様子を、兎に擬したものではあるまいか。談林時代の作品だから、恐らくそんなことかと思うが、「兎兵法」については明瞭な解釈が得られない。
[やぶちゃん注:「兎兵法」宵曲が知らないのはやや意外。これは、本当の兵法を知らない癖に、下手な策略を廻らしてしまって却って失敗敗走することになることを指す。因幡の白兎の故事に基づくもので、現行の「生兵法(なまびょうほう)」と同じい。]
「絵にかきし兎の耳」は勿論譬喩(ひゆ)である。「足引(あしひき)の山鳥の尾のしだり尾の」と同じく、長いことを現すために兎の耳を持出したのであるが、悠々たる春の日永と画図の兎との間には、一点相通ずる趣がないでもない。釈尊の涅槃に集ったもろもろの動物の中に、月の兎は別世界にいて間に合わなかったというのは、浅薄な智的興味に外ならぬ。
蓼太及冥々の句の兎は共に杵を持っている。蓼太の句は特に手杵を花生にしたという事実があり、こういう前書付の句として相当の働きは認められるが、其角の句に見るような天来の妙味がない。花生から梅を持出し、杵から月の兎を連想せしむるあたり、すべてが常識的で人工を離れ得ぬ憾(うらみ)がある。
[やぶちゃん注:「手杵(てぎね)」杵の一種。太く丸い木製の棒であるが、中央に細く括(くび)れた箇所を作り(全体は月の兎の持つような伸びた亜鈴或いは「へ」の字形となる)、その部分を手で握って搗(つ)く。蒸した繻米(もちごめ)は、すぐに普通に臼で搗きだすと、米が飛び散ってしまうので、最初にこれで部分部分を静かに搗きこね、粘りを出させてから、搗き始めた。現行では実用品としては見ることが殆んどない。
「花生(はないけ)」古くなった手杵の中でも、太めのものを、中央の細くなる辺りでカットし、杵部分を刳り抜いて器としての花活(はない)けに加工したものであろう。稲霊(いなだま)の霊的呪具としての意味も孕んで、非常にいい仕儀と思う。私も一つ、欲しくなった。]
さわらびや兎の糞も爰(ここ)かしこ 紫芳
追立(おひらて)て兎ころぶや岩つゝじ
隨岐
彌生山(やよひやま)さくらに眠れ白兎
左江
陽炎に兎出てゐる檜原(ひはら)かな 召波
これらは前の語句に比べると、とにかく自然の裡(うち)に兎を観ている。紫芳の句は前に挙げた桃先の「萩すゝき」の句、超波の「名月」の句などと併看(へいかん)すべきものである。蕨を採る時分は草がまだ伸びていないから、小さな兎の糞の眼に入る点からいって、「萩すゝき」や「名月」よりこの句の方が自然であるかも知れぬ。
召波の「陽炎」は春の句としてすぐれているばかりでなく、四季を通じても出色のものであろう。画中の趣に似て、画よりも生々としたところがある。陽炎のもゆる檜原の白兎は、古来の詩人が夙(つと)に発見すべくして発見し得ぬ春の小景であった。
波に日の繪に
なみの上(へ)に兎やすめて朝日かな 也有
巌密にいえばこの句は無季である。しかし波に日の出は新年に御挑向(おあつらえむき)の図柄であるし、也有には同じ画に「初日かな」と題したのもある。あるいは「兎やすめて」で卯年の新春を利かせたものかと思うけれども、しばらく臆断を避けて春の句の終に置くことにする。
[やぶちゃん注:「終に」「おわりに」。]
夏に至ってはいよいよ句数を減じ、趣向もまた限られた観がある。
聲もなく兎動きぬ花卯木(はなうつぎ) 嵐雪
うのはなにひよつと出でたる兎かな 貞佐
卯の花や兎いらふた手はかけず 西月(せいげつ)
月の兎卯の花雪に眠りけり 翠雨
卯の花の兎や月の波間より 吾秋(ごしう)
これらの句は皆卯の花と兎との因より生れている。しかし卯の花はたまたま「卯」の字を用いるところから、連想がそこに及ぶので、実際は萩薄その他の植物の関係と変りがない。さすがに嵐雪の句は実景らしいものを捉えているけれども、貞佐は似たようでこれに劣り、以下は貞佐よりまた劣る。吾秋の句は卯の花の上に、更に「竹生嶋」流の因縁が加わっている。但この場合、卯の花はどういうことになるのか。もし兎の枕詞のように「卯の花」を置いたとするならば、頗る窮した趣向といわなければならぬ。
[やぶちゃん注:「花卯木(はなうつぎ)」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ(空木) Deutzia crenata の花。和名は幹が中空であることに由来する。
『「竹生嶋」流の因縁』能「竹生嶋」は既出既注。関連の詞章はそこでも出した、地歌の、「魚 木にのぼる 景色あり 月 海上(かいしやう)に浮んでは 兎も波を走るか おもしろの島の景色や」を指す。次もそれを踏まえた謂い。]
松嶋や兎の林影茂り 不玉
この句は明(あきらか)に「綠樹影沈魚上木。淸波月落兎奔浪」を蹈えている。「兎の林」などは随分無理な言葉で、元来緑樹そのものは兎に直接関係はないのだけれども、対句の因縁で自らそういう解釈になって来る。緑樹影沈む松嶋の光景から竹生嶋を連想し、「晴渡月落兎奔浪」の句によって兎の林とする。かなり持って廻った解釈ではあるが、こうでもしないと「兎の林」の一語を片付けることは不可能である。尤も「林影茂り」の八字は巧に「綠樹影沈」の趣を伝え、併せて夏の季を利かせているので、兎の一字を除けば一句に無理な所はなくなる。その代り兎の句として引用する理由も失われてしまうから、ここでは無理な兎を保存するより仕方がない。
[やぶちゃん注:「綠樹影沈魚上木。淸波月落兎奔浪」も既出既注。]
夏のよや菟の尾より朝しらみ 吟山
五月雨や兎網干す家に彌陀 道彦
爭はぬ兎の耳やかたつぶり 其角
吟山の句は夏の夜の短いことを現すために、兎の尾を持って来たのである。その点は「繪にかきし兎の耳の春日かな」と筆法を同じゅうする別手段である。言水の句にも「夏の夜は山鳥の首に明(あけ)にけり」というのがあり、しだり尾の長尾と違う山鳥の首を以て、夏の夜の短きを現している。兎の尾も山鳥の首も用途は先ず似たものなので、この場合一々動物の姿を想い浮べるには及ばぬのである。
「兎網」は越路の雪の句が前にあった。道彦のこの句は阿弥陀如来の尊像を飾っている家に、殺生道具たる兎網が干してあるという矛盾した現象を詠んだものらしい。五月雨が降続いていては、兎網を干すのにも工合が悪そうな気がするが、その辺の実際はどんなものであろうか。蝸牛角上に蛮触の二国があって相争うというのは荘子一流の寓言である。兎は蝸牛の角より遥に大きな耳を持っているにかかわらず、互に争うことがない。これは直接兎を詠んだのでなく、画中の趣を捉えたものであるところに、其角らしい働きを認めなければならぬ。
[やぶちゃん注:「蝸牛角上の二国があって相争うというのは荘子一流の寓言」小さな者同士の争い、つまらぬことに拘った争いの譬えとする「蝸牛角上の争い」。「荘子」の「則陽」篇の、蝸牛(かたつみむ)の左の角にある「觸氏」国と、右の角にある「蠻(ばん)氏」国とが争ったという寓話に基づく。全文(原文・訓読・注)は「Web漢文大系」のこちらを参照されたい。]
荒繩のちまきを以て兎ども 沾洲(せんしう)
一読しただけでこの句を解釈することは何人も困難であろう。しかしこれには「けふは五日の神拜(しんぱい)として春日(かすが)四所の宮人達樂を奏せらる、折ふし參(まゐり)あひて各ひろまへにぬかづきかたへに立よりて神供(じんく)のあらましをうかがへば、奉兎(ふと)と教(おしへ)らる、実也事々に問とこそ侍(はべる)に」という前書がついている。神前に供えられた物の名が奉兎であるところから、句の方は兎にしたので、踪(ちまき)を以て季とするより推せば、この五日は五月五日であることがわかる。「奉兎」は「伏兎」とも書く。「餠ノ類、油ニテ煎(に)タルモノト云」と『言海』に見えている。多分形似より出た称呼であろう。
[やぶちゃん注:「けふは五日の神拜(しんぱい)として春日(かすが)四所の宮人達樂を奏せらる」「春日大社」公式サイト内の行事の五月五日のページを見ると、「菖蒲祭(しょうぶさい)」として端午の節供祭。古式神饌に粽に菖蒲と蓬を添えてお供えし、天下泰平、五穀豊穣、子供の幸せを祈り、祭典後に舞楽が奉納されるとあるのを指すと考えてよかろう。ただ、現在、概ね、同五月の第三金曜日に行われている「薪御能(たきぎおのう)・呪師走りの儀(しゅしはしりのぎ)」というプログラムが存在し、これは『能楽の最も古い呪師芸能の姿を伝える古儀で本社の舞殿で行われ』るとあって、さらに『大和猿楽四座(現:金春、金剛、観世、宝生)は春日興福寺の庇護によって現在の姿に至』ったことから、『各流では古来より「南都両神事」と呼んで薪能とおん祭には神恩奉謝の為、必ず参勤することとなってい』たとあるというのと、「春日(かすが)四所の宮人達樂を奏せらる」の部分と照らし合わせると、関係がありそうにも見える。
『「餠ノ類、油ニテ煎(に)タルモノト云」と『言海』に見えている』「言海」の見出しは「ふと」で漢字は「餢飳」を当て、『又、伏兎』とした後に上記の引用。原典によって漢字を正字化した。
「「形似より」「かたちにより」と訓読するのはやや無理がある(間に「の」が、「より」の後に「より」或いは「から」が入っていればいいが)。「けいじ」と読んでおくが、こんな生硬な熟語は聴いたことがない。]
見るべきものが少いという春夏の句の説明も存外長くなつた。最後に番外として逸すべからざる蕪村の句がある。これはどうしても文章と併せて挙げなければならぬ。
出羽の國より陸奥の方へ通りけるに、
山中にて日くれければ、辛うじて九十
九袋(やしやぶくろ)といへる村にた
どりつきて宿りもとめぬ。夜すがらご
とごとと物の音のひゞくありければ、
あやしくて立いで見るに、古寺の廣庭
に老たるをのこの麥をつくにてありけ
り。予もそこら徘徊しけるに、月孤峯
の頂をてらし、風千竿(せんかん)の
竹を吹て、朗夜のけしきいふばかりな
し。此をのこ晝の暑さをいとひてかく
いとなむなめりと、やがて立よりて名
は何といふぞと間へば宇兵衛と答ふ。
涼しさに麥を月夜の卯兵衞哉 蕪村
平凡な麦搗(むぎつき)の翁に過ぎぬのであろうが、この背景の前に立たせると、無限の詩趣を生じて来る。月孤峯の頂をてらし、風千竿の竹を吹く朗夜の大気は、あらゆる塵俗の気を洗い去って、こういう別乾坤(べつけんこん)を展開するのであろう。老爺の答えた名は宇兵衛であったのを、句の中で卯兵衛と改めたのが蕪村の働きである。「麥を月夜」で抱くことを利かせ、卯兵衛の名によって兎を連想せしむるという風に、かなり曲折を尽しているにかかわらず、一種爽快の感を禁じ得ぬは、前の文章に現れた山中月夜の趣が人を魅するためかもわからない。
われわれがこれを番外と称するのは、直接兎を詠じたものでないからである。しかし蕪村が宇兵衛を卯兵衛に改めた働きを認め、月中に臼を搗く兎の姿に想を馳せれば、この句は当然兎の範時に属するものと見なければならぬ。以上で夏の句をおわり、併せて兎の句を終る。
[やぶちゃん注:蕪村の俳文は奥州行脚の折り、秋田でのもので、寛保三(一七四三)年の作。異業種交流会クラインの管理になる「八郎潟メビウス」内の「与謝蕪村句碑について~奥州行脚で立ち寄る~」を是非、参照されたい。]
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