原民喜作品集『焰』(昭和一〇(一九三五)年三月二十九東京印刷版發行・白水社發賣・私家版)原本底本正規表現版始動 / 椅子と電車
[やぶちゃん注:本書は原民喜が初めて刊行した(自費出版)処女作品集である。民喜二十九歳の春であった、ここでは原著に従って、各篇順列で公開する。
底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、作業を短縮するため、「青空文庫」に分割して公開されている(リンク先は「作家別作品リスト」の「原民喜」のページ)それらを加工データとして使用させて戴いた。ここに感謝申し上げる。但し、それらは昭和四一(一九六六)年二月芳賀書店普及版「原民喜全集第一巻」を使用したものであり、私の底本は上記の私家版の原民喜作品集「焰」(昭和一〇(一九三五)年三月白水社刊)を親底本としたものである。しかもかねて原民喜の自筆原稿を電子化してきた私の経験に則り、漢字を概ね正字化して示すこととする(それが本来の原民喜の自筆に近いものとなるという確信犯である)ので、自ずと、既存の「青空文庫」版とは異なる電子データとなる(実際、冒頭の一篇から既にして、表記ではなく、本文自体に有意な違いが認められた)。また、必要に応じて注を附すこととする。【2017年12月25日始動 藪野直史】 ☞ ★【2023年2月23日削除・改稿 藪野直史】今回、国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で原民喜作品集『焰』(昭和一〇(一九三五)年三月二十九東京印刷版發行・白水社發賣・私家版。リンク先は扉のタイトル部)の画像を入手出来たので、それで校合し、改めて正しく原本で本作品集の全作品を、順次、正規表現版に作り直した。必要と考えた箇所には、注も追加する。なお、私の全篇原原稿は外附けハード・ディスク全損壊のため消失していることから、ブログ記事を、直接、校合した。それに伴い、以下、標題の「(恣意的正字化版)」を「(正規表現版)」に代えた。★]
椅 子 と 電 車
二人は暑い日盛りを用ありげに步いた。電車通りの曲つたところから別に一つの通りが開けて、そのトンネルのやうな街に入ると何だか落着くのではあつた。が、其處の街のフルーツ・パーラーに入つて柔かいソファに腰掛けると猶のこと落着くやうな氣がした。で、彼等は自分達がまたもや何時ものやうにコーヒーを飮みに行くのであることを暗默のうちに意識してゐた。
電車や自動車の雜音はさつきから彼等の會話を妨げてゐた。瘦せて神經質な男の方は目をいらいらさせながら譯のわからぬ吐息や微笑を洩らしてゐた。體格の逞しい柔和な男も相手に和して時々笑ひを洩らすのであつた。彼等は暢氣(のんき)な學生で、何と言つてとりとめもない生活を送つてゐるのではあつた。が、絕えず何かを求めようとする氣持が何時も彼等を落着かせなかつた。
突然、體格の逞しい男の方が相手を顧みて、
「椅子が欲しいね。」と云つた。
「どうして人間は喫茶店に入りたがるのか、君は知つてるかい。」
「椅子かい?」と神經質の男が應へた。
「さうだよ。つまり物理的安定感て奴を望むのだね。哲學にしろ、宗敎にしろ、藝術にしろ、何かかう自分以外のものに縋つてゐると氣持がいいからね。だから君があの室(むろ)のやうな街に魅力を感じるのも、つまり精神分析的に云ふと意味があるのだね。」と柔和な男は行手を頤で指差しながら笑つた。
それから三年目のある蒸暑い夜であつた。神經質な男は柔和な男の家の椅子に腰をかけてゐた。體格の逞しい男の方は最近細君をもつて郊外に落着いたのである。恰度袋路の一番奧の家で、すぐ側には崖があつた。神經質な男は自分の腰掛けてゐる椅子の手を撫でながら尋ねた。
「この椅子は氣がきいてるね。」
「なあに、ビール箱で造つたのだよ。」
神經質の男は自分のアパートへ歸るべく省線に乘つた。開放たれた窓から凉しい風が頰を撫でた。電車の響に初夏の爽やかさが頻りと感じられた。
「椅子もいいが、電車もいい。」と彼は無意味なことを考へた。
「永久に變らない椅子と、停まることのない電車ならどちらも結構だ。」
[やぶちゃん注:「神經質な男は自分の腰掛けてゐる椅子の手を撫でながら尋ねた」は「青空文庫」版(底本「普及版 原民喜全集第一巻」(昭和四一(一九六六)年二月芳賀書店刊))では「神経質な男は自分の腰掛けてゐる椅子を手で撫でながら尋ねた」となっている。
「指差しながら」は「頤で」であるから「指差」は「しさ」或いは「さ」である。原民喜は他作品でも頻繁にこの熟語を使っており、それらを検証するに「シサ」という生硬な読みではなく、二字で「さ」で「さす」と訓じていると考えるのが自然である。]

