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2017/12/27

原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 虹

 

 

 

 二晩ぐらゐ睡れないことがあると、晝はもとより睡れなかつた。彼の頭はうつつを吸ひすぎて疲れ、神經はペンさきのやうに尖つた。明るい光線の降り注ぐ窓邊のデスクで、彼はペンを走らせた。念想と云ふ奴は縱橫に跳梁して彼を燒かうとする。響のいい言葉や、微妙な陰翳や、わけてもすべてのものの上に羽擊く生命への不思議な憧れや……

 へとへとに疲れてベツトに橫はると、更に今度は新しい念想がきれぎれに飛ぶ。何だかその狀態が彼にはまた一つの未完成な作品のやうに想はれ出した。高い山に圍まれた盆地の景色が偶然浮ぶ。そこには一すぢの川が銀線を走らせてゐる。熟(みの)つた葡萄畑の彼方に白い壁の家が一つ……そこは彼の生れた家なのだ。酒のやうに醗酵した空氣や、色彩や、人情が溶けて流れる。だが、そのうちに睡眠が彼を搖籃へ連れて行く。彼は幼兒に歸つて搖籃に睡りかける……娯(たの)しい無意識の世界へ少しづつ搖れる籃。ふと、氣がつくとまだ睡つてはゐないのだつた。

 

 彼は一人印刷屋に殘つて、少年工に目次を組ませてゐた。停電で蠟燭を點すと、二人の影が活字棚に大きく映つて搖れた。夜更けの秋雨がぽとぽとと工場のトタンの庇を打つ。眞夜なかに二人かうしてゐるのが、怕いやうな氣がした。何處からともなしに鬼氣が漾つてゐた。

 雜誌が出來上つて、彼は骨休めにレビユーを見物した。すると舞臺では半裸體の少女が寒さうに戰きながら踊つてゐるのに氣づいて、彼の膚には粟が生じ、背筋を泣きたいやうな衝動が走つた。

 DHロオレンスの激しい精神が彼と觸れた。

 不圖した風邪がもとで彼は寢ついた。絶對安靜の幾ケ月が過ぎた。熱のなかに視る花瓶の花があつた。もみあげは長く伸びて黑かつた。春が來て病態は良かつた。健康になつて今度筆を執つたら、どんな作品が出來るか、彼はそればかりが娯しみだつた。字も言葉も大分忘れ、頭も tabula rasa の狀態にまで行つて來たやうだつた。少しづつ足が立つた。ふらふらしたが步け出した。ゆたかな制作慾が既にうずうずしたが、もう暫くの我慢だと思つて、彼は東京を離れ、故里の方へ歸つた。

 

 しかし秋になると、彼の病氣はまた逆轉した。葡萄が收穫され、大氣が澄みかへる季節だが、彼は節季のにぎはひにも觸れず臥したままであつた。何處かで響のいい鐘が鳴る。それは野良で働くものを晝餉に招く合圖だつた。彼は耳を澄まして每日聽く……。每日、ああ、生きてゐることはどんなに愉しく、美しいことか、彼には解るのだつた、――鳥や、花や、男や、女や、それらが無數にキラキラ輝いて作る眞晝の模樣が……。

 その日、本州を襲つた颱風は彼の病室の屋根の上を叫んで通つた。ひどい熱のため彼の病室は茫と蒸れてゐた。何時の間にか彼は高く高く吹き揚げられて行くのだつた。彼は珍しい小型の飛行機を操縱してゐた。雨雲が翼を濡らし、眼鏡も霧で曇つた。しかし飛行機は雲の上に浮きあがつた。すると、下はまつ白な雲で、上は靑空だ。そして悠々たる雲の敷ものの上に、あざやかに映る虹があつた。虹の大輪はゆるやかに𢌞つた。彼は微笑した。そして睡くなつた。

 

[やぶちゃん注:「羽擊く」「はばたく」と訓じているようである。

DH・ロオレンス」大胆な性描写で話題となった「チャタレー夫人の恋人」(Lady Chatterley's Lover 一九二八年)の作者として知られるイギリスの詩人で作家のデーヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence 一八八五年~一九三〇年)。因みに彼には、本篇と同題の小説「虹」(The Rainbow:一九一五年九月の刊行であるが、二ヶ月後の十一月に猥褻として発禁処分となった)がある。

tabula rasa」タブラ・ラーサ。ラテン語で、原義は「文字の消された石板」で、通常、状況や意識の「白紙状態」に用い、これは、感覚的経験を持つ以前の心の状態を比喩的に表現したもので、人間の知識の起源に関し、専ら、ア・プリオリな生得観念を否定する経験論の主張を概括するために使用される。]

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