《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 明治四一(一九〇八)年東京府立第三中学校第四学年夏季休暇中の七月二十一日から八月三十一日までの芥川龍之介満十六歳の日誌
[やぶちゃん注:以下は、芥川龍之介満十六歳の夏、東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校。旧制中学は五年制)の第四学年の夏休みの日記で、前半部では、芥川龍之介が同年の級友でこの中学時代の親友であった西川英次郎(ひでじろう 明治二五(一八九二)年~昭和六三(一九八八)年:後、東京帝国大学農科卒。鳥取大学・東北大学・和洋女子大学の教授を歴任した)と二人で、山梨・長野方面に十日九日間の旅の記録がメインとなっている。大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回に亙って『文藝春秋』に連載された芥川龍之介の「追憶」の一章に「西川英次郎」があり、そこで龍之介は次のように述べている(リンク先は私の古い電子テクスト)。
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西川は渾名をライオンと言つた。それは顏がどことなしにライオンに似てゐた爲である。僕は西川と同級だつた爲めに少なからず啓發を受けた。中學の四年か五年の時に英譯の「獵人日記」だの「サツフオオ」だのを讀み嚙(かじ)つたのは、西川なしには出來なかつたであらう。が、僕は西川には何も報いることは出來なかつた。もし何か報いたとすれば、それは唯足がらをすくつて西川を泣かせたことだけであらう。
僕は又西川と一しよに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だつたらしい。しかし僕等は大旅行をしても、旅費は二十圓を越えたことはなかつた。僕はやはり西川と一しよに中里介山氏の「大菩薩峠」に近い丹波山(たばやま)と云ふ寒村に泊り、一等三十五錢と云ふ宿賃を拂つたのを覺えてゐる。しかしその宿は淸潔でもあり、食事も玉子燒などを添へてあつた。
多分まだ殘雪の深い赤城山(あかぎやま)へ登つた時であらう。西川はこごみ加減に步きながら、急に僕にこんなことを言つた。
「君は兩親に死なれたら、悲しいとか何とか思ふかい?」
僕はちよつと考えた後(のち)、「悲しいと思ふ」と返事をした。
「僕は悲しいとは思わない。君は創作をやるつもりなんだから、さう云ふ人間もゐると云ふことを知つて置く方が善いかも知れない。」
しかし僕はその時分にはまだ作家にならうと云ふ志望などを持つてゐた譯ではなかつた。それをなぜさう言はれたかは未だに僕には不可解である。
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底本は、葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(一九六八年岩波書店刊)の『丹波・上諏訪・淺間行――明治四十一年夏休み「日誌」』と葛巻が題したものを使用した。〔 〕は編者が脱字と判断して補ったものを指す。一部に葛巻氏の割注が入るが、除去して、私の注で示した。読みは推定で概ね葛巻が附したものと思われるが、「丹波」に「しば」としたり、不審な点が見られるので、総て除去し、一部は注で示した。字空けは底本のママである。踊り字「〱」は正字化した。
日記中、三度出る「上瀧」は友人上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)。龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。龍之介の「學校友だち」では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小說にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。
七月二十八日の「髞笑」は「さうせう(そうしょう)」と読んで、高笑いの謂いと思われる。
七月三十一日の「偃松」は「はいまつ」(這松)で、裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Strobi 節ハイマツ Pinus pumila のこと。
八月二十七日の条にトルストイが重い病いで病床に臥したと出るが、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой:ラテン文字表記:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年十一月二十日)の家出後の死亡は、この年ではなく、この二年後である。
本テクストを二〇一七年の最後の私の電子テクストとする。【2017年12月31日 藪野直史】]
七月二十一日 曇
學校へ汽車の割引券と證明書とをもらひに行く。昨日迄 每日門をくゞつてゐたのだが 久しく來なかつたやうな氣がする。一日中 旅行の準備に何くれとなく忙しい。
同 二十二日 曇
午(ひる)から西川君と上野の國書館へ行く。櫻ケ岡の石段を上ると西郷隆盛が鼻のあたまへ鳥の糞をつけて 得意になつてゐる。
同 二十三日 小雨
茣蓙も帽子も施行の準備はのこりなくすンだ。
夕方外へ出て見ると雲がきれて 夕燒けがして東の空には星さへ見出される。安心して床へはいる。
明日は雨のふらない限り出發する豫定である。同行は西川君。
二十四日 曇
東京―日向和田(汽車) 日向和田―氷川(泊)
氷川は淋しい町である。夕方こゝへ着いて 宿屋の白い行燈を見た時につくづくとさう思つた。宿の湯にはいりながら薄暗いランプのまはりに火取虫の飛ンでゐるのを見た時に再 心に氷川は淋しい町であると繰返した。
馬子の唄 背戸の南瓜の花 淸い噴井の水 その吹噴井に米をとぐ女の白い手拭 これらのものをほの白い夕霧の中に望ンだ時 自分の心はどンなにか淋しさに充ちてゐたことだらう。
湯にもはいり夕餉もすンで疲れた躰をさつぱりした床の上に橫へた時 蚊帳をへだててランプの燈の鬼灯の樣なのを眺めた時 虫の音の雨よりも茂く流れるのを聞いた時 枕に通ふ玉川の水聲に目ざめた時 三度氷川は淋しい町であると呟いたのであつた。(二十五日記)
二十五日 曇
氷川―小河内―丹波山(泊)へ
氷川と丹波山との間の路はわすれ難い、ゆかしい路であつた。右は雜木山 左は杉木立。
路傍には山百合や鐘草が自に紫に咲き亂れてゐた。
所々に瀧がある。爆のある所には羊齒が靑々と枝をのばして水晶の樣な水がしやらしやらと其下を流れてゐた。
杉木立を隔〔て〕た向には玉川の流が白い泡をふいて 遠い夕月の國へ。――流を夾ンだ山々の男々しい姿。一つとして淸々した夏の呼吸が何處から何處迄こもつてゐるのをあらはさぬ物はない。自分等は又この路に沿ふたいくつかの佗しい村を通りこした。煤びた障子の中からさやさやと云ふ梭の音につれて歌の聲のもれる家もあつた。黃色い麥も堆く庭に積ンだ家もあつた。半ば傾いた山門に扁額の金も朧げな寺もあつた。螢草と撫子とにかこまれた道祖神の祠もあつた。自分等は眺め入つた。眺め入りながら物と力との「どよみ」をしらない、これらの村の人々の生活を羨ンだ。
村がつきると又山になる。靑黑い山と靑黑い谷 その間を縫ふ白い細い道 玉川の水の音 水車小屋 鶯の聲 あゝ夏だ。この日は灰色の雲が低く檜原の連山の頂にかゝつて 山と山との間の深い溪には 炭燒の煙の靑く立上るのも見えた。
かうして此日も暮近く 鴨澤のはづれへついた。向うの窪地に見える一つらの村落―白壁の光るのが見え 桑畑のつゞくのが見え 柳が見え はねつるべが見え 七月の靑い空氣は酒の樣に濃に この上に流れてゐる、これが丹波山だ。のんびりした牛の聲 それも人里近く〔な〕つたかと思ふと 何となく嬉しく思はれる。
此晩は丹波山の「野村」と云ふ宿に泊る事にする。玉川の水音は今夜も相不變 枕に過つてゐる。
二十六日 晴
丹波山から落合迄三里の間は殆ど人跡をたつた山の中で 人家は素より一軒もない。はるかの谷底を流れる玉川の水聲を除いては 太古の樣な寂寞が寥々として天地を領してゐるばかりである。谷から谷へ渡る雜木の林は犇犇と枝をかはして 時々黃色い日光が力なく微に木の間を洩れてくる。晝顏の夢の樣な花が夢の樣に木陰に咲いてゐるのも 幾年來の朽葉の香がほのかに朝の大氣をかほらせるのも 何となくうら淋しい。殊に血潮をしたゝらした樣な蛇苺の間を虹色をした蜥蜴の 音もなく走るのは淋しいよりも 少々氣味が惡い。
實にこの昏々たる睡眠土は 自然の殿堂である。思想と云ふ王樣の 沈默と云ふ宮殿である。
あらゆる物を透明にする秋の重來が この山とこの谷とを覆ふ時 獨りこの林の奧の落葉をふみて 風の聲に耳を澄したなら 定めて心地よい事であらう。
こんな事を考へながら 落合の荒村を過ぎて 柳澤峠から 塩山の町についたのは もう暮方であつた。
紫に煙つた甲斐の山々 殘照の空 鉛紫の橫雲。
それも程なくうつろつて 終には野もくれ山もくれ 暮色は暗く林から林へ渡つて 空はまるで限りのない藍色の海の樣。涼しい星の姿が所々に見えて いつか人家の障子には 燈が紅くともる樣になつた。
自分等は 塩山の停車場に七時から十一時迄汽車を待つた。眠くなれば、外を步いた。步いては空を仰いだ。
嚴な空には 天の河が煙の樣に流れてゐた。
十一時何分かの汽車で 甲府へついて 「佐渡幸」(宿屋)の二階に この日記をつけ終つたのは 丁度二時である。西川君は例の通り「峨眉山月半輪の秋」を小さな聲でうたひながら 疲勞がなほると云つて、ちやんとかしこまつてゐる。(丹波山―塩山―甲府)
同 二十七日 晴後曇
甲府―猪野
今日はいやにくたびれて 日記をかく氣にもならぬ。上瀧君へ手紙を出す。
「 甲府からこゝへ來た 昇仙峽は流石にいゝ 水の靑いのと石の大きいのとは玉川も及ばないやうだ しかし惜しいことに、こゝ(昇仙峽)の方が眺めが淺いと思ふ 昇仙峽は藤と躑躅の名所ださうな この靑い水に紫の藤が長い花をたらしたなら さだめて美しい事と思ふ
亂筆不盡」
手紙をかきをはつた時には 山も川も黑くくれて鬱然と曇つた空には 時々電光がさびしく光る。こんな時には よくいろンな思ヒがをこるものだ。大きな螢が靑く 前の叢の上を流れてゆく。(二十七日 荒川の水琴をきゝつゝ。)
二十八日 猪野―甲府―上諏訪 晴
朝早く猪野の里を出て 甲府へついたのが 丁度十一時。
それから汽車で上諏訪へ向ふ。
汽車が驛々で止る每に 必 幾人かの農夫の乘客がはいつてくる。それでなければ自分等と同じ樣な檜木笠の連中がやつてくる。作物の話が出る。空模樣の話が出る。無遠慮な雜談と 氣のをけない髞笑とは 間もなく 彼方にも此方にも起つた。今は〔車〕内は、山家の人の素樸な氣で 充される樣になつた。
汽車が進むにつれて 目の前には八ケ嶽の大傾斜が開けて來る 落葉松の林 合歡の花 所々に散在する村落。其處から上る白い烟 さては野に牛を飼ふ人の姿。―自分等 物を眺めながら窓によつて この山間にすむ甲州人の剛健な素朴な生活の事を考へて見た。
[やぶちゃん注:「―自分等 物を眺めながら窓によつて」の字空け部分には編者によって『〔欠字〕』と割注が入っている。]
甲信の山々は いづれも頂を力と熟との暗影を持つた 深い銅色の雲に 埋めながら、午後の日の光をうけて 遠いのは藍色に 近いのは鼠色に 濃い紫の敏を縱橫に刻ンで 綠の野の末に大きなうねりをうたせてゐた。永河の遺跡が見られると云ふのは そこであらう。白根葵の嘆くと云ふのは そこであらう。 長へに壯嚴な山々の姿。―雪にうづもれた其頂には宇宙の歷史が祕めてあるのではあるまいか。
[やぶちゃん注:「銅色」は「あかがねいろ」であろう。編者も「銅」に「あかがね」とルビする。]
やがて汽車が上諏訪についた。涼しく暗 た夕である。自分等は棄て飯塚君の「木曾へ旅行した日記」を讀ンで以來 ゆかしく思つて居た牡丹屋と云ふのに泊つた。
[やぶちゃん注:「涼しく暗 た夕である」の字空き部分には編者によって『〔欠字〕』と割注が入っている。]
夜に入ると 雷が頻りに鳴り出した。「電燈にさはりが出來まして。」と云つて 女中が燭臺を持つて來る。それは古風な眞鍮のであつた。自分等はその下に寐ころんで 花の樣な丁字を眺めながら 諏訪兩社の古い物語を語りあつた。
部屋の中は蠟燭の朧げな光にみちてゐる。雷は 未だ盛んに鳴る。
二十九日
上諏訪―下諏訪―和田峠 晴
上諏訪の町を出て 昔の中仙道を東へ 湖に沿ふて步いて行く。左にひらく諏訪の湖は 大きな鉛の楯をのべた樣 ほのかな朝霧の底に白い光を放つて 春の樣に霞ンだ桔梗色をうつしてゐた。
くつきりと力のある山々の輪郭。濃い紫紺の谷。時々摘綿よりも小さい白雲がふはりとその腰をなでて靜に流れてゆくのが見える。
そればかりではない。今、武津あたりを離れた小さな白帆も 湖畔の黑い林も その林の陰の家々も明に それと指される。秋の夜には定めし 湖の神の 夜 月に彈ずる 二十五絃の聲が聞えるだらう。
この穩な景色を眺めながら 自分等が下諏訪の神さびした社を見物して 西餅屋の荒村から嶮しい舊道を 和田峠の頂に辿りついたのは 彼是一時頃であつた。
心地よい風が 滿山の千萱を渡つて吹いてくる。
右は蓼科、大門の藍鼠の山塊。左は三才、保福寺の菫色の峯々。眼の下に見える濃綠の高原には 色の川が帶の樣に流れて 所々にちらばつた白樺の叢林。落葉松の森。又は草山につどつた牛の群。――それもはつきり 手にとる樣に見えた。此日は 積綿の樣な灰色の雲が 低く南東の空を蔽つてゐたので 上信境の山脈を望む事は出來なかつた。もしこの雲の帳がなかつたら 淺間、湯の丸、籠の塔、の連山が紺靑の峯に映じて その壯觀は殆ど魂を奪ふ樣であつたらう。
[やぶちゃん注:「眼の下に見える濃綠の高原には 色の川が帶の樣に流れて」の字空き部分には編者によって『〔欠字〕』と割注が入っている。]
見れば見る程峻嚴な思を感ぜずには居られない。どうしても 山は自分にとつて靈である。火でもなければ 幻でもない。
かくして 此日の暮合に 和田につく。
和田は淋しい村で 唯 依田川の水の靑ばかりが高い。獨りで 宿のくらいランプの下で日記をつけてゐると どこかで鐘の聲がする。こゝにも寺はあると見える。(七月二十九日記。)
同 三十日 和田―大屋―小諸 晴
和田から 大屋へ行つて 汽車で小諸へ來た。今日は大へんくたびれた。明日 淺間へ上る豫定である。日記をつけるのを止めて眠る事にする。西川君は相不變「長安一片月」を唸つてゐる。(三十日記。)
同 三十一日 小諸―淺間―御代田―輕井澤 曇
深い霧の中を淺間の頂上に辿りついたのは 午であつた。
見渡す限り 赤黑い燒石の原で偃松のわびしく枝をかはすのも 岩燕のさびしくとびかふのも見えぬ。左に連る無間谷の茶屋の崖 目の下にひろがる前掛山の褐色の裾。其上をお〔ほ〕ふ靑い空。一つとして荒涼とした思ヒをさせぬものはない。
殊に晴れてゆく山頂の霧の――四方を王の樣に聳えてゐた。(八月三日記)
[やぶちゃん注:「四方」には『あたり』とルビする。]
八月一日 雨後晴 輕井澤―東京
今日の一番列車で東京へ歸る事にする。
西川君は輕井澤で買つた林檎の皮を丁寧にむく。まつ紅のつやのある皮が小刀のひかる度に、長く細くむけて行くのは一寸綺麗だ。自分は窓によつてうつらうつら眠る。その中に汽車が碓氷の隨道へはいる。佛蘭西の小説家は汽車の笛の音を、喘息やみの鯨の樣だと云つた相だ。汽笛の音が、鯨なら 隨道をゆく汽車の車輪の音は、ロッペン島の海豹の寢言位なものだらう。
[やぶちゃん注:最初の「隨道」には『とんねる』とルビする。「相だ」はママ。]
妙義も 赤城も 夢うつゝの中に見そくなつて、漸く上野の停車場へついたのは一時前であつた。二人で停車場前の氷店へはいつて サイダの祝杯をあげる。少し嬉しかつた。上野から電車で家へかへる。(西川君とは途中で別れた。)
[やぶちゃん注:「見そくなつて」はママ。]
天竺葵の花は相不變赤い。汗臭い洋服を脱いで、數日來の垢を流して 夕飯の膳に向ふ。
今度は 大にうれしかつた。
八月二日 晴
昨夜はよく寐た。起きてから 感心するほどよく寢てしまつた。
それで、晝間も眠いから可笑しい。
讀書、午睡。後は記事なシだ。
八月三日 晴
今日は非常に暑い。だるくつて 何もする氣にならぬ。寐ころンで 雜誌を見てゐると樗牛の中學時代の日記が目についた。題は「光陰誌行」で「九天茫々として曇り六花片々として落ち宛然群蝶の落花に戲るゝが如し」「天澄み 風白くして山川蕭條草木洒落の候 東苑の菊花 紅芷𤾛葩 南互に艷を競ひ」などと書いてある。六つかしい日記をかいたものだなアと感心する。
四日
朝から 芝の姊の家へ行く。今日も犬に嘗められた。一体 自分は犬が大嫌である。犬と納豆とは見たばかりでも ぞつとする。此前來た時も嘗められたが 今日は二匹に嘗められたのだからたまらない。中でも佛蘭西産の護羊犬の奴は、一番 癪にさはる。姊は花をいけて居た。折角ちやんと嘆いてゐるものを 曲りくねらせて喜ンでゐるなンて馬鹿々々しい事だと思つたが、餞計な事を云つて叱られるとつまらないから 默つて拜見する。
[やぶちゃん注:「芝の姊の家」は実父新原敏三の家。この頃の芥川家は本所。]
夜は泊る事にする。
五日 晴
午から家へかへる。弟が一緒に行きたいと云ふから、つれて來た。つれて來たはいゝが、本屋の前へくると「世界御伽噺をかつて。」と云ふ。一體 小學校の二年生の癖に世界御伽噺をよむなンて 生意氣な話だと思ふ。
六日 晴
弟は昨夜泊つて、今日歸つた。家の中が急に淋しくなる。宿題をそろそろやる事にする。
七日
夜、上瀧君がやつて來る。「今年の一高の問題は難いね。」と云ふと、「ウン難しくつても、自分一人難いンぢやアないからいゝ。皆出來ないンだ。」 呑氣なものだ。
八日 曇
昨夜は恐しい風であつた。朝早く 大川端へ行つて見ると、川は黃色く濁つて、岸の柳が枝を水にびたして居る。
廉い川面は 舟が一般も見えぬ。大川もかうなると、少し川らしい。
九日 曇
今日も、衰えきらない天氣だ。そのかはり かう涼しいと、身にしみて 本がよめる。此丈は難有い。
十日 曇 驟雨
夕立があつた。夏の雨が何んとなく豪快なのは、昔からのきまり相場である。夜、上瀧君を訪ふ。
門前の碧梧桐が 依然として高い。
十一日 雨
上野の國書館へ行く。「我獨逸觀」を三度かりて 三度共なかつたのは一寸 殘念だつた。あきらめて、「聊齋志異」をよむ。
飴計な時間さへあれば、妖怪譚をよむのが自分の癖である。尤も 大分難しくて讀めない所があつた。あつても、面白いものは 矢張面白い。
十二日 雨
終日、白雨條々。
十三日 曇
朝、中野君を訪ふ。
午すぎに、長島君と宮崎君とがやつてくる。聞けば英三の例が 少くて困ると云ふ。此方は例どころか、未〔だ〕定義もきまりやあしない。殊に長島君が珍らしく、袂のついた衣服を着て來て 始終袂を「にやくかい」 にしてゐたのは、滑稽だつた。
十四日 晴
午から暑いのに 橘町の野口(學校の野口君ぢやアない)君を訪ふ。兩國橋の上を通ると、なつかしい臭がした。夏になると どこの川でも、この臭がする。磯臭い樣な 砂の燒ける樣な 何んとも云へない臭である。之をかぐ每に 自分は夏が來たなと思ふ。水練場へ行つた時には 躰がかう云ふ臭がした。褌も 帽子も 手拭も かう云ふ臭がした。その頃は 水練場の臭だと思つてゐた。なつかしい! 夏の小供の時の 夏の臭! それが未だ殘つてゐて 自分の心を若返らせるのかしれない。
十五日 曇
朝から地圖をかく。
今日も、夕立があつた。雷鳴白雨 壯快のきはみであつた。
十六日 晴
夜、西川君を訪ふ。西川君を訪ふ時は いつも大川端から 厩橋へ出て行く。大川は 夕の光をうかべて 靑白く光つてゐる。小暗い柳のかげには 赤い「うであづき」の行燈が見えて 小さな子が顏よりも大きい西瓜を嚙りながら 其前をすぎる。ピタピタと石垣をうつ波の聲 さはさはとアカシアのそよぐ音 大川の夕は涼味にあふれてゐる。
十七日 晴
昨夜は 非常な雷雨であつた……相である。
[やぶちゃん注:「相」はママ。]
自分はちつとも しらなかつた。餞程よく眠たものと見える。
少し頭痛がするので 早寢をする事にする。雷樣の罰が當つたらしい。
十八日
記事なし。
「病牀錄」をよむ。
十九日
昨夜は 高架鐡道で淺間へ上る夢を見た。汽車の中で 車掌に「此處はどこ?」ときくと「ノールウェーです。」と云つた。面白い夢だ。無事。
二十日 晴
秋が立つてから 七日になるが 矢張暑い。惰氣、眠氣が 交〻襲ふには 少々閉口する。
二十一日 晴
圖書館へ行く。
館上の西の窓の眺は、いつも乍ら 實によい。
黑い谷中の杉林につゞく綠の樹々。日のさすまゝに濃綠 淡綠 樣々の色に光つて、其間をもれる蟬の聲も 何となく床しく聞える。殊に 掃いた樣に澄〔ん〕だ夕の空の、殘照の紅も褪せたのに、紺紫の橫雲の流れを浮べて、寶玉を碎いた樣な 星の光の一點 二點、見えそめる時は そゞろに甲斐の山の夕暮もしのばれる。
讀書に疲れた頭を癒すのは 實にこの窓の御かげである。決して、穴藏の樣な食堂や、牢獄の樣な遊步場の爲ではない。
二十二日 晴
晝 金星が見えると新聞に出てゐたので、屋根へ上つて空を見た。
空は、淺黃繻子の樣に靑く光つて、銀鉤の樣な月が、今にも消えさうにういてゐる。 双眼鏡を持つて 方々をみたが どうしても見えなかつた。金星には 緣がないと見える。
二十三日
今日は 夕顏は十五さいた。自分は此花がすきだ。白い中に ほのかな黃の筋のはいつてゐる所が 何んと云へなくいゝ。此花を 「夜會草」とよぶのは、けばけばしくて 嫌だ。矢張 夕顏と云ふのが、しとやかでよい樣に 思はれる。
二十四日
昨夜は、寐られなかつた。幻想 妄想の包圍攻撃をうけて、一時をうつても 二時をうつても目がさえてゐた、其せいか 今日は何をするのも、嫌だ。
二十五日
家の後に、メリヤス屋がある。そこの女が 朝早くから歌をうたひながらミシンをまはし出す、よくは聞えないが、何でもいやに哀しい歌である。朝 蚊帳の中できいてゐると、何だか泣いてゐる樣な氣がしてならない。秋の夜だつたら 更によく調和するだらう。これは八月の始から 每朝やつてゐる相だが 自分のきいたのは、今日が始めてである。
[やぶちゃん注:「相」ママ。]
二十六日
朝のうちは 地圖をかく。蠅がとんで來て スカンヂナビア半島にとまる、カテガットの海峽をこえて ドイツヘはいつたと思ふと、ツイと飛んで 大西洋をグリーンランドの方へ 徒渉してゆく。氣樂なものだ。
二十七日
宿題をとく。
トルストイが 重患に罹つたと、新聞に見えてゐる。
二十八日
無事。
鷄頭が大分 大きくなつた。秋が來たナ と思ふ。
二十九日
夜 西川君を訪ふ。大川端を通ると、元の小學校の先生が釣をしてゐた。「つれますか。」と聞くと、「ちつともつれん。つれなくつてもいゝンだ。」と云つた、流石は先生だ。
三十日
夜 能勢君と、宮崎君を訪ふ。今度は 十三日の逆襲である。
かへつたのは、九時頃。電車が 横網の車庫へはひつてゆく。電車も 大方 眠いのだらう。
三十一日
明日から 學校が始まる。始まつても、平氣なものだ。學校へ行つてゐるのも 休みで眠てばかりゐるのも 心持にさう變りはない。淸水君と能勢君とがやつてくる。二人ともやつぱり 氣樂らしい。悠然として 南山を見る仲間と見える。南山と迄行かなくつても 胃活の廣告位は 每日見てゐるのに違ひない。
夜 早くねる。
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