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2017/12/16

柴田宵曲 俳諧博物誌(28) 鶴 二

 

       

 

 小学校の友人に鶴を飼っている家があった。勿論相当の富豪で、家族は全部広い別荘に住んでいた。われわれがこの別荘へ遊びに行くようになつたのは、明治四十年以後だけれども、鶴はそれ以前から飼われていたらしい。子規居士が『病牀六尺』に書いた根岸近況数件の中に「某別莊に電話新設せられて鶴の聲聞えずなりし事」とあるのは、この別荘に相違ないと思う。鶴は一番(ひとつが)いであったが、われわれの知っている時分には一羽が竹の柵の中に隔離されていた。友人の話によると、喧嘩をして仕方がないから、ああやって置くのだという。もう一羽の方は池の汀に下りたり、築山の上に上ったりしては、時々しわがれたような声で高らかに鳴く。自由に闊歩する鶴を見たのは、この友人の別荘が最初である。檻の中にいるのと違って、長い鋭い嘴が何だか恐しいように感ぜられた。この鶴が或時柵の中に飛込んで喧嘩をした末、遂に相手を斃(たお)してしまったそうで、後には一羽になって相変らず園中を徘徊していた。

[やぶちゃん注:「病牀六尺」のそれは明治三五(一九〇二)年の七月十一日のクレジットを持つ「六十」の「○根岸近況數件」の五番目の条。]

 芭蕉の

 

 梅白しきのふや鶴を盜まれし   芭蕉

 

という句は、鳴滝の山荘に三井秋風(しゅうふう)を訪れた時の作である。鶴でもいそうなところに鶴がいない。昨日あたり盗まれたのか知らん、という意味の句らしい。梅と鶴とによって林和靖(りんわせい)に擬したという説もあるが、秋風はそんな高士ではなさそうだし、林和靖に擬したとすれば、同じく鶴のいないことをいうにしても、「放つ」の語を用いるべきところであろう。「盜まれし」ではいささか穿ち過ぎる。蕪村の

 

 秋の空きのふや鶴を放ちたる   蕪村

 

という句は、梅も山荘も姿を消して、蒼々たる天だけを舞台にしているが、芭蕉の句から脱化していることはいうまでもない。放たれた鶴は悠々と秋天を翔りつつあるか、鶴を放ち去った朗然たる心で虚空を仰ぐにとどまるか、所詮空想の産物だから、深く穿鑿するにも及ぶまいと思う。

[やぶちゃん注:芭蕉の句は「野ざらし紀行」に、

 

  京にのぼりて、三井秋風が

  鳴瀧(なるたき)の山家を

  とふ

   梅林

 梅白し昨日ふや靏(つる)を盗れし

 

で載る。貞享二(一六八五)年二月の句。三井秋風(正保三(一六四六)年~享保二(一七一七)年)は北村季吟の門下。本名、三井六右衛門時治。現在の三井財閥となる越後屋一門の長者であったが、放蕩者であった。京都西郊上京区の御室川に面して鳴滝に別荘「花林園」を持ち、文人墨客の訪問が繁く、この時期の関西文壇のサロンであった。しかし、放蕩がたたって財産を失い、失意のうちに江戸で果てた(ここは伊藤洋氏の「芭蕉DBの関連人名データに拠った)。芭蕉は「野ざらし紀行」の折、この山荘を訪れ、長逗留しているが、後には何度誘われても行かなかったというから、芭蕉も三井の底の浅さを見抜いていたものであろう。それを知ってか知らずか、芭蕉生前か没後直ぐには、本句が富豪者に阿(おもね)った句であるとする批判があったことは事実である(「去来抄」などに拠る)。

「林和靖」は北宋の詩人林逋(りんぽ 九六七年~一〇二八年)の諡号。西湖にある孤山に隠棲して、梅を妻とし、鶴を子として過ごしたという隠逸詩人。西湖の美しい自然を詠じた詩人として知られる。宵曲は訪れた庵主の三井秋風を林和靖に擬したという説に懐疑的だが、少なくともこの句を庵主秋風は、そう受けたことは間違いない。何故なら、秋風はこの句に、

 

  杉菜に身擦る牛二ツ馬一ツ

 

と脇を付けているからである。そんなごたいそう鶴なんぞはおりませんよ、ほれ、杉菜に身をしきりに擦りつけておる牛が、二っつに馬一つ、これ、おるだけの山家(やまが)にてござる、の意。]

 そこへ往くと、

 

 舞鶴や天氣定めて種下(たねおろ)し 其角

 

の句は一種の実感を具えている。われわれが鳶(とんび)によって晴を卜(ぼく)するように、鶴の舞うのを見て天気の定ったことを知り、種下しをするというような事実も、元禄時分にはしばしばあったのであろう。江戸時代の末まで、浅草田圃に鶴の餌まきがいた位だから、その辺の消息は現代人の想像の外である。

[やぶちゃん注:「種下(たておろ)し」田畑に作物の種を蒔くこと。

「元禄」一六八八年~一七〇四年。

「浅草田圃」江戸の浅草新吉原(現在の台東区)の後方にあった水田地帯。「吉原田圃」とも呼んだ。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

 鶴を畫く雲井の空や雞合(とりあはせ) 太祇

 

に至ってはいよいよ巧緻であるが、その印象はむしろ絵画的で、鶴そのものの感じは稀薄になることを免れぬ。しかし古人の鶴の句を物色しても、青天に舞う姿はそれほど多くない。

[やぶちゃん注:「雞合(とりあはせ)」闘鶏。雄鶏を闘わせて勝負を競う遊び。古く宮中では陰暦三月三日に行われた。 春の季語。]

 

 しづけしや鶴に走るあきの雲   曉臺

 

は蕪村の「きのふや鶴を放ちたる」を更に具体化したように見えるが、雲耶(か)鶴耶(か)は奇想に似て実は陳套を脱せず、雲にあらずして鶴にきまったというのも、趣向のための趣向たるを免れぬ。画とすれば凡手の手に成ったものであろう。

 

 舞鶴の影や涼しき草の上   巴兮(はけい)

 

などは、空中の鶴を描きながら、かえって草の上に落つる影を主にしているし、

 

 むれ鶴の見こうで下る枯野かな  桑枯

 

著陸の模様が主になっている。われわれの眸裏(ぼうり)に映じた鶴と同じく、地上の姿が大部分を占めるようである。

[やぶちゃん注:「著陸」「ちゃくりく」。着陸に同じい。]

 

 日の春をさすがに鶴の步(あゆみ)かな 其角

   聖代

 鶴おりて日こそ多きに大晦日      同

 

 「日の春」の句は其角としては格別奇想でもない。

[やぶちゃん注:「日の春」元日のことと読めるが、どうも其角の造語らしい。芭蕉は後にこの語を批判して、『其時は花やかに聞え侍りしが、今是を味ふにあやし』(「蕉門俳諧語錄」)としている。]

 

 春たつや靜(しづか)に鶴の一步より  召波

 

は其角の句より得来ったものであろうが、独造、模造の問題は別にしても、句の厚みにおいて遠く及ばぬ。大三十日の方は尋常に安ぜぬところに、其角らしい面目が窺われる。元禄の昔でも大三十日の鶴は不調和だから、「日こそ多きに」といったものらしいが、存外こんな事実があったのかも知れない。

[やぶちゃん注:「独造」独創。オリジナルに作ったもので其角の句を受けたものではないこと。]

 

 鶴舞ふや空にしられぬ大三十日   水綾(すいりよう)

 

は明に後塵を拝したものである。「日こそ多きに」もあまり妙とはいえないけれども、直裁にいい放ってあるだけ、「空にしられぬ」の微温的なのにまさること数等である。

 地上に下りた鶴の句の中で、現代人に最も意外に感ぜられるのは、摘草に出るような田野の句の多いことであろう。

 

 女出て鶴たつあとの若菜かな   小春

 芹摘(せるつみ)や向ひへ𢌞る曲馬の跡

                 十丈

 芹摘の鶴と化してや水かゞみ   三父

 卒度(そつと)往て若菜摘(つま)ばや鶴の傍

                 土芳

 七草に鶴の蹈ざる草もなし    雄尾

 鶴下りてふみあらしけり土筆(つくづくし)

                 淇水(きすい)

 はるの野や鶴にきはめた足のあと 李言

 眠るかと鶴見て過る野の柳    白雄

 七種(ななくさ)や七日居りし鶴の跡

                 靑蘿(せいら)

 凍(こほり)とけや野づらに高き鶴の脛(すね)

                 同

 

 春暖の催すにつれ、人は閉籠められた冬の生活から解放されて野に出る。そこに見かける鶴の姿が別に珍しい景物でなかったことは、如上(じょじょう)の句が相当多いのでも察せられる。更に季節が変れば、

 

 門さきに鶴見る鳥羽の靑田かな  文曉(ぶんげう)

 苅かけし田面(たのも)の鶴や里の秋

                 芭蕉

 稻村の鶴を見てをるすゞめかな  孤屋

 夕凪(ゆふなぎ)や鶴もうごかず稻むしろ

                 蓼太

 蒔(まき)つけし夜より鶴鳴(なく)岡の麥

                 靑蘿

 麥まけと鶴から貰ふ日和かな   素丸

 鶴の脚の間より見ゆる枯野かな  成美

 田の空もひとつに鶴の寒さかな  助然

 

という風に展開して来るが、いずれにせよ昔の田野と鶴とは平凡な取合であり、人間との交渉も頻繁な方だったのである。文暁の「鳥羽の靑田」の如き、現在のわれわれでは稗蒔(ひえまき)を連想するか、鷺で間に合せて置くかするより仕方がない。「百姓鶴に語つて曰く」という稗蒔風景は即ち昔の田園の縮図なので、あれによってその空気を髣髴することになるらしい。仙人高士とかけ離れた田園の天地に徘徊する平凡な鶴は、俳諧の特産物とはいえぬにしろ、俳諧によって開拓された世界の一に算(かぞ)うべきであろう。

 

 尻すゑて鶴の守する春日かな   寵山

 鶴をりて人に見らるゝ秋の暮   白雄

 とし忘れ廣野の鶴を見に行(ゆか)ん

                 樗良

 乾田鶴のふみ出す浜の松露(しようろ)かな

                 靑柳

 

 こういう句のどれを見ても、人間と鶴との間に著しい距離は認められない。今の鶴は動物園なり公園なり、改めて見なければならぬものになっているが、古人は寓目の間に多くの鶴を描いている。しかも鶴がおめでたい表徴となり、一部から月並の代表者の如く見らるるに至ったのは、昔の鶴が人間と親しい間柄にあったためでなく、全然別の方角から来ているのである。この事は別に考えて見なければならぬ。

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