原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 夕凪
夕凪
老婆は臺所の隅の火鉢に依掛つて肉を燒いた。彼女の額も首も汗に滲み、まるで自分が燒かれてゐるやうな氣がした。四つになる兒が火のついたやうに傍で泣いた。口を四角に開けて、兩手で足をさすりながら「驛に行かう、驛へつれて行け。」と強請んだ。
臺所の高窓には午後五時の靑空と白熱の光を放つ松の樹があつた。その松では油蟬が啼いた。肉はじりじりと金網の上で微かな音を立てた。胃から血を吐いて三日苦しんで死んだ、彼女の夫の記憶が、あの時の物凄い光景が、今も視凝めてゐる箸のさきの、灰の上に灰のやうに靜かに蹲(うづくま)つてゐる。彼女は火鉢の火氣のなかに身を委ねて、今うとうとと假睡みかけた。
突然、何かただならぬ物音が彼女の意識を甦らせた。と、今迄泣いてゐた子供も一寸泣き歇んだ樣子であつた。一睡、鋭い、奇異なものの氣配(けはい)が、空氣に漲つて裂けた。彼女がぼんやり怪しんでゐるところへ、表からどやどやと子供達が馳せつけて來た。
「大變だ、火藥庫が爆發した。」
「ほら、あそこに煙が立つ。」
子供達は晴やかに喚き立てる。老婆は箸を執つて、燃えてゐる方の肉を裏返した。
[やぶちゃん注:「依掛つて」「よりかかつて(よりかかって)」。倚りかかって。
「強請んだ」「せがんだ」。
「視凝めて」「みつめて」。
「假睡み」「まどろみ」。「微睡(まどろ)み」。]