愛を大空に 原民喜
[やぶちゃん注:初出未詳。芳賀書店版全集第二巻(昭和四〇(一九六五)年八月刊)に初めて収録された。内容と底本(後述)での配置から、戦後のものである。
底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」の「エッセイ集」に拠った。現代仮名遣(但し、拗音表記がないので、歴史的仮名遣を無理に変えた可能性が否定は出来ない)であるから、漢字の正字化は行わず、そのままに電子化した。
本篇は現在、ネット上には電子化されていないものと思う。【2017年12月23日 藪野直史】]
愛を大空に
きようもひとり部屋を出て、僕は五日市街道を西荻窪の方向にむかつて歩いて行つた。うつすらと曇つた静かな午後だつた。見上げる空に枯木の梢は淡く、竹籔の横手にひろがる径は夢のように仄暗いのだ。僕は何を考え、何を嘆いているのだろうか。そうだ、あのことかもしれない。札幌にいる僕の友人が酔ぱらつて前歯を折つたというそんなハガキを僕にくれたのだ。それほど泥酔しなければならぬほど、やりきれないものが彼にあつたのだろう。僕は……?僕の生活の前歯はまだ折れてはいないのだろうか。
生活の前歯……?それで嚙み砕けるだけの生活が僕にあるというのだろうか。僕は何ものだ。僕は侘しい日本の無名作家……。僕は西荻窪の駅に向かう狭い商店街をとぼとぼ歩いてゐた。たつたこの間、火事で焼けた跡に今はもう新しい家が出来上つているのだ。無力な戦災者の僕にこのことは驚嘆に価するのだ。そうだ、世の中は速い、世界は動いている、ぐるぐる滅茶苦茶に、そして整然ととにかく軌道に乗つているのかもしれない。
僕は電車に乗りたくなつた。西荻の駅に来て、切符を買つてホームの腰掛に腰を下ろした。それからふと、僕は隣りに腰かけているマンドリンをかかえた異様な老人に気づいた。その人の腕の白い布きれには〈愛を大空に〉という文字がしるされて腕章のようにくつついているのだ。
〈愛を大空に〉突嗟に僕は何ごとかを憶い出した。そして僕は相手の姿をぼんやり眺めた。あの男だろうか……?僕がまだ少年の日、広島の家の玄関にやつて来てマンドリンを弾いた青年がいた。放浪音楽家だと称するその青年は一つの信念に燃えているような顔つきだつた……が。今、僕の眼の前にいる男は、そのもしやもしやの白髪も、額の深い皺も、粗末な服も、がつしりした靴も、すべてが長い歳月を耐えて、遠い路を踏みしめて来たことを語つているようなのだ。
だが、相手は今、雑轟からコツペイパンをとり出すと、平気でむしやむしや喰べはじめた。
それにしても、この暗い、激しい、数年間を彼はどうして生きて来たのだろう。僕はつくづく驚嘆するばかりだつた。
が、さきほどから、僕の前に立つて、老人をしげしげ眺めていた中年の紳士も、同じことを考えていたのにちがいない。
『おじさんは元気だなあ……』
とふと彼は懐しそうに口をきいたのである。老人はただ黙々とうなずいていた。
〈愛を大空に〉そうだ、このことは、あの前歯を折つた友にも知らせてやろう。彼もまた思い出すにちがいない。僕は電車に乗るとすぐ思いついていた。
[やぶちゃん注:原民喜は昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分、吉祥寺―西荻窪駅間の鉄路に身を横たえて自死した。]