原民喜作品集「焰」(正規表現版) 舌
舌
四丁目の角で二人を見はぐれたのを幸と、川田はぐんぐん勝手な方向へ進んだ。振返つたらまた彼等がやつて來さうなので、傍目も振らなかつた。眼は怒り、額は愁ひ、短靴はやたらに急いだが、搾めつけられた胸は今やうやく緩んで來た。高層建築の上に濁つた秋空が、茫漠とした觀念のやうに橫はつてゐた。そこに川田は、さつきの議論の續きを感じた。
彼等二人は終に論理の釘で川田を身動きさせなかつた。そこへ一人が亂暴に鑿を以て打込んで來た。その上に一人が金槌で叩きつけた。川田の肋骨はために碎かれて、鮮血が迸り出たかと思はれた。一瞬にして永劫の屈辱を受けた者のやうに川田は靑ざめて默つた。すると、一人は悠々と食べさしの汁粉を箸で弄び、もう一人は冷めたお茶を啜り出すのだつた。そして勘定になると、川田が金を拂つた。汁粉屋を出ると二人は猶も巫山戲ながら、後から川田に絡みついて來た。何處までも川田の氣分を害ねようと、二人で協力してゐるかのやうに。
今、一人きりになつて、靜かに振返つてみると、川田はとにかく憂鬱であつた。今日午後の授業が終つて、川田が下宿へ歸ると、早くも一人が退屈の押賣りにやつて來た。焦々してゐるうちに、又一人がやつて來た。そこで到頭二人を誘つて、三越へ出掛けると、一人が草臥れたので汁粉屋へ行かうと提議した。しるこ屋の二階へ上つて、三十分も雜談してゐたところ、突然くだらぬことから議論が燃え上つた。始め川田は無鐵砲に應酬してゐると、相手は巧妙に伏兵を使つた。思ひがけぬところで辟易(たじろ)いでゐると、相手は矢繼早に攻擊にかかつた。最初から旗色を伺つてゐた、もう一人は、ここで完全に相手に和した。川田は焦々しながら次第に窮地に追ひつめられた。
結局は論理の遊戲に過ぎなかつたのだが、最後に彼等の云つた意味を換言すればかうなるのだ、――君の頭腦の構造は歪んでゐる、君は社會及び人類から白痴乃至狂人として取扱はるべき人間だ。
しかし、それならば、何のために彼等は己(おれ)と交際はうとするのだ。己を侮辱することに依つて彼等の優越感を確保するつもりなのか、それとも唯單に、たとへば汁粉を奢らさうとしてであるか。
川田はソクラテスにやりこめられたプロタゴラスに同情しながら、何時の間にか、日比谷公園に來てゐた。と、樹蔭から飛出して來た、一人の少年は川田の顏を見上げて、「バカー」と云つた。そして、奇妙な身振りと、素速しこい逃げ腰で、赤い長い舌をぺろぺろと見せびらかせるのであつた。

