芥川龍之介 手帳7 (3) 共同便所にされた大明永樂年鑄の鐘・十刹海・永安寺・九壇
○府學胡同育監坊 京師府立第十八國民高等小學校 ○厨子内の壁に雲龍を描く 外 萬古綱常 朱柱 靑綠 金なり 右に大棗あり 前は小學教室(grey)
[やぶちゃん注:「育監坊」というのは初等教育施設か。
「萬古綱常」浙江省杭州の岳飛祠に記された「三字蒙冤、千秋湛血。一生忠勇、萬古綱常。」に由来するもので「世界を支えている倫理・道理の綱目は古えから万年先まで永遠不変である」という意。]
○右の墻(宋劉嶽申撰の文公傳嘉靖二十八年)(重修碑記道元四年彭邦疇書)ニ石はめこみあり ○丞相楡(大)
[やぶちゃん注:「嘉靖二十八年」一五四九年。明代で、そうすると、「宋」「申」を無視するなら、明代の政治家に劉嶽なる人物はいる。「宋」を生かすと「文公」は春秋時代の宋の君主(在位:紀元前六一一年~紀元前五八九年)。
「彭邦疇」中文サイトの資料を探ると、嘉慶十七年(西暦一八一二年)のクレジットを持つ公文書の中に、彼の名を見出せ、清代の政治家に「彭邦疇」という人物は確かにいる。そう考えると、この「道元」が怪しい。中国の歴代の元号に「道元」はない。「道光」なら、清の一八二一年~一八五〇年である。]
○陸軍部衞隊營本部 ○鐘庫胡口
○大明永樂年鑄 共同便所 周圍grey houses. つき當りに門 子供たち遊ぶ 犬二三匹 永樂五鐘一 鐘周土瓦堆積す
[やぶちゃん注:「北京日記抄 三 十刹海」の冒頭に生かされている。私はそこで現在、科学的にも非常に高く評価されている名鐘が当時は半ば共同便所とは嘘だろうと思って注したのだが、どうも事実らしい。
「大明永樂年」明の永楽は一四〇三年から一四二四年まで。]
○新聞 一月十錢はよんで返し一日遲れによむものは三十錢但紙共なり(五百部新聞のタゼイによまる所以)茶館へ新聞を持ち𢌞るは借すなり 白話報は二人にてよむ爲兩方より逆によむ 北京新聞は多き時50に餘る これらの配達は走るを得ず(騷動を生ずるを恐る)(車を引けば走れる)故に新聞は十時 十一時おそきは二時 日本人の急ぐものは新聞社へとりに行く
[やぶちゃん注:当時の驚くべき新聞事情、というか、驚きの読まれ方・読み方が興味深い。
「タゼイ」「多勢」であろう。
「白話報」清朝の末期に改革派によって中国各地で発行された新聞・雑誌。本来は啓蒙思想を広く民衆に宣伝するために、一般民衆に分かりやすい白話(口語)を採用していた。]
○十刹海 岸は柳 楡 茶館はアンペラ葺(白布のテエブル 男女は夫婦も別席) 覗き眼鏡 見せ物(はりねずみ、大蝙蝠) 折字 人丹賣り 旗人の妻(禮は膝をかがめ腰をかがめず 右手を垂直ニ下グ)(ロチを思ふ) 道士と兵士と步く 支那のハイカラ 杏賣り 斜日向うの柳と人家にあり 人力車 驢にのりてすぐるものあり 左側通行を令する巡査 茶館に萬國旗 田に鵲 蓮花未開かず 彈壓署(巡査がとりしまる所)
[やぶちゃん注:「十刹海」は「什刹海」「河沿」とも言い、北海公園の北、地安門外の西側に広がる湖。蓮の名所として知られる。周囲には古刹が点在する。
「アンペラ」漢字表記では「筕篖」。インド・マレー地方原産の単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科アンペライ属アンペライ Machaerina rubiginosa(単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサJuncus
effusus var. decipens に似、用途も同様なことから「アンペラ藺(い)」とも呼ぶが、目レベルで異なる全くの別種である)。茎は直立し、一メートルほどで下部に数枚の鱗片葉を持つ。このの茎で筵を編む。一説にポルトガル語の“amparo”(日覆い)からとも、また、茎を平らにして敷物や帽子などに編むことから「編平(あみへら)」が転じたする説がある。
「折字」不詳。
「旗人」満州旗人。清代、その支配層は八つの「旗」と呼ばれる社会・軍事組織によって編成されており、全国の要衝に八旗駐防という駐在地を置いて支配した。すべての満州人は八つの旗に配属され、後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設された。この場合は、恐らく「北京八旗」で、旧清朝皇帝の近衛兵であろう(以上は主にウィキの「八旗」を参考にした)。これを含め、このパートは十全に「北京日記抄 三 十刹海」にの生かされてある。
「鵲」七夕伝説における織姫星と彦星の間を繫ぐ掛け橋となる、スズメ目カラス科カササギ属カササギ
Pica pica。現代中国語では「喜鵲」と呼び、親しまれている。
「彈壓署」穏やかならざる呼称だが、本当にこんな名称であったものか?]
○諷學館 北京大學第三院 柳 河 左折 交番 泰山石敢當 蓮濠 男蓮をとる 燕 北海 團域 牌樓(積翠) 玉蝀橋 蓮池 鵞 パイロウ(堆雲)
[やぶちゃん注:「諷學館」不詳。清代の学問所か?
「北京大學第三院」北京大学第三医院(医学部の一部)は一九五八年だから違う。日本のように予科・本科とくるなら、大学院のことか?
「泰山石敢當」沖繩で知られ、私の家の玄関にも二人の教え子から送られたそれが鎮座して邪気を防いでいるが、本来は中国で発祥したもので、福建省が発祥とされている。参照したウィキの「石敢當」によれば、『泰山の頂上にも石敢當が存在している』とあり、実は「泰山石敢當」とも呼ぶのである(リンク先にそう書いた沖繩の石垣島のその写真がある)。
「玉蝀橋」「玉蝀」は「ぎょくとう」と読み、「白い虹」の意で、中国では古来より、アーチ形の石橋の比喩的呼称である。
「パイロウ」前の「牌樓」。中国式の楼門。]
○永安寺(赤壁 金碧 額は群靑に金 窓緣白)
[やぶちゃん注:「北京日記抄 五 名勝」(最終章)に、
*
永安寺。この寺の善因殿は消防隊展望臺に用ゐられつつあり。葉卷を啣へて殿上に立てば、紫禁城の黃瓦(くわうぐわ)、天寧寺の塔、アメリカの無線電信柱等(とう)、皆歷歷と指呼すべし。
*
と出る。筑摩全集類聚版脚注は『未詳。』とし、岩波版新全集は注さえ挙げない。直後に北海を挙げているので、これは北海に浮かぶ瓊華島にあるチベット仏教寺院永安寺である。山上にラマ塔(白塔)が立つはずだが、「北京日記抄」では全く描写していない。しかしメモにはちゃんと以下(↓)の通り、ある。]
○瓊華山 白塔山
○善因殿 五彩の瓦(黃、綠、藍、紫) 壁に小佛 塔内靑銅のラマ佛(angry)をまつる 眺望は左に宮城の黃瓦(遠く天壇の樓)、アメリカの無線電信柱 右に中海 大理石橋を二分する壁 更に左に天寧寺の塔 西山は曇る 燕盛にとぶ 塔下白松美し 殿は消防隊瞭望臺なり 景山に石炭を貯へ 大液池(三池)に水を貯ふ(元の世祖) 北淸事變の時景山をほりしも炭なし
[やぶちゃん注:「善因殿」白塔の脇に立つ祭殿。上部は円形で下部は方形をしており、四方の壁には四百四十五体の菩薩像がレリーフされている。
「瞭望臺」監視台。昔は、日本消防署にも普通にあったのに。何か、淋しい。
「北淸事變」義和団事件の別称。日清戦争後、義和団が生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、一九〇〇年には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動し、これを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。]
○水の流れ方――玉泉山天下第一泉――昆明湖――三海――護城河――通惠河――白河
[やぶちゃん注:「玉泉山」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「昆明湖」玉泉山から東。ここ。
「三海」昆明湖の南東、故宮の西にある北海・中海・南海の総称。ここ。
「護城河」不詳だが、名称と流路から考えると、故宮の南直近を流れる「菖蒲河」ではあるまいか? ここ。
「通惠河」故宮の東を流れる。ここ。
「白河」不詳であるが、「通惠河」の下流域には大きな「潮白河」という大河があり(ここ)、これが最後には渤海湾に流れ込んでいる。芥川龍之介は水練の達人でもあり、〈水の人〉であったと私は思っている。最晩年の「本所兩國」や、比較的知られた初期作品「大川の水」は言わずもがな、読まれることの少ない、彼の学生時代の紀行文「松江印象記」(初出形)をご覧戴ければ、一目瞭然であると思う。]
○塔外 北海を見る 洞穴(神仙趣味)山に沿うて亭 階急 天子女を怕れさす爲か(中の氏説) 戲臺
[やぶちゃん注:「中の氏」中野江漢(明治二二(一八八九)年~昭和二五(一九五〇)年)中国民俗研究家。本名は中野吉三郎。福岡生まれ。大正三(一九一四)年(翌年という記載もあり)、二十六歳で北京に定住、北京連合通信社を設立、約三十年間、在中した。「北京日記抄 四 胡蝶夢」で芥川も語っている「支那風物研究会」を主宰し、「支那風物叢書」を刊行、同叢書の一つとして民俗学的にも考現学的にも優れた一九一〇~一九二〇年代の卓抜な北京案内記「北京繁昌記」全三巻(大正一一(一九二二)年~大正一四(一九二五)年刊)や、古書店の梗概に、合理的性交の秘法や支那に於ける不老回春術及び秘薬を解説、とする発禁本「回春秘話」(昭和六(一九三一)年萬里閣書房刊)等、誠に興味をそそる著作が多数ある。昭和一四(一九二九)年には玄洋社(明治一四(一八八一)年に総帥頭山満ら旧福岡藩士を中心によって結成された大アジア主義を標榜する右翼団体)の一員として支那満蒙研究会機関誌『江漢雑誌』も創刊している。芥川龍之介の北京滞在中、通訳と案内をしたようである。龍之介より三つ年上。]
○北海 藻 蓮 菖蒲 右に先農壇 先蠶壇の赤壁 水に臨む大理石ラン 樓上碧照樓の額 樓下湖天浮玉の額 柳槐間黃瓦赤壁綠瓦 曇天燕飛
[やぶちゃん注:「先農壇」明代の一四二〇年に建立された九壇の一つ(歴代皇帝が催す祭事は「壇」と呼ばれる高さ二メートルほどの高台で行われた。このような壇が紫禁城を中心に配置され、最終的には月壇・日壇・天壇・祈年殿・地壇・社稷壇・先農壇・太歳殿・先蠶壇の九基が作られた。それぞれに別個な祭事上の役割があり、祭りは国家の一大事業として非常に厳粛に行われた)。農耕と医薬の祖とされる神農氏を祭り、嘗ての祭事の際には、皇帝自らが農具をここで用いて修したとされる。
「先蠶壇」清代の一七四二年に建立された、九壇の中で一番新しい祭壇。毎年、春、皇后はここで桑を祭った。妃が代行することもあったという。女性が上がれた唯一の壇であった。現在の北海公園北端東側に位置するが、ここだけが、九壇の中で現在、唯一、非公開となっているが、その理由は文化保護でもなんでもない。この敷地内に政府要人の子息の幼稚園が設置されているためである。以上の九壇の情報は真下亨氏のサイト内の「北京スナップ写真集」の「九壇之録」の各記載情報に拠った。
「ラン」は「欄」。]
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