老媼茶話巻之六 山中の鬼女
山中の鬼女
信濃より都へのぼりける旅人、木曾路にて道にふみまよい、爰(ここ)かしこと、さまよひ、或山中に壱ツ家(や)を見付(みつけ)、悦(よろこび)て立寄(たちよ)り、宿をかりけるに、五十斗(ばかり)の女、立出(たちいで)て、宿を貸(かし)ける。
外に人もなく、かの女斗(ばかり)、いろりの側(そば)に、何やらん、なべに取り入れ、火を焚居(たきゐ)たり。なべより、
「ぐつぐつ。」
と煮上りける香(ニホイノ)、頻(シキ)りに、うまくにほひけるを、旅人、申樣(まうすやう)、
「我、山深く道にまよい、野くれ山くれ、道すがら、人家なかりしかば、甚だ、餓(ウヘ)に望みたり。侘(わび)しきものにても、くるしからず。何ぞ、食事をあたへ玉へ。」
女、聞(きき)て、笑(わらひ)て答(こたへ)ず。
旅人、重(かさね)て、
「鍋に、かしき玉ふ物は、何にて侍るぞ。それを少し、ほどこし給へかし。」
といふ。
女、聞て、
「是は、魔ゑんの食物(くひもの)也。我(わが)夫、遠くへ行(ゆき)て押付(おつつけ)、歸り來(きた)るべし。其(その)てんしんを儲置(マウケおく)なり。人の喰(くふ)べき物にて、なし。」
と云(いふ)。
女のつらつきをみるに、先(さき)みし面影とはこと替り、眼(まなこ)、大きく光り、口、耳もとへ切(きり)のぼり、さも、すざましき鬼女となれり。
旅人、是を見るに、鍋にて煮るものは、皆、人の首・手足なり。
旅人、覺へず、表へ飛出(とびいで)、息を限りに逃(にげ)はしる。
鬼女も續(つづき)て飛出、
「おのれ、何方(いづかた)へやるべき。」
とて、山の覆ひかゝるごとく、透(すき)もなく、追懸(おひかく)る。
旅人、今はせんかたなく、或(ある)辻堂江走り込(こみ)、内陣江入(いり)、御佛のうしろへ、
「助け玉へ。」
とて、隱れ臥(フ)す。
女、續(つづき)て追(おひ)たり。
爰(ここ)かしこ、尋(たづね)めぐりけるが、旅人を見出(みいだ)さず。
さも、おそろしき聲を上(あげ)、
「取逃(とりにが)しける口おしさよ。」
と訇(ののし)りながら、風のふくよふに、出(いで)さりけり。
旅人、からき命をたすかり、ほふほふ、都へ登りける。
[やぶちゃん注:「一(ひと)つ家(や)の鬼婆」(浅茅ヶ原(あさぢがはら)の鬼婆)の山深い木曾版で、あれは人気なく淋しい原とは言えど、現在の東京都台東区花川戸がロケーションであるのに対し、これは絶体絶命の深山(みやま)の逃げ場のない場所だけに文字通り、鬼気迫ってくる。しかも、鬼婆の謂う通りであるなら、彼女は独り者ではなくして、「人の首・手足」を煮込んだ「魔ゑん」(「魔緣」)「の食物(くひもの)」を大好物とする「夫」がいると言い、それが直に帰って来るというのだから、たまったもんではない。しかし、あまりに定番にハマり過ぎていて、話柄としてのオリジナルな怪異性は減衰してしまっている。
「ふみまよい」ママ。「踏み迷ひ」。
「野くれ山くれ」小石の多い野道や山道。また、野山で日が暮れてしまうこととも言う。両義ともに含んでいるととってよかろう。
「餓(ウヘ)」ママ。「ウヱ」が正しい。
「侘(わび)しきもの」粗末なもの。
「かしき」「炊ぎ」。「かしき」だと古形。「かしぎ」と読んでもよい。通常は飯を炊(た)くことだが、広く「火にかけて食い物を作る」「煮る」の意もある。
「てんしん」「點心」。ここは簡単な軽い食事の意。
「儲置(まうけおく)なり」調理なして供するために煮込んでいるのじゃて。
「つらつき」「面付き」。
「御佛のうしろへ」「助け玉へ」で、何故か、鬼婆は彼を見出せず、目出度く逃げおおせるというのは、仏力といことになろうが、これまたダメ押しでつまらぬ。]