フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム 不思議なヤーフ (2) / 不思議なヤーフ~了 | トップページ | ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム たのしい家 (1) »

2017/12/08

柴田宵曲 俳諧博物誌(22) 狼 一

 

     

 

       

 

 前門の虎、後門の狼とはいうが、熊に継ぐに狼を以てすでは語を成さぬ。殊に熊の尾の長からざることは、これを継ぐに当って頗(すこぶる)る妙でない。狼に伍するのはあるいは不平かも知れぬが、日本のような猛獣の乏しい国に生れたのを宿命として、不承してもらうより仕方があるまいと思う。

[やぶちゃん注:宵曲は本邦の狼のみを扱っているから、動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 食肉(ネコ)目Carnivora イヌ科 Canidae イヌ属 Canis タイリクオオカミCanis lupus 亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax(絶滅種。学術的に信頼出来る確実な最後の生息情報は明治三八(一九〇五)年一月の奈良県吉野郡小川村鷲家口(現在の東吉野村鷲家口)で捕獲された若い(後に標本となって現存)である。ここはウィキの「ニホンオオカミ」に拠った)を挙げておけば一応はよいのであるが、実際には本邦では野犬・山犬も混同して「狼」と呼んできた経緯があるから、広義の人間が飼育していない野生の通常の犬(イヌ属 Canis)類も含まれるとして読むべきである。]

 狼に関しては古来多くの伝説的話柄が存在する。武者修行と号して講談の天地を行く者は、淫祠邪神の類を退治するか、山中で群狼を相手に闘うか、大体相場がきまっている。もし日本に狼というものが活躍しなかったならば、彼らの武勇伝は半(なかば)以上精彩を失ってしまうに相違ない。けれども実際問題として、どこにそういう群狼の世界があったかというと、伝説の霧に包まれて所在は不明になるのである。柳田国男氏に従えば、「狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、そう古くからの事ではなく、以前は畏敬もすればまた信頼もしていて、人と狼との珍しい交渉があった」のだという。単なる話だけの世界にしても、犬梯(いぬばしご)を作って樹上の旅人に迫る場合、古猫の知慧を借りなければならぬ日本の狼は、橇(そり)の馬の尻から食いつくような兇猛な動物ではなさそうに見える。それが何時から支那の犲狼(さいろう)と同じ取扱を受けるに至ったかは、われわれの手に合う問題でもなし、『俳諧博物誌』の領域を離れても来る。ここらで本文に入らなければならぬ。

[やぶちゃん注:『柳田国男氏に従えば、「狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、そう古くからの事ではなく、以前は畏敬もすればまた信頼もしていて、人と狼との珍しい交渉があった」のだという』この引用の原典は「桃太郎の誕生」(昭和八(一九三三)年三省堂刊)の中の「狼と鍛冶屋の姥」(初出は昭和六年十月発行の『郷土研究』)の「四 猫と狐と狼」であるが、例によって宵曲の引用は杜撰である。三省堂の改版(昭和十七年刊)の「桃太郎の誕生」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認(ここ)して前後を少し含めて示す。下線が宵曲が引いた箇所に相当する。太字は引用の誤りの部分。

   *

彼等[やぶちゃん注:狼を指す。]もし記憶あらば今昔の感に堪へぬであらうと思ふ程に、僅かな年代に人間の信用が衰微したのである。狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、さう古くからの事で無かつた。以前は畏敬もすれば又信賴もして居て、人と狼との珍しい交際があつたことは、本篇と關係があるから是非とも後に述べなければならぬ。

   *

ちくま文庫版全集も確認した。

「犬梯(いぬばしご)」老婆心乍ら、言っておくと、野犬や狼が木や岩崖などに梯子を掛けたように複数重なり合って樹上の獲物を襲うことを謂う。

「犲狼(さいろう)」「豺狼」とも書く。「豺・犲」は「やまいぬ(山犬)・野犬」と狼で、中国では貪欲で獰猛な野生の犬型獣類の代表とする(転じて「欲深くて残忍な人間」の譬えともする)。なお、中国でも日本(近世まで)でも「豺・犲」や「やまいぬ(山犬)」は犬とも狼とも異なる獣と認識されていた。特に中国では現代では「豺」はれっきとした種、食肉目イヌ科ドール属ドール(アカオオカミ)Cuon alpinus (一属一種)を指すので注意が必要である。]

 

 俳諧における熊の獲物が少かったに反し、狼の句は相当に多い。われわれの手許に集っただけでも、狸よりむしろ多い位である。季寄(きよせ)を見ると狼も熊と同じく冬の部に座席を持っているが、狼として独立したものは殆ど見えず、大概何かの季題によって登場している。但(ただし)その中で群狼――複数たることを示しているのは左の一句に過ぎぬ。

 

 狼の聲そろふなり雪のくれ   丈艸

 

 降りしきる雪の夕暮に、食物を求めて人里近くへでも出て来たのであろうか、友を呼ぶ狼の声がする。何疋かで吠える声の揃って聞えるのが、静な雪の夕暮だけに物凄くもまたうら寂しい。狼の声の何たるかを知らぬわれわれでも、この句を読むと、丈艸の実感を通して寒気を感ずるほど、身に迫る内容を持っている。距離はかなりあるらしいが、「そろふ」の一語が特に凄涼の感を強くしているように思われる。

 

 終夜(よもすがら)狼なくや村の雪  雪水

 

 これも世界は丈艸の句と殆ど同じである。雪の村に出て来た狼が、そこらを徘徊して吠える声が一晩中聞える。村人はいずれも戸を固く鎖して、一歩も出まいとしているのであろう。但(ただし)複数か否かは句の上に現れておらぬばかりでなく、一句の持つ力も丈艸の句に遠く及ばぬのは、必ずしも「そろふ」の語の有無によるだけではあるまい。

 

 おほかみの聲遠ざかり月夜かな   山鹿

 狼の吼(ほえ)うせてけり月がしら 曉臺

 

 この両句は月に対して吠え去る狼を描いている。月下の狼は容易にその黒影を認むべきであるが、作者はそれを目撃したか、声だけ聞いたかわからず、単数か複数かも明(あきらか)でない。同じ狼の声でも、あるいは次第に遠ざかり、あるいは聞えなくなったところに多少の安堵が窺われる。狼に重きを置けば冬、月を主にすれば秋になるが、われわれはこの場合、皎々(こうこう)たる寒月が天地を一色に包んでいるものと見たい。冴渡る月の光が、動より静への推移的効果を多からしめている点に注意しなければならぬ。

 子規居士の「十年前の夏」という文章の中に「今宵は頸筋稍(やや)寒く覺ゆるに蒲團引きかづきて涼しき夢を結びしが、つぐの朝下女の來て、ゆふべは狼の吠えしを聽きたまはざりしか、と語りぬ」というところがある。明治十九年の夏、日光から湯元に遊んだ時の回想であるが、居士は遂に狼の声を耳にしなかったらしい。

 

 冬の宿狼聞て温泉(ゆ)のぬるき  子規

 狼に引かぶりたる蒲團かな     同

 

の二句は、いずれも冬に振替えられているが、その底には湯元の狼の声が流れている。居士が後年になつて狼というものを念頭に浮べる場合、湯元で話だけ聞いた狼の声は、必ず記憶の裡(うち)に蘇ったことであろう。この下女の一語があるため、湯元の夏は実際以上に涼しいものになっている。

[やぶちゃん注:「十年前の夏」確かに全集には載るが、所持しないので、いつか図書館で確認してみたい。これはちゃんと読んでみたい気がする。同題の子規の文章を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したが、抄録なのか、以上の記載は見当たらない。しかし気になったのは、その冒頭に『はや十二年の昔とはなりぬ』とある点で、標題通りのかっきり十年前ではない。さすれば、この回想随筆は明治三〇(一八九七)年か翌三十一年の作と思われることだけは言い添えておく。

「冬の宿」「狼に」は孰れも明治三十一年の作。宵曲の「湯元で話だけ聞いた狼の声は、必ず」子規の「記憶の裡(うち)に蘇った」というのが事実として響いてくる年の附合である。]

 明治時代の子規居士は、果して狼に因縁があったかどうか疑問であるが、その句にはなお次のようなものもある。

 

 大雪や狼人に近く鳴く      子規

 雪にくれて狼の声聲くなる    同

 狼の吾を見て居る雪の岨(そは) 同

 狼のちらと見えけり雪の山    同

 

 前の二句は声のみであり、後の二句は姿を見せているが、皆空想の産物であろう。しばらく声の二句について見ても、丈艸以下の句にあるだけの実感が籠っていない。その点は湯本の回想から得た二句に如かぬのである。

[やぶちゃん注:四句総てが明治三十年の作。]

 送り狼に関しては『孤猿随筆』に数説があった。第一は狼が外部からの危害を防衛し、人に夜路の安全を保障するために送ってくれるのだという説、第二は転べば食おうと思って附いて来るのだという説、第三は第二に関連して、狼が人を転ばせるために送りながらいろいろ仕掛をするという説で、柳田氏はこれを以て「古い信仰の中に含まれていた人と狼との契約が、今はまだこの程度に保存せられてある」のだと解釈している。日本における人と狼の間には、慥に他の野獣と異ったものがあるので、人対獣の交渉というよりもむしろ人対人の交渉に近い。古くは藤原保昌(ふじわらのやすまさ)に対する袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の話、近くは維新前の挿話として漱石氏が『それから』の中に点じた――雪の夜に後から呼びかけられたのを振向きもせず、旅宿の戸口まで来て、格子をぴしゃりとしめてから、長井直記は拙者だ、何御用か、と聞いた話などは、よほど送り狼に似通っている。この場合あとから来るのが人でも狼でも、危険の程度に変りはあるまい。

[やぶちゃん注:『「孤猿随筆」に数説があった』柳田國男の「孤猿隨筆」(昭和一四(一九三九)年創元社刊)の中の「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」(昭和八(一九三三)年十一月)の「八」の後半部に記されてある。

「古い信仰の中に含まれていた人と狼との契約が、今はまだこの程度に保存せられてある」引用に誤りはない。

「藤原保昌(ふじわらのやすまさ)に対する袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の話」藤原保昌(天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)は平安中期の貴族で、右京大夫藤原致忠の子。官位は正四位下・摂津守。武勇に秀で、藤原道長の四天王(他は源頼信・平維衡・平致頼)の一人と称された人物。和泉式部の夫。ウィキの「藤原保昌」によれば、十月(かんなづき)『朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという』。これと同様の説話は「宇治拾遺物語」にもある。また、後世』、『袴垂は保昌の弟藤原保輔』(?~永延二(九八八)年:後述する)『と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが、』「今昔物語集」の『説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい為、実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている』とある。なお、彼には『和泉式部に紫宸殿の梅を手折って欲しいと請われ、警護の北面武士に弓を射掛けられるも』、『なんとか』、『一枝を得て』、『愛を射止めたという逸話があ』る。この弟とされる藤原保輔はウィキの「藤原保輔」によれば、『官人として右兵衛尉・右馬助・右京亮を歴任したが、盗賊として有名で、『尊卑分脈』でも「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」と記されている。すなわち「右馬助、正五位、右京亮、右兵衛、強盗張本、本朝第一武略、蒙追討宣旨事十五度、後禁獄自害」』。寛和元(九八五)年、『源雅信の土御門殿で開かれた大饗において、藤原季孝に対する傷害事件を起こす。さらに、以前兄藤原斉明を追捕した検非違使・源忠良を射たり』、永延二(九八八)年閏五月『には藤原景斉・茜是茂の屋敷への強盗を行うなどの罪を重ねた。これらの罪状により、保輔に対する捜索は続けられ、朝廷より保輔を追捕した者には恩賞を与えると発表され、さらには父・致忠が検非違使に連行・監禁された。この状況に危機感を持った保輔は同年』六月十四日『に北花園寺で剃髪・出家したが、まもなく以前の手下であった足羽忠信によって捕らえられた。なお、逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、翌日その傷がもとで獄中で没したという』。『なお、これは記録に残る日本最古の切腹の事例で、以降武士の自殺の手段として切腹が用いられるようになったという』。後世、「今昔物語集」などに『見える盗賊の袴垂(はかまだれ)と同一視され、袴垂保輔という伝説的人物となった』。しかし「今昔物語集」「宇治拾遺物語」では「袴垂」という字(あざな)のみで登場しており、「続古事談」で初めて「袴垂保輔」と記され、「元方の民部卿の孫、致忠朝臣ノ子也」としている。因みに、「今昔物語集」の話は「卷第二十五」の「藤原保昌朝臣値盜人袴垂語第七」(「藤原保昌朝臣、盜人袴垂に値(あ)ふ語(こと)第七」)で、「宇治拾遺物語」のそれは「袴垂合保昌事」(袴垂、保昌に合ふ事)で(リンク先は「やたがらすナビ」の原文)あるが、これと別に同じ「宇治拾遺物語」には、「保輔盜人タル事」(同前)があり、これだと、両者は盗賊ではあるが、別人の扱いと確かに読める。

「漱石氏が『それから』の中に点じた――雪の夜に後から呼びかけられたのを振向きもせず、旅宿の戸口まで来て、格子をぴしゃりとしめてから、長井直記は拙者だ、何御用か、と聞いた話」これは夏目漱石の「それから」(明治四二(一九〇九)年六月二十七日より十月十四日まで『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に連載され、翌年一月に春陽堂から刊行)の、「四」に主人公代助の幕末に殺された伯父の話として出る。岩波旧全集で示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 伯父が京都で殺された時は、頭巾(づきん)を着た人間にどやどやと、旅宿(やどや)に踏み込まれて、伯父は二階の廂(ひさし)から飛び下りる途端、庭石に爪付(つまづ)いて倒れる所を上から、容赦(ようしや)なく遣られた為に、顔が膾(なます)の樣になつたさうである。殺される十日程ほど前(まへ)、夜中(やちゆう)、合羽(かつぱ)を着きて、傘(かさ)に雪を除(よ)けながら、足駄がけで、四条から三条へ歸つた事がある。其時旅宿(やど)の二丁程手前で、突然後(うしろ)から長井直記(ながゐなほき)どのと呼び懸けられた。伯父は振り向きもせず、矢張(やは)り傘(かさ)を差した儘、旅宿(やど)の戸口迄來きて、格子を開けて中(なか)へ這入つた。さうして格子をぴしやりと締めて、中(うち)から、長井直記は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。

   *]

 

 故寺月なし狼客を送りける 北鯤(ほつこん)

 

 この狼は柳田氏の挙げた第一説に当るものであろう。寺と狼との関係はわからぬが、格別の異心も懐かず、闇夜の道を守護して送るらしい趣が、一句の上からも感ぜられる。

 

 狼のおくらず成(なり)し雪吹かな   招月

 

になると、狼の態度はいささか明瞭でない。送らなくなった原因は吹雪であるが、途中まで来たのは果して守護のためかどうか。「雪見にころぶところまで」という転ぶには絶好の条件があるだけに、万一の場合を期待したのかもわからない。

[やぶちゃん注:「雪見にころぶところまで」老婆心乍ら、芭蕉の句。初期形は「笈の小文」に載る(「笈の小文」の旅シンクロニティ――いざ行かん雪見にころぶ處まで 芭蕉及びその前後(ブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で)を参照)、

 

 いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで

 

で、貞亨四(一六八七)年十二月三日、名古屋の門人夕道(風月堂孫助)亭での雪見の席での句であるが、真蹟詠草に、

 

  書林風月ときゝし其(その)名も

  やさしく覺えて、しばし立寄(た

  ちより)てやすらふほどに、雪の

  降出(ふりいで)ければ

 いざ出(いで)む雪見にころぶ所まで

  丁卯(ていばう)臘月(らうげつ)

  初、夕道(せきだう)何がしに贈る

 

とあるのが再案であろう。その後の「花摘」での、

 

 いざさらば雪見にころぶ所まで

 

が決定稿となった。私は改悪甚だしいもので、初期形が素直でよいと考えている。]

 

 狼を送りかへすか鉢たゝき   沾圃(せんぽ)

 

 この場合は全く主客顚倒している。送り狼変じて送られ狼になるのは、鉢敲(はちたたき)が方々歩き廻るため、道順が逆になつたのかも知れぬが、

 

 狼のひよつと喰べし鉢たゝき  野童

 

とある以上、鉢敲の身の上も決して安心なわけではない。夜歩く鉢敲に対して直に狼を連想するのを見れば、人里近く徘徊していたことも思いやられる。

[やぶちゃん注:「鉢たゝき」「鉢扣き・鉢叩き」とも書く。元来は、中世に広まった念仏信仰の一つの派及び遊行(ゆぎょう)形態で、空也を祖と仰いで、鉦(かね)や瓢簞を叩きながら、念仏や和讃を唱え、念仏踊りを行なっては、布施を求めた遊行僧。但し、ここはそれと同時にそこから派生した家々の門に立って喜捨を乞うた門付芸の一種で、鹿の角をつけた鹿杖(かせづえ)を突き、瓢簞を撥(ばち)で叩きながら、念仏や無常和讚(わさん)染みたものを唱えて踊っては物品を乞うた者を指す。とくに孰れも陰暦十一月十三日の空也忌より除夜の晩までの四十八日間に亙って洛中で勧進し、洛外の葬所などを巡ったから、このロケーションもその時期(或いは場所も)をイメージしてよかろう。]

 虎は酔漢を食わぬという話が漢土にある。山中で酔払って寢ているところへ虎が現れたが、本人は高鼾で何も知らぬ。目を覚させるつもりで頻に顔を嗅ぎ廻すと、虎の髯が鼻に入ったと見えて、大きな嚏(くしゃみ)をした。虎は不意討に驚いて跳躍する拍子に、足を踏み外して谷底へ落ちてしまったという話。酔払って余所から帰って来ると、門前に獣が蹲っている。大きな犬位に心得て杖の一撃を加えたところ、慌しく逃出した。遥か向うへ行った時、虎特有の縞がはっきり月明りに見えたという話。上戸党(じょうごとう)に聞かせたら酒徳の一に勘定するかも知れぬ。もし虎が酔漢を憚るとしたら、三碗不過岡(さんわんおかをすぎず)という酒をしたたかに呷(あお)った武松などは、虎の方で三舎を避けそうなものであるが、そう御跳向(おあつらえむき)に往っていないから、この説も懸値(かけね)があるらしい。あるいは酒気を厭(いと)うのでなしに、怕(おそ)れざる人間を食わぬので、酔漢が虎害を免れるのは怕れざるためだという。いずれにせよ大抵の上戸には、実験して見るだけの勇気が出そうもない危険な芸当である。

[やぶちゃん注:最初に挙げてある話は「茅亭客話」(ぼうていかくわ:黄休復撰。五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもの。全十巻)に載る話。老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)を参照されたい。注で原典も引いてある。二番目の話も何かで確かに読んだ記憶があるのであるが、直ぐに思い出せない。分かったら、追記する。

「三碗不過岡(さんわんおかをすぎず)という酒をしたたかに呷(あお)った武松」「三碗不過岡」とは「たった三杯で酔って岡が越せなくなる強い酒」のこと。これは「水滸伝」の武松(既出既注)のまさに虎退治に纏わる話に出てくる。バッカスサイト「中国語講座」原文(簡体字)・日本語)現代日本語

「三舎を避けそうなもの」「三舎を避ける」とは相手を恐れて尻込みすること、また、相手に一目置くことの譬え。「春秋左氏傳」の僖公二十三年にある、三舎(古代中国で九十里(約六十キロメートル)を指す距離単位。これは軍隊の三日の行軍距離の謂い)の距離の外に避けるという意味に基づく故事成句。]

 

 いざ醉(ゑひ)て狼追はん後(のち)の月 玉葉

 

というのは酒客の空景気に過ぎぬか、実際この位大きな気持になるものか、盃中の趣を解せぬわれわれには想像がつかない。虎に比べれば大分型が小さくなるようなものの、酒気を仮りてはじめてこの言あるのを見ると、大した豪傑ではないのであろう。

 

 狼の人とる沙汰や遲ざくら   倚彦(いげん)

 

 これは噂だけである。遅桜の咲いている場所はわからぬが、山中の旅客ででもあったら、この噂は相当に心を脅すものでなければならぬ。従って左の句のように、人を送るに当って殊更狼を持出したりするのは、親しい仲の戯(たわむれ)にせよ、やや悪謔(あくぎゃく)に類するように思う。

 

   木導子が山家に分入るときゝて

 狼に喰はれてかへれ山櫻      許六

 

 狼と桜との取合も多少の不調和を免れぬ。西鶴が『一代男』に「野郎翫(そ)びは、ちり懸(かか)る花のもとに、狼が寢て居るごとし」と書いたのも、這間(しゃかん)の消息を伝えているものの如くである。

[やぶちゃん注:井原西鶴の浮世草子の濫觴とされる草草紙の処女作「好色一代男」(八巻八冊。天和二(一六八二)年大坂池田屋板行)。私はこの手の好色本が生理的に駄目なので読んでいないし、所持もしていない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で見ることは出来るが、探す気にもならない。悪しからず。]

« ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム 不思議なヤーフ (2) / 不思議なヤーフ~了 | トップページ | ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム たのしい家 (1) »