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2017/12/24

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第八章 自然淘汰(2) 二 簡單より複雜に進むこと

 

     二 簡單より複雜に進むこと

 

 生存競爭に於ける勝敗の標準は、その時々の事情で違ふから、總べての動柚物を通じて自然淘汰の結果を論ずることは出來ぬが、現在の動植物を悉く集めて彼此比較して見ると、その大部分に就いては稍々一定の方向に進む如き勢が見える。一定の方向とは卽ち體の構造が簡單より複雜に向ふことである。

 人間社會の有樣を見るに、野蠻國では各個人が皆自分の生活に必要な衣食住の用品を造り、人にて家も建てれば衣服をも造り、獵もして、少しも他人の手を借らぬから、一村落内の人間が悉く一人づゝに離れても生活には不自由を感ぜぬ。然るに稍々開けた國へ行けば、生活に必要な仕事を個人の間に分配し、各個人はたゞその擔當の業務のみに力を盡し、家を建てる者は常に家ばかりを建て、他人の分までも建てる代りに衣服・食料は他より得て生活し、また衣服を造る者は常に衣服ばかりを造り、他人の分までも造る代りに住家と食料は他人より仰いで暮して居る。斯く事業を分擔すれば、同一の個人は長く同一の業に從事し、隨つてその業に熟達するから、一人で何でもする野蠻人に比べれば、家でも衣服でも無論遙に立派に出來る。更に最も開けた文明國では分業が最も進んで、蝙蝠傘の骨ばかりを造る工場もあれば、饅頭に入れる餡ばかりを造る會社などもあつて、各個人のなす仕事は甚だ狹くなり、その代りにその仕事は極めて精巧な域に達する。されば今日一國の文明・野蠻の度を測るには、分業の行はれることの多少を以て標準とするより外はないが、さて文明國と野蠻國とが戰爭をすれば孰れが勝つかといへば、之は素より論にも及ばぬことで、同じく武器と名は附いても、野猪や鹿を獵する片手間に燧石を缺いて造つた石鏃と、螺旋を造る職工は螺旋のみを造り、筒を磨く職工は筒ばかりを磨いて居る兵器工場の製作品とは、到底相對すべきものではない。それ故、實際野蠻國は漸々文明國に攻め取られ、野蠻人は追々文明人に敗けて、斷絶せんとする有樣である。之は極端と極端との比較であるが、斯く懸隔の甚だしくない場合でも、理窟は全く同樣で、分業が少しでも進んだ方が必ず仕事が幾分か優る譯故、他の事情が總べて同一である場合には、分業の進んだものの方が勝つと見て宜しからう。

[やぶちゃん注:「野蠻國」現行の講談社学術文庫版では『未開国』に改変されている。]

 動植物の生存競爭に當つても同樣なことがある。凡そ動物が生活して行くには酸素を吸ひ入れることも必要であり、食物を取つて消化し吸收することも必要であり、滋養分を全身に循環せしめることも必要であり、炭酸瓦斯その他の排泄物を體外へ出すことも必要である。また運動も感覺することも必要であるが、今こゝに多數の動物個體があつて互に相競爭すると假定するに、身體各部の間に分業の行はれることの多いものは、人開社會の有樣に比較しても解る通り、これら各種の仕事が皆善く行はれるから、分業の行はれることの少いものに對して勝つ見込がある。之が代々幾分づゝか勝敗の標準となれば、身體各部の間に分業の行はれぬ動物の子孫も、長い間には自然淘汰の結果少しづゝ分業の行はれた動物に進化する譯であるが、同一の組織で種々の仕事を均しく完全に行ふことは出來ず、運動するには運動に適する組織、感覺するには感覺に適する組織が必要であるから、分業の行はれると同時に身體各部の間に組織・構造の相違がなければならぬ。卽ち運動を擔當する部は筋肉組織となり、感覺を司どる部は神經組織・感覺器等となり、消化の働をなす處は胃・腸となり、呼吸を務める處は肺或は鰓となり、分業の進む程身體の構造も之に伴うて益々複雜に成るものである。

 分業の結果として生じた各組織は、恰も文明國の個人の如く生活に必要な事業の中、たゞ一種だけを擔當し、他の事業は一切之を他に委ねてその結果を收めるのみである。例へば運動の組織なる筋肉はたゞ運動のみを務め、感覺の組織なる神經はたゞ感覺ばかりを司どり、他の組織の吸入した酸素、他の組織の消化した滋養分の分配を受けて生きて居る。それ故若し運動の組織だけ或は感覺の組織だけを取り離したならば、到底獨立に生存することは出來ぬ。分業の進んだ運動の個體は、一種每に皆異なつた働をする組織が多數に集まつて出來て居るから、全部完全して居なければ生活が出來ず、一部分づゝに離しては忽ち死んでしまふが、斯く身體の諸部分の間の關係が親密で、全部完全して居なければ生存が出來ぬといふことから、生存競爭に於て遙に分業の進まぬ生物に比して不利益な場合もないとは限らぬ。その有樣は尚次の節に述べる所によつて明になるであらうが、競爭者が雙方ともに分業の進んで居るときには、確に一步でも分業の先へ進んだものの方が勝利を得る見込を有する譯であり、且生存競爭の最も劇しいのは互に最も相似た種類の間であるから、代々この標準に隨つて淘汰が行はれて、初簡單なものより後次第に複雜な構造を有するものに進化し來つたと考へなければならぬ。實際動植物を多く集めて比較して見ると分業の行はれぬ簡單なものから、分業の進んだ複雜なものまで、漸々進步する有樣を明に順を追うて行くことが出來る。

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