柴田宵曲 俳諧博物誌(26) 兎 一 (その2) / 兎 一~了
だんごにて兎をつくれけふの月 文治
これは月の兎でもなければ、動物の兎でもない。中秋の名月の興に乗じて、真白な月見の団子で兎の形を作ったらどうだといったので、直(じか)に実行したわけではあるまい。一の変り種である。
鳴海絞(なるみしぼり)
夕月や浪に兎のしぼりぞめ 深舟
名月や兎の糞のあからさま 超波
浪に兎は「竹生嶋」の伝統に属するが、深舟の句は前書にある通り、染物の模様である。さほど目に立つものでない兎の糞があからさまに見えるといったのは、名月の光を裏から描いたようなところがあって、あまり面白い句ではない。兎の糞の句はもう一つ秋の中にあるから、ついでに挙げて置こう。句としてはこの方が自然である。
[やぶちゃん注:「鳴海絞り」以下の引用にある経緯から、今は「有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)」と呼ぶべきである。ウィキの「有松・鳴海絞り」(ありまつ・なるみしぼり)によれば、現在は、『愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域』(この附近(グーグル・マップ・データ))『を中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降』、『日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある』。『木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する』。『現在の有松地域は江戸時代のはじめには人家の無い荒地であったため』、『この地域を通る東海道の治安に支障をきたしており、尾張藩は人の住む集落を作るため』、『知多半島からの移住する住民を募り』、慶長一三(一六〇八)年、『東海道沿いに新しい集落として有松が開かれた、移住した住民は街道警護の役割もあり』、『武芸に覚えのあるものが多かった。しかし、有松地域は丘陵地帯であるため稲作に適する土地ではなく、また』、『鳴海宿までの距離が近かったことから』、『間の宿としての発展も望めなかった。そこで有松に移り住んでいた住人の一人である竹田庄九朗が』、慶長十五(一六一〇)年から慶長十九年に『かけて行われた名古屋城の築城(天下普請)のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを街道を行きかう人々に土産として売るようになったと言われている。また』、万治元(一六五五)年に『豊後(現在の大分県)より移住した医師三浦玄忠(』但し、『医師であったこと、玄忠という名前については疑問も呈されている』『)の妻によって豊後絞りの技法が伝えられ、有松の絞り染めは大きな進歩を遂げた。このときに伝えられた技法は三浦絞りあるいは豊後絞りの名前で呼ばれ現在にも伝わっている。なお、鳴海絞りではこの三浦玄忠夫人を鳴海絞りの開祖と伝えている』。『有松での絞り染めが盛んになるにつれ、鳴海などの周辺地域でも絞り染めが生産されるようになっていったが、この状況に対し』、『有松側は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴え』天明元(一七八一)年、『尾張藩は有松絞りの保護のため』、『有松の業者に絞りの営業独占権を与えた』。但し、『絞りの生産が全て有松の町で行われていたわけではなく、鳴海を含む周辺地域への工程の下請けが広く行われていた。独占権を得た有松には現在につながる豪壮な町並みが形作られた。その後も絞り染めに対する統制は強化され、有松は尾張藩の庇護の下絞り染めの独占を続けたが、幕末になると』、『凶作に苦しむ領民の生活扶助のため』、『独占権が解除された』(以下、明治から現代に至る経緯が記されるが、省略する)。続いて、「有松絞りと鳴海絞り」の項。『有松と鳴海は現在共に名古屋市の緑区に属しているが、名古屋市に編入されるまでは』、『有松は知多郡、鳴海は愛知郡に属しており、元々は全く別の地域である。有松絞りと鳴海絞りは現在でこそ「有松・鳴海絞り」として一括して伝統工芸品に指定されているが、江戸時代より互いに本家争いや販売、訴訟合戦を繰り返し、戦後に友禅の人間国宝山田栄一を鳴海絞りの人間国宝にもしようと運動が行われた際には、有松側から横槍が入ったと言われる』。『なお、江戸時代にも絞り染めの生産の中心は一貫して有松地域であったが、正式な宿場ではない有松は旅人の停留する所ではなく』、『東海道五十三次の一つであった鳴海宿においても販売を行ったことから、有松絞りも江戸では専ら「鳴海絞り」と呼ばれていた』。しかし、一九八四年に『有松・鳴海絞会館が完成し、初代館長の思いを反映し』、『有松に存在する建物ではあるが』、『名称に有松・鳴海を併記することで、本家争い・訴訟合戦に決着が着き、共に協力して行く体制となった』とある(下線やぶちゃん)。グーグル画像検索「有松鳴海絞り」をリンクさせておく。現代の作品であるが、Keita 氏の「keitaうさぎの着物日記」の「有松鳴海絞りの浴衣コレクション🎐」の中に、三枚の濃紺に芝うさぎの柄の有松鳴海絞りの写真がある。これは素敵だ。]
つぶつぶと兎の糞や萩すゝき 桃先
萩薄のもとにつぶつぶと見える兎の糞は、どうしても野兎のそれでなければならぬ。
寄合(よりあひ)に兎百かく月見かな 冥々
萩に見る今をや月の花兎 公曳
放生會(はうじやうゑ)にまうでて
生るをも放つ兎か空の月 昌察
兎と月との因縁は容易に尽きそうもないが、秋の兎の句は悉く月に帰するわけでもない。もう少し他の方面を顧る必要がある。
七夕に出(いで)て兎も野をかけれ 洒堂
萱(かや)の穗にうさぎの耳も野分(のわき)かな
露川
日暮るやうさぎの耳の動く時 搓雀(さじやく)
小兎を追なくしけり晝の露 射毛
山風や兎鼻つく九月盡 曉臺
何某くすしの許(もと)にて
のぼせ目の兎を放せ蓼(たで)の園 百万
山家
猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな 蕪村
七夕と兎はちょっと類のない配合である。月の兎が有触(ありふ)れているだけに、この着想は特に目を惹くように思われる。何の繫(つなが)るところもなく「兎も野をかけれ」といい放ったのが、元禄の句らしい面白味になっている。芭蕉の「猪も共に吹かるゝ野分かな」を以て野分の豪壮な趣を現したものとすれば、露川の「萱の穗」は野分の繊細な趣を現したものであろう。萱の穂を吹き兎の耳を吹く野分は、小品的画景たるを失わぬ。「日暮るや」の句も繊細な見つけどころであるが、「萱の穗」の如き背景を欠いているために、場所のはっきりせぬ憾(うらみ)がある。あるいは籠の兎であろうか。その次の句は明(あきらか)に飼兎で、籠を抜出した兎を追駈(おいかけ)けて、姿を見失った経験はわれわれにもある。そう遠く逃げるのではないが、容易にその姿を発見出来ない。草の露が昼まで乾かぬとすれば、曇日の出来事と考えてよかろうと思う。「のぼせ目」は白兎の赤い目から思いついたものらしい。「蓼の園」と限ったのは即景か、何か意味があるのか、はっきりわからない。
蕪村の「猿どの」の句は、兎を擬人的に扱ったものとして異彩を放っているのみならず、古今の兎の句中にあって最もすぐれたものの一であろう。小川芋銭氏の『草汁漫画』に、頰被(ほおかぶり)をして折詰と貧乏徳利とを提げた兎が、三日月の下を歩いているところを画き、「猿どの」の句を題したものがあったが、実際この兎には人間以上の親しみが感ぜられる。泉鏡花氏も震災後の事を書いた「十六夜(いざよい)」という文中にこの句を引いて、
[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。太字は底本も鏡花の原文も傍点「ヽ」。岩波版全集で校合し、一部を補正し、一部に読みを追加した。]
(猿どのゝ夜寒(よさむ)訪ひゆく兎かな)で、水上(みなかみ)さんも、私も、場所はちがふが、兩方とも交代夜番(かうたいよばん)のせこに出てゐる。町(まち)の角(かど)一つへだてつゝ、「いや、御同役いかゞでござるな。」と互に訪(と)ひつ訪はれつする。
と述べた。兎を人の如く扱ったという域を超えて、兎も人も何の変りがないように出来上っているのである。蕪村が「山家」という前書をつけたのも、あるいはそのためかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「小川芋銭」「河童」に既出既注。
「草汁漫画」明治四一(一九〇八)年日高有倫堂刊。国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像のここで視認出来る。
「猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな」この蕪村の句は「俳諧博物誌(23) 狼 二」の本文に既出で、そこで私が既に詳注したので、参照されたい。
『泉鏡花氏も震災後の事を書いた「十六夜(いざよい)」』読みは歴史的仮名遣では「いざよひ」が正しい。大正一二(一九二三)年十月発表の随筆。「青空文庫」のこちらで読める。当該引用は「四」の終りの方。ここに出る「せこ」とは「迫・世古」で、町の横町・裏通りの意で、所謂、自警団の夜廻りにそこいらを巡るといった意味であろう。]
芭蕉の『幻住庵記(げんじゅあんき)』に「あるは宮守の翁(おきな)、里の男(をのこ)ども入り來りて、『猪(ゐのしし)の稻くひ荒(あら)し、兎(うさぎ)の豆畑(まめばた)に通(かよ)ふ』など、我が聞き知らぬ農談」とある。兎と豆との交渉は翁も初耳だったと見えるが、遂に十七字中に入らなかった。後の俳人の中には折々これを句にしたものがある。
[やぶちゃん注:「幻住庵記(げんじゅあんき)」通常は「げんぢゆうあんのき」と「の」を入れて読む。「幻住庵」は滋賀県大津市国分の近津尾(ちかつお)神社境内にあった松尾芭蕉所縁の小庵。ここ(グーグル・マップ・データ)。芭蕉は「奥の細道」の旅を終えた翌元禄三(一六九〇)年三月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していたが、ここで門人菅沼曲水の奨めにより、同年四月六日から七月二十三日までの凡そ約四ヶ月ほど、ここで暮らし、この名品「幻住庵の記」をものした。芭蕉四十七歳。引用部は後半に出る。新潮日本古典集成の「芭蕉文集」等を参考に大幅に引用表記を変えた。但し、宵曲の引用に誤りがあるわけではない。]
豆あらす兎の沙汰や秋の雨 士朗
稻妻や豆に兎のつき初(そむ)る 嵐外
十三夜
名月や兎煮た家(や)の豆の出來 大魯(たいろ)
豆を荒す兎は現実世界の消息である。豆が主になって兎は従になるのはやむをえない。大魯が特に「十三夜」の前書を置いたのは、八月十五夜の芋名月に対し、九月十三夜を栗名月または豆名月と称するためであろう。この場合、狡兎(こうと)は已に煮られた後であり、それがために豆の出来がいいのだとなると、いよいよ現実味が強くなりそうである。
[やぶちゃん注:「狡兎」は素早い兎。ここは「煮られた」と続くので、故事成句「狡兎良狗」「狡兎死して良犬煮らる」重要な地位につき、大きな功績を上げた人も、状況が変わって必要なくなれば捨てられるということ。
「良狗」は猟犬。
すばしっこい兎を取り尽くすと、賢い猟犬は必要なくなり、どれだけ役に立っていたとしても、煮て食べられてしまうという意で、「史記」の「淮陰侯傳」(韓信)に出る。但し、春秋時代の越の政治家范蠡(はんれい)が主君勾践を見限った際に、友人の同僚に送った手紙の中の文句が原拠である。]
落栗(おちぐり)に兎の飛ぬけしきかな 望水
落栗や兎のあそぶところなし 成美
どん栗の落て耳うつ兎かな 爲有(ためあり)
團栗やうさぎも共に霜崩(しもくづれ) 正秀
栗の毬(いが)は鼠を防ぐためにも用いられる。栗が沢山落ちて毬その辺に散らばったら、兎の活動は妨げられるであろう。団栗が木から落ちる拍子に兎の耳を打つというのは、少しきわどいようだけれども、全然空想の作ではないかも知れぬ。
山間や兎かけこむそばの花 夏桂
かるがると飛(とぶ)や兎も露の中 蘆水
みゝはやき兎飛けり萩の上 芬芳(ふんぱう)
離婁之明(りらうのめい)
はつあらし兎の毛並ほそりけり 筍深
木賊(とくさ)に兎の畫の讚
露の兎木賊に舌のあれやせん 馬光
兎の讚
何を聞(きき)何を見て居(ゐる)秋の暮
乙由
夏桂以下の三句にはいずれも兎の動きが描かれている。兎が蕎麦畠に駈込むのは、単なる即景のようでもあり、蕎麦の花の白と兎の白との間に、いわゆる保護色的な意味を認めたようでもある。「離婁之明」は『孟子』にあった。離婁は古(いにしえ)の明目者(めいもくしゃ)の名、この場合は目のよく見える意味である。兎の毛は殊に細いものだから、よく見える対象として持出したのであろう。
[やぶちゃん注:「離婁之明」は「孟子」の「離婁章句上」に出る。
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孟子曰、離婁之明、公輸子之巧、不以規矩、不能成方員。師曠之聰、不以六律、不能正五音。堯舜之道、不以仁政、不能平治天下。
(孟子曰く、「離婁が明、公輸子が巧も、規矩を以てせざれば、方員(ほうゑん)を成すこと、能(あた)はず。師曠(しかう)が聰も、六律を以つてせざれば、五音(ごいん)を正すこと、能はず。堯舜の道も、仁政を以つてせざれば、天下を平治すること、能はず。)
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「離婁」(現代的仮名遣「りろう」)は中国古代の伝説上の人、離朱の異称。視力が優れ、百歩離れた所からでも、毛の先がよく見えたと言われる。「公輸子」は墨子と同時代の、魯の巧みな工人(技術者)の名。「規矩」は物差しとコンパス。「師曠」は春秋時代の晋の音楽家。「六律」は中国の音階の奇数番目の六音律で、「五音」はその基本音階で現代のド・レ・ミ・ソ・ラに当たる。]
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