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2017/12/25

西南北東   原民喜

 

[やぶちゃん注:本作は底本(後述)によれば、初出未詳とされ、芳賀書店版全集第二巻(昭和四〇(一九六五)年八月刊)に初めて収録されたとするが、今回、ネットを検索した結果、たまたまあるオークション・サイトに出品されていた雑誌の書誌データに本篇を発見したことから、初出誌は昭和二二(一九四七)年十二月号の詩誌『詩風土』であることが判明した

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」の「拾遺作品集」(目次にないが、その中の「短篇作品」パート(頁下部にのみ表示)内)に拠った。但し、私は形式から、本篇は散文詩として位置づけるべきものと心得る。なお、例によって、歴史的仮名遣を用いており、拗音表記もないので、彼の原稿を電子化してきた経験から、漢字を恣意的に正字化した。

 各篇末に注を附した。

 本篇は現在、ネット上には電子化されていないものと思う。【2017年12月25日 藪野直史】]

 

 

 西南北東

 

 

  時計のない朝

 

 私は燒跡から埋めておいた小さな火鉢を掘出したが、八幡村までは持つて歸れないので姉の家にあづけておいた。冬を豫告するやうな木枯が二三日つづいた揚句、たうとう八幡村にも冬がやつて來た。洗濯ものを川に持つて行つて洗ふと指が捩げさうに冷たい。火鉢のない二階でひとり蹲つてゐるうち、私の掌には少年のやうに霜燒が出來てしまつた。年が明けて正月を迎へたが、正月からして飢ゑた氣持は救へなかつた。だが、戰災以來この身にふりかかつた不自由を一つ一つ數へてみたら、殆ど限りがないのであつた。

 所用があつて、私は廣島驛から汽車に乘らうと思つた。切符は早朝竝ばないと手に入らないので、燒殘つてゐる舟入川口の姉の家に一泊して驛に行くことにした。天井の墜ち壁の裂けてゐる姉の家は燈を消すと鼠がしきりに暴れて、おちおち睡れなかつた。姉は未明に起出して、朝餉の支度にとりかかつたが、柱時計が壞れたままになつてゐるので、一向に時刻が分らないのであつた。私ももとより懷中時計は原子爆彈の日に紛失してゐた。近所に燈がついてゐるから朝の支度をしてゐるのかとも思へたが、雨もよひの空は眞暗で、遠い山脈の方にうすら明りが見える。朝食をすますと、甥は近所に時間を訊きに行つてくれたが、その家にも時計はなかつた。何にしろ早目に出掛けた方がいいので、私は暗がりの表通りを歩いて行つた。暫くすると向ふから男が來たので時刻を訊ねてみた。すると相手は曖昧なことを云つて立去つてしまつた。電車通に添つて行くうち、あちこちの水溜に蹈込んで靴はずぶ濡れになり、寒さが足の裏に沁みるのであつた。

 私は眞暗な慘劇の跡の世界を急ぎ足に歩いてゐた。ある都市が一瞬にして廢墟と化すやうな幻想なら以前私は漠然と思ひ浮べてゐたことがあつたし、死の都市の夜あけの光景も想像の上では珍しくなかつた。しかし今かうして實際、人一人ゐない燒跡を步いてゐると、何か奇異なものが附纏つて來るので、相生橋を渡りながらも、これが相生橋であつたのかしらと錯覺に陷りさうであつた。がやがて八丁堀のところで燈をつけてゐる自動車と出逢ふと、寂寥のなかに烈しくエンジンの音をたぎらせてゐるので、漸く人心地に還つた。京橋あたりから驛の方へ行くらしい人の姿も見かけられた。

 驛に來てみると六時前であつたが、窓口にはもう人が集まつてゐた。切符は七時から賣出すので、その間、私は杜詩を讀んで過した。汽車に乘つてからも、目的地に着いてからも、歸りの汽車でも、私は無性に杜甫の行路難にひきつけられてゐた。

 

[やぶちゃん注:本篇は「冬を豫告するやうな木枯が二三日つづいた」とあることから、敗戦の年の晩秋と読める。

「八幡村」被爆直後に移った次兄の避難先の広島県の旧山県郡八幡村。現在の北広島町八幡(やわた)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「捩げさう」思うに「捥(も)げさう」の誤記ではあるまいか。

「舟入川口」現在の広島市中区舟入川口町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「相生橋」広島市中心部を流れる本川(旧太田川)と元安川の分岐点に架かる、相生通りと広島電鉄が通る併用橋。全国的にも珍しいT字型の橋。ここ(グーグル・マップ・データ)。参照したウィキの「相生橋」によれば、『上空からも目立つため、広島市への原子爆弾投下の際には目標点とされた。被爆当日、この橋付近に居た人々がほぼ即死状態で大勢亡くなっており、元安川下流側では』毎年八月六日の『夜に犠牲者を弔う灯篭流しが行われている』。当時、広島『市内に架橋されていた主要』四十九『橋のうち』、四十一『橋が残った』が、『その中で唯一この橋だけ』が、『欄干が破壊され』、『川に落下すると同時に、鉄筋コンクリート床版が最大で』一・五メートル『ほど浮き上がって破壊』されてしまう『現象が起きている。そこから今日では、被爆当時発生した衝撃波は橋を上から圧迫しただけでなく、本川の水面に反射し』、『下からも圧迫した』『ため、波打つ』形で衝撃が加わったもの『と考えられている』。『当然』、『当時の技術者は想定していなかった破壊現象であった』。リンク先には、主な破壊状況を示す動画や写真(殆んどは被爆から約八ヶ月後の昭和二一(一九四六)年春に撮影されたもの)がある。必見。

「八丁堀」現在の広島市中区八丁堀。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「杜甫の行路難」思うにこれは李白の全三首から成る「行路難」の誤りではあるまいか。これは杜甫との交流の中で彼に応じる形で創作されたものであることから、原民喜はかく誤認したものではないかと思われる(但し。「行路難」は楽府題であるから、杜甫に同名の作があるのかも知れぬ。ただ、「行路難」で著名なのは李白のこの詩である)。紀頌之氏のブログ「李白集校注」で「其一」「其二」「其三」が原文・訳注附きで読める。私が思うには、民喜が惹きつけられたのは「其一」の「行路難行路難多岐路今安在」(行路 難し 行路 難し 岐路 多し 今 安(いづ)くにか在る)ではなかったろうか?]

 

  蜜柑

 

 西廣島の蜜柑をみかけるやうになつたのは十二月のはじめ頃からだつたが、暫くは何氣なく見てゐるにすぎなかつた。私が蜜柑に惹きつけられたのは廿日市で五百目五圓で買つた時からだ。飢ゑて衰弱してゐる體が要求するのか、ほかに胃の腑を滿たすものがないのでかうなのか、とにかく、私は自分でも驚くほど、その時から蜜柑を貪りだした。さうして、私は妻が死ぬる前、頻りに果物を戀してゐたことを憶ひ出すと、その分のとりかへしまでするやうな氣持になつてゐた。私は八幡村から廿日市まで一里半の道を往來しては、一貫目づつ蜜柑を買つてもどつた。「戰爭が終つてよかつたですな、かうして蜜柑がいただけますもの」と云つてゐる人の言葉まで、何だか私には身に沁みるやうであつた。

 いつのまにか私がゐる二階の緣側には、蜜柑の皮が一杯になつてゐた。すると、夜每、鼠がやつて來て、その皮を引搔きまはし、殘つてゐる袋をむしやむしや食ふのであつた。鼠はしまひには障子に穴をあけ、室内に侵入するやうになつた。私は障子を破る鼠といふのをはじめて知つた。古雜誌でその穴を修繕しておいても、つぎつぎに紙の弱つてゐるところを破つて行つた。この村の鼠は私同樣飢ゑてゐた。ある朝、階下の押入にはカチカチになつて死んでゐる鼠がみつかつたが、「食ひものがないからよ」と人々は笑つてゐた。

 

[やぶちゃん注:「廿日市」西広島地方に当たる広島県廿日市(はつかいち)市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「五百目」「目」は「匁」(もんめ)と同じであるが、十匁以上の単位の場合に「目」と表現することがあったらしい。約一・九キログラム相当である。

「妻が死ぬる前、頻りに果物を戀してゐた」『吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「菓子」』に妻貞恵が頻りに「お菓子が食べたい」と懇請した様子が描かれている。糖尿病の症状であった。]

 

  悲鳴

 

 車内は臺灣からの復員兵がぎつしり詰つてゐたがあれは何といふ怕しい列車だつたのだらう。朝から昇降口に立ちづめのまま、私はそこで揉み合ふ澤山の人間を見た。若い男が年寄を怒鳴りつけてゐた。怒鳴られた年寄はおとなしく身を縮め、なるべくそちらへ觸るまいとした。だが、どうかすると、押してくる人のためにそちら側へ押されて行くのだつた。便所の中にはトランクやリユツクが持込まれ、そこにも四五人が陣どつてゐた。私が漸く列車の車内に這入れるやうになつたのは、その日の夕刻からであつたが、そこは濛々として荷物やら人の顏やら見わけもつかぬもので滿されてゐた。

 次の驛に着くと昇降口のところではまた紛爭が繰返されてゐるらしかつた。何か頓狂な叫びと、それを罵る大勢の聲がしてゐたが、やがて、ドカドカと車内へ割込んでくる防空頭巾の奇妙な男と、その配偶らしい婦人があつた。はじめここへ割込んでくる仕草のうちにも何かヒステリツクなものがあつたが、すぐにその男は絶えまなく、この混亂についての泣きごとを呟きだしたのである。これでは全く、どうにもかうにも致しかたがない。生れて以來こんなひどい目に遇はうとは思つてもみなかつた。――さういふ意味のことを述べるのに、その男のうはずつた大阪辨は眞に迫るものがあつた。それから、配偶の婦人が何か云ふと、すぐそれに對つても――殆どこの男が今日の一切の悲慘を背負はされてゐるかのやうに――泣聲で抗議するのであつた。だが、どういふものか、この男はあたりの反感を買ふらしかつた。

「萬才はやめろ」と誰かが怒鳴つた。しばらくすると、さきほど點いてゐた電燈も消え、それきり車内は眞暗になつてしまつた。すると、また、防空頭巾の男の悲鳴がおこつた。

「痛たた、誰かがわての頭なぐつた」たちまち誰かが闇のなかから嚴しく叫んだ。「誰だ……そんなわるいことをする奴は」

 が、それは弱い子供を庇つてやるやうな、ある調子が含まれてゐるのだつた。ふと私には、あの弱い男の過去が解るやうな氣持がした。多分、あの男もたつたこの間まで安逸に馴れてゐたのだが、急に悲慘に突落されたもので、かうして身も世もあらぬおもひで、旅に出掛けなければならなくなつたのだらう。

 眞暗な列車は其暗なところを走りつづけて行つた。

 

[やぶちゃん注:「對つても」「むかつても」か?

「庇つて」「かばつて」。]

 

  

 

 もう都會からは米といふものが姿を消して、その味も忘れられてゐる頃のことであつた。彼は電車の中で二人の女が、こんなことを云ひ合つてゐるのを耳にした。この頃は素人の女でも月に米一斗あてがつてもらへば喜んでお妾さんになるさうです。

 それから彼はある夜、驛のベンチに寢そべつてゐる醉ぱらひの老人がこんなことを喚いてゐるのをきいた。俺には妾が四人あるんだぞ。――その時、彼は妾四人といふ言葉ですぐ米四斗を思ひ浮べた。

 瘦せ細つた彼はある日、闇市の食べもの小路に這入つて行つて見た。半びらきになつてゐる扉の蔭から、テーブルの上にある丼の白米の姿がふと彼の眼に灼きつくやうに飛込んで來た。その瞬間、彼は何ともいへぬ羞恥感に全身がガタガタ顫へさうになるのであつた。

 

[やぶちゃん注:「お妾さん」「おめかけさん」。]

 

  溜息

 

 列車が京都に着いたのは夜半だつたが、ホームの例の窓はどの窓も申合せたやうに、ぴつたり閉ざされてゐた。私の席のところの窓は木の窓だつたので外の樣子は見えなかつたが、間もなく外からガタガタと搖さぶる音がきこえ、忽ちそれは亂打となり、あけろ、あけろ、あけろ、と叫喚しだした。これでは今にも窓は壞れさうだつたが、あの騷ぎでは、もし窓をあけたら一たいどうなるのかとおもはれた。あけろ、あけろ、あけろ、は耳をつんざくやうに突擊してくる。すると向の人混みの中に立つてゐた男がこちらへやつて來て、「あけてやりなさい」と云ひながら窓を開ける手眞似をした。その樣子はいかにも自信たつぷりで何か目論見があつたらしかつたが、たうとう自分でそこの窓を少し持上げたのである。彼が窓から首を差出すと、外では「もつとあけろ、もつとあけろ」と怒りだす聲がきこえた。

「窓から乘る法はないよ、昇降口から乘り給へ」

 首を外に出してゐる男の云ふ言葉がきこえた。だが、男の首の出てゐる隙間から、小さな荷物が放り込まれると、いつの間にか窓はこぢ開けられ、二三人の人間が瞬く間に私の膝の上に滑り込んで來た。隣の方の窓も開放たれてゐた。そこではまだ飛込まうとするものを拒まうとしてゐたが、見ると外側では驛員が必死になつて聲援してゐるのだ。「これは驛員の命令ですぞ、驛員の命令を拒むのですか」

 たうとうその窓からもぞろぞろと雪崩れ込んで來た。汽車が動きだすと、私の前に飛込んで來た男は、

「えらい、すみませんな、喰べものがないばつかしに、ああ、かうしてみんな苦勞しやんす」と、溜息まじりに口をきくのであつた。

 

  虛脱

 

 目白驛の陸橋にはゼネストのビラがべたべたと貼りつけてあつた。二月一日からゼネスト突入とあるから、もうあと幾日もない日のことであつた。私は雜司ケ谷に人を訪ね、それから再び驛の方へ引かへして來ると、恰度もう日も傾きかかつた頃だつたが、驛前の廣場に人だかりがしてゐる。何氣なくその人垣の方へ近づき圓陣の外に立留まつて眺めると、實に意外な光景であつた。そこには七八人の男女が入亂れて、南無妙法蓮華經を低唱しながら、てんでに勝手な舞踊をつづけてゐる。舞踊といふのか、祈禱といふのか、ものにとり憑かれてゐるといふのか、兩手で圓い環を描いたり、足をゆさぶつてみたり、さまざまの恰好をつくるのだが、大概のものが、眼は輕く閉ぢてゐて、動作は頗る緩慢なのだ。戰災者らしい汚れた服裝の娘もゐたし、薄化粧をした振袖の女もゐる。さうかと思ふと、人垣の方からフラフラと誘はれて踊りながら圓陣の中に吸込まれる口髭の親爺もゐた。しかし誘はれる人には誘ふところの光景だつたのだらう。

 ところが私は、ふと圓陣の外で、これよりもつと興味ありさうな事が起りかけてゐるのに氣づいた。先程から背の高い頑強さうな男と中年の婦人と、何か押問答してゐたが、そのうちに數珠を持つた婦人はいきなり、その男の顏の眞中を目がけて合掌すると、南無妙法蓮華經を唱へだしたのである。これは一體どうなるのだらうか、今に相手の男は念佛の力に感動して何かやり出すのだらうか。それともそれは始めから仕組まれ打合はされてゐる芝居なのだらうか。さう思ひながら、婦人の顏をみると、ふとこの顏は私の親戚の狂信家の、熱狂はしてゐる癖にとりつく島のないやうな淋しい顏を連想させた。それから今度は相手の男を眺めると、これはまた私の知人の、いつでも顏はむかつ腹立てながら心中では巫山戲てゐる人物をしのばせた。これでは、もう大概さきが知れてゐて大したことも起るまいと思へたが、やはり私は次に起ることを待つてゐた。

 暫く婦人の念佛は恍惚とつづけられてゐたが、相手の男は一向に動ずる色も浮ばない。やがて、この嚴しい顏をした男は唇を突出すと、べつと舌を、出したのである。「罰あたりめ」婦人は輕くその男を撲るやうな身振りをしたが、相手はもう颯爽と立退つて行くのであつた。

 

[やぶちゃん注:ここに描かれているのは、戦後に「踊る宗教」として知られた、天照皇大神宮教(てんしょうこうたいじんぐうきょう)であろう。ウィキの「天照皇大神宮教によれば、『教祖は熊毛郡田布施町の農婦、北村サヨ』(明治三三(一九〇〇)年~昭和四二(一九六七)年十二月二十八日:教団内では「大神様」と呼称)』で、彼女は『農家の嫁であったが』、昭和一七(一九四二)年に『自宅の納屋などが放火に遭い』、その『犯人捜しのために祈祷師に勧められた丑の刻参りと水行の修行を始め』、昭和二〇(一九四五)年には『宇宙絶対神(天照皇大神)が降臨したと話すようになり』、『開教した』。敗戦の翌年である昭和二一(一九四六)年を、教団では『「神の国の紀元元年」と呼び、独自の年号「紀元」を使用し始めた』。『教団の教えによれば、宇宙絶対神は』三『千年に一度だけ地球に降臨するとされ、一度目は仏教の釈迦、二度目はキリスト教のキリスト、三度目が北村サヨであるという。教団では「我欲をすてて無我の域に達することが出来れば、人と神が合一する」と説き、無我の舞を踊るのが特徴である。そのため第二次世界大戦後には「踊る宗教」や「踊る神様」と喧伝された。この宗教団体では、見たこともない人同士で「結魂」(「結婚」の読み替えによる宛文字)することも珍しくない。他の例では「合掌」を「合正」、「聖書」を「生書」、「信仰」を「神行」、「六根清浄」を「六魂清浄」、「南無妙法蓮華経」を「名妙法連結経」と書き換えている』とある。されば、原民喜のこの叙述部分も正確には「南無妙法蓮華經」ではなく、「名妙法連結經」と唱えていることになろう

「ゼネスト」昭和二二(一九四七)年二月一日に実施が計画された「二・一(に いち)ゼネスト」、ゼネラル・ストライキ(general strike:全国的な規模で行われるストライキ。総同盟罷業)。決行直前に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの指令によって中止となり、戦後日本の労働運動の方向を大きく左右した。以上の叙述から、同年一月下旬が話柄内時制である。

「巫山戲て」「ふざけて」。

「立退つて」「たちさつて(たちさって)」。]

 

  浴衣

 

 體の調子がよかつたので、久振りに寢卷を洗濯した。襟の方にしみついた垢はいくら石鹼で揉んでも落ちなかつたが、一時間あまりも屈んでゐると、いい加減くたびれる。私はいい加減にして、その浴衣を木蔭へ吊しておいた。それから私は狹い部屋で寢轉んで窓の外の靑空を眺めてゐた。洗濯もののよく乾きさうな氣持のいい日だつた。夕方、私は木蔭のところへ行くと、ハツとした。浴衣は無くなつてゐた。足袋や靴下やハンカチなどこまごましたものは殘つてゐたが、一目で目につく浴衣はなかつた。

 あの浴衣を盜まれたからには、もう私には肩のところの透きとほつた、穴だらけの、よれよれの浴衣しか殘つてゐないのだ。私はそのぼろぼろの浴衣をとり出して手にとつて眺め、だんだん自分が興奮しだすのを覺えた。盜むよりほか手段を持たない人が盜んで、あれを着るのなら、たとへば貧しい母親が子供の襁褓にするため盜んだのなら、私の心はまだ穩かであり得る。だが、どうもあれは專門家の手によつて古着屋へ五十圓位で賣拂はれ、一杯のカスとり燒酎にされてしまつたのではないか。

 

[やぶちゃん注:「カスとり燒酎」これは実はそう簡単には説明出来ない。戦後の闇市では、真正のもの(新酒の粕を蒸籠で蒸留して取る焼酎)、低級な類似品、真っ赤な偽物で死に至る危険なもの(メチル・アルコール含有)が共時的に存在したからである。梅崎春生悪酒の時代――酒友列伝――の私の注を参照されたい。]


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