進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第七章 生存競爭(4) 四 同種内の競爭
四 同種内の競爭
動植物各種の生む子の數の非常に多いことは、既に前章に述べた通りであるが、自然界には隅々まで各種の動植物が壓し合ふやうに位置を占領して居るから、到底新に多くの生物を收容すべき餘地はない。それ故、代々生れる子の中から平均親と同數だけより生長し終えることは出來ず、その他は悉く何かの理由によつて、途中に死んでしまはなければならぬ。若し生れる子が皆互に寸分も違はぬものであつたならば、この際孰れが生き殘るか敦れが死ぬるかは全く偶然に定まる理窟であるが、既に第五章で述べた通り、野生動植物にも著しい變異性があつて、一對の親より生れた子にも形狀・性質ともになかなか互に相違するものがあり、全く相同じきものは決してないから、少數のものだけより生き殘ることが出來ぬといふ場合には、生き殘るべきものと死すべきものとの運命が自然に定まつて居る。卽ち一個一個の間に多少の相違がある以上は、敵に食はれぬやうに身を護るに當つても、異種屬の生物と競爭するに當つても、また食物を得るために同胞と相爭ふに當つても、各々多少の優劣あるは免れぬ所であるから、優つたものは生き殘つて生長し、繁殖し、劣つたものは死に絶えてしまふことになる。
例へば「いなご」は常に鳥類に食はれるものであるが、多數に生れた子の中には、生れながら後足の發達の度に幾分かの相違があり、隨つて跳ねることの幾らか速いものと幾らか遲いものとがある、これは人間にも同じ兄弟の中に足の達者なものと弱いものとがあるのと同樣である。これが皆鳥類に追はれ捕へられようとする場合には、如何なるものが最もその難を逃れる見込を有するかといへば、無論最も後足の發達した最も跳ねることの巧なものである。尤も人間の競走にも常に一番になる名人が偶然滑つて轉んだために負けることがあるやうに、後足の最も發達したものが鳥に食はれることもあるには相違ないが、大體からいへば、先づこの通りであらう。そこで代々多數に生れる子の中から最も後足の發達したもの若干だけが生き殘つて繁殖し、その他のものは皆鳥に食はれてしまふとすれば、この性質は遺傳によつて常に一代より次の代に傳はり、代々少しづゝ進んで、終には後足の頗る發達した「いなご」が出來なければならぬ。
また鼴鼠は常に蚯蚓を食つて生きて居るものであるが、蚯蚓を食ふ動物は外にも隨分澤山にあるから、多數に生れる鼴鼠の子は蚯蚓を餘程巧に取らぬと餓死せなければならぬ。然るに同じく生れた子の中にも前足の爪の發達に多少の相違があり、爪の幾らか大きくて鋭いものもあれば、幾らか小くて鈍いものもある。之が皆同樣に蚯蚓を追うて步く場合には、如何なるものが最も速く蚯蚓を捕えて飽食する見込を有するかといへば、
勿論爪の最も大きく鋭いものである。そこで代々多數に生れる子の中から最も爪の發達したもの若干だけが生き殘り、他のものは殘らず餓死してしまふとすれば、この性質は遺傳によつて常に一代より次の代に傳はり、代々少しづゝ進んで、終には爪の頗る發達した鼴鼠が出來る筈である。
[やぶちゃん注:「鼴鼠」は「もぐら」と読む。]
以上掲げた例は兩方とも單に理窟だけを示すために、事柄を非常に簡單にして論じたが、實際に於ては素より決して斯く簡單な譯のものではない。例へば「いなご」が鳥に追はれるときにも、たゞ後足さへ發達して居れば必ず競爭に勝つとは限らぬ。同じく綠色の「いなご」でも、綠葉にとまれば鳥の目に觸れ難いが、白壁の上にとまれば著しく目立つから、先づ鳥の攻擊を受ける。それ故、何處にも構はずにとまる足の速い「いなご」よりは、足は弱くても自身と同色の處のみを選んでとまる「いなご」の方が助かり易い。また同じく綠葉にとまる「いなご」の中では、たとい跳ねることは少々遲くても、體色が最も葉の色に近いものが最後まで鳥の攻擊を逃れる譯である。また後足が發達すれば宜しいといつても、決して無限に何處までも大きく成れるものではない。凡そ生物の體といふものは頭・胴・手・足などが集まつて、初めて完全な一個體が出來て居るのであるから、一個體をなせる各器官の間には極めて親密な關係があり、決して或る一種の器官が他の器官に構はずに大きくはなれぬ。後足ばかりが無暗に大きくなつては、從來の小さな口で咀嚼し、從來の短い腸で消化し吸收するだけの滋養分では、之を養ひ切れぬ故、先づこれらから改まらなければ出來ぬことである。今ここには僅に二三箇條を擧げたに過ぎぬが、生存競爭の際に勝負に影響を及ぼす事項は殆ど無數にあるから、一々の場合に如何なるものが勝つかは、その生物の構造・生理・習性・外界の事情等が悉く解つた上でなければ、確に豫言することも出來ぬ。斯かる次第で實際に於ては決して例に述べた如き簡單なものではないが、敵に食はれぬための競爭に於ても、餌を食ふための競爭に於ても代々多數に生れる子の中で如何なるものが勝ち、如何なるものが負けるかは決して偶然に定まる譯ではなく、常に一定の標準によつて定まるといふことだけは、誰も爭ふことの出來ぬ事實である。
代々一定の標準に隨つて淘汰して行けば、その生物に一代每に僅かづゝ變化し、代を重ねるに隨つて、この變化も積つて著しく現れ、終には先祖に比べると殆ど別種かと思はれる程になることは、人間の飼養する動植物の方には幾らも例があるが、野生の動植物にも同種内の競爭の結果として、やはり、一種の淘汰が常に行はれて居る。倂し之は人間の干渉を受けず、自然に行はれるもの故、自然淘汰と名づける。人爲淘汰に於ては飼養者が淘汰すること故、その生物は代々飼養者の理想とする所に向つて少しづゝ進んで行くが、自然淘汰に於ては生存競爭の結果として自然に淘汰が行はれること故、その生物は代々生存競爭の際に利ある點が少しづゝ發達して行く。恰も鳩の中から胸の最も脹れたものを代々選んだので、今日のパウターが出來、また尾の最も擴がるものを代々選んだので、今日のファンテイルが出來た如く、「いなご」の先祖から代々後足の最も發達したものだけが生き殘つたので、現在の如き「いなご」が出來、また鼴鼠の先祖から代々前足の爪の最も大きく鋭いものだけが生き殘つたので、現在の如き鼴鼠が出來たといふやうな譯である。
[やぶちゃん注:文中のハトの品種については、先行する「第三章 人の飼養する動植物の變異(3) 二 鳩の變種」を参照のこと。]
こゝに附けていふべきは、同種内の生存競爭は必ずしも個體間ばかりに行はれるとは限らぬことである。動物には單獨の生活をなすものと、團體を造つて生活するものとあるが、團體を造つて生活するものでは、常に團體と團體との間に劇しい競爭が行はれ、生存競爭に利益ある性質を帶びた團體は勝つて長く存立し、不利益な性質を帶びた團體は忽ち敗れて亡び失せる。それ故、斯かる種類の動物に於ては生存競爭の單位は團體で
あるが、如何なる團體が最も勝つ見込を有するかと考へると、いふまでもなく、その内の個體の數が相當に多くて、之が皆協力一致し、尚進んでは共同の事業を分擔して各自專らその擔當の局に當るやうな團體が最も強い。如何に多數の個體より成る團體でも、その中の各個體のなすことが互に矛盾するやうでは、勞力の總量は如何に多くても、その大部分は團體内で互に打ち消し合ひ、到底團體として敵と對立して競爭することは出來ぬ。然るに團體競爭の結果として、競爭に利益ある性質を帶びた團體のみが常に生き殘つて子を殘すから、こゝに述べた如き性質は一代每に自然淘汰によりて進步し、團體内には一定の秩序が生じ、分業が行はれ、各個體は幾分かその獨立を失ひ、全團體は恰も一段等級の高き個體の如きものとなることになる。社會と名づけるものは卽ち斯かる團體である。