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2017/12/11

一匹の馬   原民喜

 

[やぶちゃん注:随筆「一匹の馬」は初出未詳で、原民喜没後十四年後の昭和四〇(一九六五)年八月に芳賀書店から刊行された「原民喜全集」(全二巻)に収録されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集Ⅱ」を参考底本に用いたが、昨日、本カテゴリ「原民喜」で電子化注を完成したジョナサン・スイフト原作・原民喜譯「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)の表記に則り、恣意的に漢字を概ね正字化した句点が一切存在しないのは底本のママ。「憂ウツ」「敏ショウ」「發ラツ」「クラ」「ショウ然」「オウト」「ノド」も総てママである。底本の仮名遣は現代仮名遣で、正字とはやや不整合かも知れぬが、原稿・原本を確認出来ないので、そのままとした。私は実は芳賀書店版全集の編集者が歴史的仮名遣を現代仮名遣に変えた可能性を深く疑っている。何故なら、書き出しで民喜は「五年前」と言っており、とすれば、これは昭和二五(一九五〇)年に書かれたものであり、民喜は終生、ほぼ一貫して基本、歴史的仮名遣・正漢字を使用して原稿を書いていた事実があるからである(上記の「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)を参照。「ガリヴァー旅行記」もこれと同じ時期に書かれたものと思われる)。

 なお、本シークエンスについては、先ほど公開した原民喜の随筆「ガリヴア旅行記 K・Cに 」の最後でも言及されている。

 第二段落に出る「東練兵場」は現在の広島県広島市東区光町などを含む、広島駅の北側に広がっていた「廣島市東練兵場」のことである。「とりさん」氏のブログ「広島市東練兵場跡地」が非常に詳しい。当時の航空写真や、現在の地図上に当時の当該区画も示されてある。必見。

 「東照宮」は現在の広島市東区二葉の里にある、広島東照宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「広島東照宮によれば、『の原子爆弾投下の際にも全壊を免れており、現存する被爆建物の一つ』で、そこに『ここは爆心地から約』二・一キロメートル『(広島市公式)に位置した。爆風により』、『建物の瓦や天井が吹き飛び北方に傾き、石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされた。熱風によりまず拝殿から出火し、瑞垣や本殿、神馬舎へ延焼した。その後も被害が広がりつつあったが』、『通信兵の手により』、『更なる延焼から免れ』、『全焼は回避された』。また、『社宝は大部分が消失した。同日、市内の被爆者が多数避難してきて』、『大混乱となった。境内南下に臨時救護所が設けられ、通信兵や陸海軍救護隊や民間の医療救護班によって治療活動が行われ、特に重傷者は近くの国前寺へと運ばれた』被爆翌日の八月七日には『境内南下に広島駅前郵便局および広島鉄道郵便局の仮郵便局が設けられた』とあり、その後に『幟町(現在の広島市中区)の実家で被爆した作家・原民喜は』七『日夜、親族とともに境内の避難所で野宿して覚書』(「原爆被災時のノート」)『を記し、後日それを元に小説『夏の花』を執筆した』と記されてある。「原爆被災時のノート」は「青空文庫」のこちらで読める。そこにもこの馬のことが記されてあるので、以下に引く(青土社版全集の「Ⅲ」のそれと校合し、恣意的に漢字を正字化した)。

   *

 翌朝[やぶちゃん注:七月八日に相当する。]目ザメテ肩凝ル 廣島驛ノ方ヘ行ツテ見ルニ 廣島ノ街ハ滿目灰白色ナリ 福屋ナドノビルワヅカニ殘ル 馬一匹練兵場ニサマヨフアリ 驛ニハ少年水兵作業ヲナス 橫川ヨリ 汽車アル由キイテ歸ル 臥屋ニ歸レバ陽アタリテ暑シ 昨夜ノ黑焦顏ノ婦人既ニ死ニ 巡査シラベルニ 呉ノ人ナルコトワカル

   *

「燒津」恐らくは「饒津」(にぎつ)の誤り(原民喜自身の誤字か、芳賀書店編者の判読の誤りであろう。後者の可能性が高い)であろう。現在の東区二葉の里二丁目にある饒津神社(にぎつじんじゃ)方向を指しているものと思われる。同神社はここ(グーグル・マップ・データ)で、広島駅の北西に当たり、広島東照宮からは直線で五百メートル強である。

「東警察署」当時の「廣島東警察署」は広島市京橋町(現在の広島市南区京橋町)にあったが、被爆の前月七月に空襲激化の虞れがあることから、広島市下柳町(現在の広島市中区銀山町)の藝備銀行下柳町支店(現在の広島銀行銀山町支店)を借りて移転していた。現在の広島駅の南西の、(グーグル・マップ・データ)。以上はウィキの「広島東警察署」の「沿革」を参照した。

 因みに、本篇は既に新字新仮名で単品(二〇〇二年七月二十日作成)、及び、原民喜訳「ガリバー旅行記」(二〇〇三年五月三日公開・二〇一四年三月二十七日修正)の最後に、一九七七年一二月晶文社刊の「原民喜のガリバー旅行記」に併載されているものから、電子化されているのであるが、後者は、底本である晶文社のそれが杜撰なのか、或いは入力者のミスによるものなのか、本篇のそれは誤りや有意な文章の脱落(第六段落目。私のものと比較されたい。「罹災證明がもらえ」という同じ文字列を次の第七段落目の頭と誤認して繋げてしまった結果であろう)があり、電子テクストとしては価値がない(本日二〇一七年十二月十一日現在で再確認したが、依然として訂正されていない)ことを言い添えておく。嘗て同文庫には一般閲覧者が誤りを指摘する投稿ページがあり、それによって修正もなされていた(私も何度か指摘した)が、そのシステムが今はないので、ここで述べておくこととする。但し、底本の晶文社の誤りの場合(私は所持しないので確認出来ない)は、同文庫のシステムでは底本第一主義をとっているため、誤ったままで載せ続けることになるのであろう。しかし、それは、それこそ、原民喜に対して非常に失礼な仕儀となると存ずるものである。なお、前者の単品物は問題ない。しかし、その場合でも、ネットだけで見ている読者はその違いに戸惑うことは明白であるから、後者の誤ったものは全篇をカットするぐらいの英断をしなければ、電子テクストの草分けの名が廃ると言ってよい。]

 

 

   一匹の馬

 

 五年前のことである

 私は八月六日と七日の二日、土の上に橫たわり空をながめながら寢た、六日は河の堤のクボ地で、七日は東照宮の石垣の橫で――、はじめの晩は、とにかく疲れないようにとおもって絶對安靜の氣持でいた、夜あけになると冷え冷えした空が明るくなってくるのに、かすかなのぞみがあるような氣もした、しかし二日目の晩は、土の上にじかに橫たわっているとさすがにもう足腰が痛くてやりきれなかった、いつまでこのような狀態がつづくのかわからないだけに憂ウツであった、だが周圍の悲慘な人々にくらべると、私はまだ幸福な方かもしれなかった、私はほとんど傷も受けなかったし、ピンと立って步くことができたのだ

 八日の朝があけると私は東練兵場を橫切って廣島驛をめざして步いて行った、朝日がキラキラ輝いていた、見渡すかぎり、何とも異樣なながめであった

 驛の地點にたどりつくと、燒けた建物の脇で、水兵の一隊がシャベルを振り囘して、破片のとりかたづけをしていた、非常に敏ショウで發ラツたる動作なのだ、ザザザザと破片をすくう音が私の耳にのこった、そこから少し離れた路上にテーブルが一つぽつんと置いてある、それが廣島驛の事務所らしかった、私はその受付に行って汽車がいま開通しているものかどうか尋ねてみた

 それから私は東照宮の方へ引かえしたのだが、ふと練兵場の柳の木のあたりに、一匹の馬がぼんやりたたずんでいる姿が目にうつった、これはクラもなにもしていない裸馬だった、見たところ、馬は別に負傷もしていないようだが、實にショウ然として首を低く下にさげている、何ごとかを驚き嘆いているような不思議な姿なのだ

 私は東照宮の境内に引かえすと石垣の橫の日陰に橫臥していた、晝ごろ罹災證明がもらえることになつたので、私はまた燒津の方へ向う道路を步いて行った、道ばたの燒殘った樹木の幹を背に、東警察署の巡査が一人、小さな机を構えていた

 罹災證明がもらえて戾ってくると今度は間もなく三原市から救援のトラックがやって來た

 私は大きなニギリ飯を二つてのひらに受けとって、石垣の日陰にもどった、ひもじかったので何氣なく私は食べはじめた、しかしふとお前はいまここで平氣で飯を食べておられるのか、という意識がなぜか切なく私の頭にひらめいた、と、それがいけなかった、たちまち私は「オウト」を感じてノドの奧がぎくりと搖らいできた

 

 

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