原民喜作品集「焰」(正規表現版) 恐怖敎育
恐 怖 敎 育
薇(ぜんまい)仕掛で疊の上を這ふ象の玩具はガリガリと厭な音を立てた。正三はわーと泣き出した。すると、兄姉達は面白がつて一勢に笑つた。母が叱ると、意地の惡い兄は薇を卷いたまま戶棚に收めた。象はガリガリ戶棚のなかで暴れた。(ガリガリガリと云ふ音は、その頃正三の齲齒(むしば)を切り取つた厭な機械の音に似てゐた。)
兄が石から火が出ると云つて、手斧で花崗石(みかげいし)を叩きつけた。その瞬間、彼の膚を冷やりとさす音と、石の粉と怪しい焰が飛んだ。何を思つてか兄は手斧の刃でギリギリギリと石を小擦り出した。正三は耳を掩つて逃げた。
或る夜、兄が正三に便所の手洗鉢の側にある譯のわからない植物を指差して、「あそこは怖いぞお。」と脅した。その植物の葉には水がかかつてゐて、纖細(かぼそ)い月の光を受けてゐた。その茫とした光が目球のやうに正三には想へた。その頃から正三はやたらにものを怖がり出した。獅子の笛、あんまの笛、猫の眼、老婆のおはぐろ、街をつつ走る狂女、佛壇、押入れ、到るところに正三を脅しつけるものがゐた。
――正ちやんは昨夜どんな夢をみたの。 と姉が訊ねた。
――大根の夢、茄子の夢、瓢簞の夢。
姉は嬉しげに噴き出してしまつた。
――そんな夢つてないわ、大根がどうしたの、瓢簞が何か云つたの。
――どうしたのかもう忘れた。
――今に怖い夢をみるよ。 さう云つて姉は眼を凄く見ひらいた。
――厭だ、厭だ、そんな怖い夢なんか。
――よく私の云ふことを肯(き)かないと怖い夢をみせるよ。
――厭だ、厭だ、みせてはいらない。
――ええ大丈夫よ、ほら、あそこの抽匣(ひきだし)に鍵かけて收めて置くからもう大丈夫よ。
近所の床屋に啞者が來てゐると云ふので、正三は兄と一緖に見に行つた。啞者は生つ白い顏をして、どうも忿(おこ)つてゐるやうな顏だ。へんてこな手つきで頻りに何かしてゐた。正三は怖々覗いては逃げ、逃げては覗いた。
その罰で到頭彼は怖い夢をみた。氣の狂つた女が形相變へて正三を追駈けて來る。正三は逸散に家にむかつて逃げるのだが、家までがなかなか遠い。やつと家の附近まで來たと思ふと、そこにあつた一本の樹木がによつと枝を出して邪魔をした。その枝の下を潜つて玄關に飛び込むと、ピツタリ障子を立てた。狂女は無念さうに障子を睥むと、そこへ腰を下して、ガタガタ障子を足蹴にし出した。ガタガタと障子の内側では正三が慄へてゐた。
[やぶちゃん注:「睥む」「にらむ」。睨む。]

