原民喜作品集「焰」(正規表現版) 三人
三 人
遠くの低い山脈は無表情な空の下に連(つらな)つてゐた。しかしその山脈を銀のナイフで切れば血が噴き出すかも知れない――何だかさう云ふ氣持も少しした。鈍い太陽が冬枯れの練兵場の上にあつた。眺めはまるで人生のやうに退屈であつた。今日は正月二日なので兵士の影もない。そのかはり山裾の道に添つて、三人の靑年がとぼとぼと步いてゐた。彼等はさつきから沈默(だまり)くらべでもしてゐるらしく、てんでに素氣(そつけ)ない顏をしてゐた。だが、その重苦しい氣分に反抗するために、一人の男の濃い眉は時々無意識に動いた。また、一人の男の瘠せて怒つた肩は窃(ひそか)に或る表情を見せてゐた。また、一人の靑白い男の唇の隅はピクピクと巫山戲てゐた。しかし三人は三人とも口をきかなかつた。
この不思議な沈默は何に責任があるのかしら、と靑白い男は唇の隅へ煙草を銜へてぼんやりと考へてゐた。彼は大學を二度無意味に落第して、惰性でもう一度落第するかも知れなかつた。濃い眉をした男の頰は少し赤かつた。彼は肺を病んでぶらぶら散步して暮すのだつた。肩の怒つて瘠せた男は畫をやるのだが、繪具も持つてゐなかつた。彼等は今日も的(あて)もなく街で出逢ふと、二口三口言葉を交へて、的もなく散步に來たのだつた。彼等は廿五歲になつた。そしてその響は空虛(うつろ)であつた。或る悲慘な落伍者のやうな氣分が三人の頭を抑へた。
しかし、それが凡てであらうか。假りにもし一人が何か素晴しいことを云へば、他の二人も卽座に歡聲をあげて寛(くつろ)ぐかも知れないのだ、誰もそれを知つてゐながら奇妙に素晴しいと云ふことがなかつた。だから默つた。
山裾を𢌞つて坂になるところまで來た時、眉の濃い男が、「歸らうか。」と云つた。他の二人が默々と同意した。そして三人は街に引返した。そして別れた。
靑白い男は家に歸ると、急ににやにや笑ひ出した。妹がその容子を見てけげんがると、一そう得意になつて笑ひ出した。
[やぶちゃん注:青土社原民喜全集Ⅲの「原民喜年譜」によれば、原民喜満二十四歳(数え二十五)は昭和四(一九二九)年で、『四月、慶応義塾大学文科へ進む。主任教授、西脇順三郎、同級に瀧口修造、井上五郎等。』『この年から翌年にかけて日本赤色救援会(モップル)に参加、昭和六年ごろ、組織の衰弱、崩壊につれて自然消滅のかたちで活動から離れる』とある。]
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