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2017/12/07

柴田宵曲 俳諧博物誌(20) 熊 二(その1)

 

       

 

 『和漢三才図会』は熊の習性についてこういう事を書いている。

  性輕捷にして好んで緣上高木に攀る。人を見れば則ち顚倒し自ら地に投ず。

身体つきはどっしりしていても、なかなかすばやいところがあるらしい。好んで高い木の上に攀じ登り、人を見れば地へころがり落ちるというのはどういう料簡かわからぬが、この習性らしいものを捉えた句が一つある。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會」の原文(頭の「本草綱目」の引用部)は前の「一」の注で示したのでそちらを参照されたいが、私はそこで原典に忠実に漢字(略字や異体字の場合もそれを採用している)を起してある(これは私が作業中の「和漢三才圖會」の電子化注(現在は「禽類」(鳥類))で私が厳格に守っている仕儀である)。宵曲が引くのはその、

  性輕捷好攀縁上高木見人則顛倒自投于地

の部分である。御覧の通り、原典は「縁」ではなく「縁」であり、「顚」でなく「顛」である。しかし、ここは特異的に引いた宵曲のそれを忠実に正字化しておいた。何故なら、底本自体が「顛」については「顚」の字を用いているからで、その場合、総てを正字表記とする方が、読者の不審を起さないと判断したからである。また、そこで私は、

  好んで攀ぢ縁(よ)り、高木に上ぼる。人を見るときは、則ち、顛倒し、自ら、地に投(とう)ず。

と訓読した。前の箇所は確かに「縁上」部分に全く送り仮名がないことから、宵曲の読みも一つあろうかとは思う。しかし、宵曲は良安の振った訓点を無視している点で、致命的な反則を犯している。良安は「上高木」としているからである。そもそもが私が敢えて「攀ぢ縁(よ)り」と読んだかと言えば、「縁上」という熟語が不審だったからである。この返り点がなければ、宵曲のように読むかも知れぬが、それにしても「縁上」というのは不審な語である。「高い所のその中でも端の方」の意ならば、確かに転げ落ち易そうな場所ではある。しかし、だったら、「高木上縁」とするべきであろう。そこで私は「縁」は動詞で前の「攀」と熟語になっているのではないかと考えた。「縁」には「寄る」という動詞の意があるから、ある物の近くにすり寄って攀じ登るという意で採ったのである。]

 

 人音(ひとおと)や熊ののたりに散(ちる)さくら 轍車

 

 「のたり」という言葉が顚倒に当るかどうか、多少の疑問があるとして、そうでも解釈しなければ、さしあたりこの句の始末がつかない。木の上に攀じ登っていた熊が、人の来るけはいを知って、どたりと地上にころがり落ちる。その地響であたりの桜の花が散る、というような意味であろう。熊公花に浮れて桜の梢に登り、四方の景色を眺めるとまで限定する必要はない。熊の登るのは他の木で、桜はそのほとりにあるとしてもよかろうと思う。いずれ深山の趣に相違ないが、役者が熊だけに「駒が勇めば花が散る」というほど陽気な芸当にはならぬ。作者がこういう光景を目撃して詠んだか、人から話を聞いて想像を逞(たくま)しゅうしたか、恐らくは後者であろう。熊と桜はちょっと珍しい取合である。落花を配することによって、無気味な「熊ののたり」も多少優美化されたような気がする。

 

 夕立に取(とり)にがしけり熊つかひ 孟遠

 

 岡本綺堂氏の『半七捕物帳』に「熊の死骸」という話がある。麻布の古川の近くに住む熊の膏薬屋が、店の看板代りに飼っていた熊を、大火事の騒ぎで逃すと、人に追われて混雑の中に姿を現し、行く手の邪魔になる人を殴(たた)き倒す。その中に二人の武士のために斬り倒されるという出来事なので、『事々録』弘化二年の条に見えているから、当時の江戸にそんな事があったものであろう。孟遠の句はそれほどの大事件ではない。「熊つかひ」とあるけれども、後の曲馬団のような大がかりなものでなく、屋外で芸をさせる程度の熊ではあるまいか。「丹波の国で生捕った荒熊でござい」というような言葉は、そんなものを見たおぼえのないわれわれでも小耳に挟(はさ)んでいる。突然夕立の降って来た騒ぎに、熊つかいも慌てたと見えて、大事の熊を逃してしまった。夕立の巻はこれでおわるから、作者はその後に来るべき騒動については何も示していない。巷間蜚語(こうかんひご)粉々として、遂にフィリップの「獅子狩」のような結果になるかどうか、それは小説家に一任して差支(さしつかえ)のない問題である。

[やぶちゃん注:「熊の死骸」大正九(一九二〇)年八月号の『文藝俱樂部』初出で、設定時制は弘化二年正月二十四日(グレゴリオ暦一八四五年三月二日)で、舞台は芝三田・高輪である。「青空文庫」のこちらで読める。

「事々録」風聞雑説を集録したもので、作者未詳とされるが、大御番を勤めた堀田重兵衛(堀田甚兵衛)なる人物ではないかとも言われる。所持しないので原典を示せない。

『フィリップの「獅子狩」』フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe 一八七四年~一九〇九年)の没後に刊行された二十四編から成る短編集「朝のコント」(Les Contes du Matin 一九一六年:邦訳は誤解を生む。確かに“Matin”はフランス語の一般名詞で「朝」であるが、実はこれは固有名詞で、それらが連載された大衆新聞の紙名であるから、正確には「『ル・マタン』紙のコント」とする正しい)の中の一篇。抄訳本しか所持せず、当該作は所収しておらず、未読。原題もフランス語サイトを検索したが、何故か、リストが見当たらないので示せない。分かり次第、提示する。

「夕立の巻」何の俳諧撰集か不詳。識者の御教授を乞う。]

 熊を馴らして飼うことは、昔もしばしばあったらしい。伴嵩蹊(ばんこうけい)などは熊は人に馴れやすいものだといい、京都で菓物売(くだものうり)の女が熊の子を繫(つな)いで飼っていることを『閑田耕筆』に書いている。香川景樹も生麦(なまむぎ)の茶店に飼っている熊を見て、一首の歌を詠じているが、その歌はさっぱり面白くない。『甲子夜話』には白熊を養う話もあるが、これらはいずれも子飼のようである。

[やぶちゃん注:以上の伴嵩蹊(享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:商人で歌人・文筆家。本名資芳(すけよし)。近江八幡出身の京都の商家に生まれたが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念したが、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した。代表作は知られた「近世畸人傳」(正編は寛政二(一七九〇)年出版))の随筆「閑田耕筆」の記載は、「卷之三 物之部」の四条目に出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

○山獸の中には、熊は人に馴安きものなり。華山のさき、牛尾道と三條への別路に、菓(クダモノ)賣(ウル)女のかり初に出居るが、熊の子をつなぎたるを、おのれ立より見て、其菓物(クダモノ)を買て、熊に與へたれば、女うまいと申せといふ聲に隨ひて、うなりたる。いかにもうまいうまいと聞ゆ。幾度も同じ。伊吹山よりいまだ乳をのむものを、人のとらへ來るを買て、初は物を嚙(カミ)てあたへしに、今は三とせになれりといひしが、猶小なりし。旅人來あひて、是ほ大にして觀場(ミセモノ)の料に賣んとにやといひしに、女いなかく養ひて何かは賣ベき。生涯飼ひぬべし。もとより是がために、物買ふ人も多しといはれて、旅人は得ものいはざりき。殊勝のこたへなりと、思ひてわすれず。

   *

「華山」というのは京都府京都市山科区北花山のことで、「牛ノ尾道と三條への別路」というのはその東で、附近と見てよかろう(グーグル・マップ・データ)。京都と滋賀の境である。それにしても、仄かなペーソスを含んで、しみじみとした、いい話ではないか。

「香川景樹も生麦(なまむぎ)の茶店に飼っている熊を見て、一首の歌を詠じているが、その歌はさっぱり面白くない」これは江戸後期の歌人桂園派の開祖香川景樹(かがわかげき 明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)が、尾張国津島の門人の元を訪ねるため(その後、京都の本宅へ向かった)、文政元年十月二十三日(グレゴリオ暦一八一八年十一月二十一日)に江戸を発った、その道中日記である「中空日記」(なかぞらにっき)の中の一節。「奈良女子大学学術情報センター」の「江戸時代紀行文集」にある「中空日記」から(当該)、翻刻文を原本と照合して正字化し、句読点や濁点(推定)及び記号を追加して示す。

   *

六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麥にかゝる。

  あはれなりなまむき村も冬かれて蕎麥のから打から棹の聲

何事にかあらん、ある家に老たる女どもの、つどひて、酒のみしけるが、はやり小哥、かたなりにうたひあざれて、たなうら、かたみにうちかはし、ゑひたはるゝを見て、よめる。

  世のうきやわすれはつらんさゝの葉のさやげば是も一ふしにして

また、熊をかひおける茶店あり、此くま、春は芹をのみくひたるが、今は柹をのみくひけり、さはいへ、投やりて、塵などけがれたるをば、さらにくらはず、されば、たれも手づからやるに、其やるごとに、かならず、おしいたゞきて、くふめり、さて、あるじ、かたらく、「此熊は腹ごもりにてえたるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親ぐまの腹をさかはぎにせし時、その利鎌のさき、かれが月の輪にかゝり侍りて、ほとほと、命あやふく侍りき、其疵、いまに侍り、それ、見せまゐらせよ。」といへば、打すわりてのけさまに、のんどをさゝげたるさま、あはれにかなし。

  月の輪にかゝれるあとを仰ぎてもみするやくまとなのるなるらん

   *

宵曲は出典も明かさず、歌もつまらんと一蹴しているが、この嘱目はかなり興味深い。私が非常に高く評価しているkanageohis1964氏のサイト「地誌のはざまに」の生麦のツキノワグマ:「中空日記」よりでもこの話を採り上げておられるので、是非、お読みになることを強くお薦めする。それによれば、『この熊は後年になると』、『芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残って』おり、なんと、かの『シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介して』いて、また、『生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる』とある。「鶴見区」公式サイト内の7回:シーボルトと熊茶屋(その1)関口日記に見る熊茶屋の顛末及び同「の2も必見で、そこには「白熊」(ツキノワグマのアルビノ)の話もある(但し、「甲子夜話」の話のそれとは別個体。後注参照)

「『甲子夜話』には白熊を養う話もある」私の(私は甲子夜話電子化注も手掛けている)甲子夜話卷之四 12 白熊を参照されたい。]

 

 鶯や熊をやしなふ人も出る  麥水

 

という句も何かそういう飼育者を詠んだものであろうが、如何なる場所、如何なる人であるか、これだけでは見当がつかぬ。上に「鶯や」とあり、下に「人も出る」とあるところを見ると、冬去り春来る季節の循環を扱っているのではないかと思われる。

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