甲子夜話卷之四 19 乘賢の時世、儉素の話
能登守乘賢の嫡子、飛驒守乘恆は、部屋住にて病歿せり。其附を勤たりし者の話なりとぞ。飛州住居の明り障子は、次の間よりして、皆諸方呈書の封紙もて張れり【父加判ゆへ呈書多くあるなり】。因て所々に人名斜めに見へしとなり。日々髮を結ふに膏油を用ひず。美男掌と【草也】云ものを、鬢水入に浸して用ゆる計なり。又髮に用ゆる元結と云もの、紙捻なり。其紙捻は、草履取の某と云し奴よく作れりとて、其もの作ることになり、年々の暮に、靑銅三百文づゝ、其褒美とて有司より渡せりと云。當年世風の質素なること、これにて推量るべし。又乘賢の供頭勤めしもの、家貧しくして、いつも純黃の八丈紬の羽折計を着したり。乘賢登城の時、御門々の同心ども、遙に其黃紬の色を見て、乘賢たるを知る目印となりしとなり。今の世とはかくまで物事違たることなりと。是等の事ども皆林氏の談話なり。
■やぶちゃんの呟き
「能登守乘賢」これは前話のような誤認疑惑はなく、確かに美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)である。
「飛驒守乘恆」松平飛騨守乗恒(のりつね 享保九(一七二四)年~元文五(一七四〇)年)は美濃国岩村藩の嫡子で第二代藩主松平乗賢の次男。官位は従五位下。岩村藩嫡子として育てられ、元文元(一七三六)年に徳川吉宗に御目見した。元文三(一七三八)年には叙任するが、家督相続前の元文五(一七四〇)年に十六歳で早世した。代わって、本家の下総国佐倉藩から乗薀が養子に迎えられ、嫡子となっている。
「次の間よりして、皆」居間の本間は勿論、次の間から全部。
「呈書の封紙」諸役方から上呈される書簡の包封紙。
「加判」老中のこと。本来は、文書に判を加えたり、連判・合判したりすることであるが、それが公文書に花押(かおう)を加えるような重職の意を示すこととなり、鎌倉幕府では執権の副官である連署、江戸幕府では将軍直属の政務一般の総理をした老中の意となった。
「膏油」そのまま読むなら「かうゆ(こうゆ)」で、「膏」は粘性の強い半固形状の油塊、「油」は液体状の油を指すが、ここは単に髪を整えるとともに髪型を保持するための鬢付けのそれで、二字で「あぶら」と訓じてよい。当時のそれは植物油・晒木蠟(さらしもくろう:ハゼノキ(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum)の果皮から圧搾して得た油脂を漂白或いは脱色したもの)・丁子(ちょうじ:バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum。現在のクローブのこと)その他、複数の香料で製した純植物性の固練(かたね)りの専用髪油であった。他にも多様な香料を配合したものが使用された。廣野郁夫氏のサイト「木のメモ帳」の「続・樹の散歩道 鬢付け油は何を原料としているのか」を参照されたい。
「美男掌」底本には『びなんかづら』とルビする。これはアウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica の異名。常緑の蔓(つる)性木本で、古くはこの蔓から粘液を採って整髪料に使っていたことによる。同じく前の廣野氏の「続・樹の散歩道 鬢付け油は何を原料としているのか」を参照されたい。
「鬢水入」「びんみづいれ」。
「計なり」「ばかりなり」。
「紙捻」「こより」。
「草履取「ざうりとり」。
「靑銅三百文」現代に換算すると、三千五百円前後か。
「有司」役方。納戸方。
「八丈紬」「はちぢやうつむぎ」黄八丈のこと。黄色地に茶や鳶(とび)色などで縞や格子柄を織り出した絹織物。初め、八丈島で織られたことから、この名があるという。この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術が齎されていたため、絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされる。
「林氏」さんざん既出既注の林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。