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2017/12/07

柴田宵曲 俳諧博物誌(21) 熊 二(その2) / 熊~了



 熊について連想に上るのは熊蹯(ゆうはん)と熊胆(くまのい)であるが、俳諧の世界にはあまり見当らない肉食の普及した今日でさえ、熊蹯の味を知る者は、そう身辺に居合せないのだから、昔の日本人の間にどれほど賞味されたか、少しく疑問としなければならぬ。佐藤成裕が『中陵漫録』の中で頻(しきり)に説いているところによると、熊蹯を食うには煮方がある。小刀で粗皮を去って煮ればよく煮える。その肉は葱のように白い、醤油に酒を加え、葱薑(そうきょう)の類を磨って入れると美味である。粗皮をよく削り去らなければ、幾度煮てもよく煮えぬので、古人が「胹熊蹯不熟」といっているのは、いまだこの法を知らぬのだ、というのである。彼が同じ書物の中で、二度までこの法を説いているのを見れば、世人が熊蹯の美味を称しながら、如何に実際に疎かったか、想像に難くない。成裕は奥羽に遊んでこれを食べたといい、この料理法は山人の常に試みて知る所ともいっている。われわれはこの熊蹯通に対して、とかくの言を挿(さしはさ)む資格がない。

[やぶちゃん注:「熊蹯」「熊の手」(熊掌)のこと。「一」の私の注の「和漢三才圖會」の「熊」の引用を参照されたい。

「熊胆(くまのい)」熊の胆嚢を乾燥させた動物性生薬。熊胆(ゆうたん)とも称する。ウィキの「熊胆」により引く。『古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ』、『健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもな』り、『「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)が』知られる。古くから熊を神獣とした『アイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)があ』り、『東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』、『湿潤せず』、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた』。『また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとってもヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。倭人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると』、『松前藩の役人が毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』とある。『近年、日本では狩猟者が減少していることや、乾燥技術の伝承が絶たれていることなどから、熊胆の流通量が減り、取引価格が上昇している。このため、中国などから輸入されている』『(中国は生産量の一割を消費し、韓国・日本に対する供給国とされる』)とある。

「佐藤成裕が『中陵漫録』の中で頻(しきり)に説いている」佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)は水戸藩の本草学者。中陵は号。「中陵漫録」は文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記。ここで宵曲が二箇所と言っているのは、「卷之四」の「胹熊蹯」(「熊蹯を胹(ゆび)きても熟さず」。「熊の手は煮ても、少しも、煮上がらない」の意。)と、「卷之十二」の「熊蹯易ㇾ熟」(「熊蹯は熟し易し。」。「熊の手は煮上がりやすい」の意。]である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、先の仕儀で加工して示す。少し、オリジナルに歴史的仮名遣で読みと注を添えた。

   *

 熊蹯

古人、熊蹯を貴(たふとみ)て食すと雖も、其(その)煮法を知らず。先(まづ)、熊蹯を得て、小刀にて粗皮を削去(けずりさり)て煮る時は、忽(たちまち)に熟す。其肉は白し。葱白(そうはく)[やぶちゃん注:ネギ。]のごとし。醬油に酒を加へ、葱薑(そうきやう)[やぶちゃん注:ネギや生姜(ショウガ)。]の類を磨入(すりいれ)て食すれば美也。此掌の粗皮を、よく削去らざれば、食しがたし。幾度、煮て、熟しがたし。古人、「胹(ユビヽテ)熊蹯不ㇾ熟」と云(いふ)は、此法を、いまだ、しらざる也。

   *

 熊蹯易ㇾ熟

古人、熊蹯を美(うま)しとて、好(このん)で食す。しかれども、「煮て熟しがたし」と云(いふ)。余、甞(かつ)て、奧羽に遊(あそび)て、是を食す。其(それ)、煮る時、蹯の上の厚き皮を削り去(さり)て煮る時は、忽に熟す。其皮ともに煮る時は、中は熟して上の厚皮、熟せざるなり。此法、山人(さんじん)[やぶちゃん注:山深く分け入って林業や猟をする者。]、常に試(こころみ)て、しる處也。古人、未だこゝに至らず。「香祖筆記」曰(いはく)。『用草繩匝韋煮ㇾ之。則易ㇾ熟』と云(いふ)。

   *

「胹」は原典は「ユヒヽテ」であるが、濁音化した。「湯引き」の意であろうが、本来の本字は「煮る・よく煮る」という意味ではある。佐藤はしっかりと掌の表皮を削ぎ落して軽く煮れば(或いは湯引けば)よいと言っており、そんなに煮込む必要はないと言いたいらしい。「忽に熟す」と繰り返し言うのは、そういう意味であろう。「香祖筆記」は、号の王漁洋(山人)で知られる、清初の詩人王士禎(一六三四年~一七一一年:山東省出身)の随筆。その「卷三」に、『熊掌最難熟、故楚靈王請食熊蹯而死。明秦府王孫不羈云、「用草繩匝掌煮、之則易熟。』と出る。この「用草繩匝韋煮、之則易熟。」とは「草繩匝韋を用ひて之れを煮れば、則ち、熟し易し。」で、恐らくは荒繩を以って充分に摺り回して(表皮を削り取って)煮れば、簡単に煮上がるの謂いと採る。単に煮豚のように荒繩で巻き固めて煮ただけでは、佐藤の言の証左にはならぬからである。]

 熊胆の方は何人も耳に熟している。幼時腹を痛む度に必ず飲まされたのがクマノイであった。名前は熊だけれども、実際は何の胆かわからず、あるいは何の胆でもない百草根の類だったかも知れぬ。今でもおぼえているのは口一杯に広がる苦みと、熊の毛を髣髴する黒い色とである。あの薬の袋にはたしか熊の画がついていた。もしあんな苦い薬でなしに、もっと子供に親しいものであったら、熊に対するなつかしみを加える役に立っていたであろう。永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)の説によると、豕(いのこ)の胆は熊胆に劣らぬ功があるといい、熊胆の真偽は容易に弁別出来ぬということであるが、正木直彦(まさきなおひこ)氏の『回顧七十年』の中には、木曾街道で正真の熊胆と称するものを売付けられ、同時にその一味らしい追剝(おいはぎ)に持物を奪われた話が出て来る。熊胆の鑑別は素人には困難であるにせよ、

 

 熊の胆と瓢簞(へうたん)釣(つり)て榾火(ほたび)かな 魯哉

 

は紛れもない熊胆で、それが瓢簞と共に榾火に煤(すす)けているところ、雪に鎖された北国情趣の頗(すこぶ)る顕著なものがある。

[やぶちゃん注:信頼出来る漢方サイトの記載によれば、熊の胆(い)の詐称品としては猪(本文の「豕」。但し、本文でも述べている通り、偽物の中ではまだいい方(効果がある)らしい)の胆嚢であったり、粗悪品の殆どは牛や豚の胆汁に植物の竜胆(リュウタン:リンドウ目リンドウ目リンドウ科リンドウ属トウリンドウ変種リンドウ Gentiana scabra var. buergeri の根茎を乾燥させた生薬)・黄連(オウレン:キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の根茎を乾燥させた生薬)。黄檗(オウバク:ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮を乾燥させた生薬)などのエキスを混和「永富独嘯庵」(享保一七(一七三二)年~明和三(一七六六)年)は江戸中期の医師。ウィキの「永富独嘯庵」によれば、『古方派の医師であるが、古方派に欠けるところは』、『西洋医学などで補うことを主張した』という。『長門国豊浦郡宇部村(山口県下関市長府町王司)に生まれ』、十三『歳で医師、永富友庵の養子とな』り、十四『歳で江戸に出』、『医学の修業を始め』た『が、医学にあきたらず』、『山県周南のもとで儒学を学んだ』。十七『歳で帰郷して儒学を講じて』過ごした『が、京都の古方派の山脇東洋や香川修庵の存在を知り、京都に赴き』、『東洋の門人となった。以後、医学に熱意をもって取り組み、その才能は広く知られるようになった。諸侯から多くの招聘の声がかかるが、東洋は任官を勧めなかった』という。二十一『歳の時、東洋に命じられ』、『越前の奥村良筑のもとに赴き、「吐方」(嘔吐させて治療する方法)を学んだ』。二十九『歳の時、病をため、家を離れ』、『諸国を漫遊した。長崎ではオランダ医学を吉雄耕牛に学んだ』。この旅行中の見聞を「漫遊雑記」として著したが、それ『を華岡青洲が読み、乳がん手術を行う契機になったとされる』。三十歳になって、『大阪で開業し、多くの門人を育て』たが、五年後、三十五の若さで『病没した』。著書には他に「吐方考」「囊語」などがある。彼の言葉に、「病を診すること、年ごとに多きに、技、爲すこと、年ごとに拙し。益々知る、理を究ることは易く、事に應ずることは難きことを。」があるとある。夭折が惜しまれる人物である。

「正木直彦」(文久二(一八六二)年~昭和一五(一九四〇)年)は美術行政家。ウィキの「正木直彦」によれば、『東京帝国大学法科大学法律科卒』、『文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を』明治三四(一九〇一)年から昭和七(一九三二)年までの実に三十一年の長き『にわたって務めた』人物である。

「回顧七十年」昭和一二(一九三七)年学校美術協会出版部刊。所持しないので、原典を示せない。]

 

 初雪に熊の出(いで)たる海邊かな   不玉

 

 この句には「出羽國さかた、おなじつるが岡の便に」という前書がついている。不玉といふのは『奥の細道』に「小舟に乘て酒田のみなとに下る、淵庵不玉と云醫師の許を宿とす」とあるその人で、この前書は作者のつけたものでなしに、出羽方面の便にこういう句があったという編者の断り書らしく思われる。東北の人の作だけあって、何らか実感に似たものが窺われるが、いわゆる眼前写生の句ではない。初雪の降り積った海辺に熊が出て来たという事実を、そのまま句にしたものであろう。海辺まで熊が出るのは、やはり食糧問題に苦しんだ結果かと想像する。

[やぶちゃん注:「淵庵不玉」(?~元禄一〇(一六九八)年)は酒田(現在の山形県酒田市)の医師伊東玄順。俳号が「不玉」で、「淵庵」は医号。。芭蕉は「奥の細道」の旅の途中、酒田で会って彼の邸宅に滞在し(象潟行きの三日間を除く前後九泊)、曾良を加えての三吟歌仙を残している。この時、芭蕉に昵懇して蕉門に入り、酒田俳諧を盛り上げた人物とされるが、現在、酒田市中町一丁目に不玉宅跡が残る以外、事蹟はあまり知られていないようである。詳細は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 52 酒田 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ』を見られたい。

「つるが岡」同じ山形県の日本海沿岸(庄内地方)南部に位置する現在の鶴岡(つるおか)市のことか。]

 猛獣が俳諧的材料として適当なものでないことは已に述べた。熊もその斑に列する以上、活動の舞台が猿や狐より狭いのは覚悟しなければならぬ。熊そのものが俳諧に適せぬというよりも、人間と熊との間が俳諧的交渉を生ずるには距離があり過ぎる、ということになるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「斑に列する」意味不明。正直言うと、これは「班に列する」の宵曲の誤りではなかろうか? 「班」ならば「仲間」の意で、腑に落ちるからである。]

 明治になつて子規居士は熊の句の上に多少の新材料を用いた。

 

 金時も熊も來てのむ淸水かな   子規

 

という句は居士としても初期の作であるが、足柄山の金太郎を捉え来った点に特色がある。

この童話的な熊は、江戸時代の句には遂に用いられなかったようである。こういう和気藹々(わきあいあい)たる熊は、金時のワキ以外に存在しそうにも思われぬ。

[やぶちゃん注:「寒山落木卷一」の明治二五(一八九二)年の「夏 天文 地理」の「松山」に載る。子規二十五歳。]

 

 しぐるゝや熊の手のひら煮(にゆ)る音 子規

 檻(をり)古(ふ)りぬ熊の眼のすさましく

                    同

 

[やぶちゃん注:前者は「寒山落木卷二」の明治二十六年冬に載り、後者は「寒山落木卷三」の明治二十七年の秋に載る。「すさましく」が季語で晩秋であるが、どうも季語として働いていると読むと、私は寧ろ、句の勢いが甚だしく減衰するように思う。因みに、私は無季語俳句を絶対的に支持する人種である。]

 熊蹯の句は珍しいけれども、恐らく実況ではあるまい。「檻古りぬ」は動物園裏の熊を描いた点で、前代の句と区別することが出来る。

 

 五六人熊担ひ來る雪の森        子規

 

 これは北海道風景を想像したものであろう。明治二十九年の『寒山落木』にこれと並んで「丈(たけ)低き夷(ゑびす)の家や雪の原」という句が記されているのを併せ考うべきものである。南海に生れ、東京に住した居士は、海を越えて遼東(りょうとう)まで蹈出したが、北海道には足迹(そくせき)を印するに及ばなかった。「足たゝば蝦夷(えぞ)の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを」と詠じたりもしているから、時に白皚々(はくがいがい)たる北海の曠野(あらの)に想を馳せ、アイヌの熊狩の様などを脳裏に画いていたのかも知れない。「五六人」の句は想像を化して眼前の実景の如く叙したのである。

[やぶちゃん注:「明治二十九年」一八九六年。本段落をよりよく理解するために、この前後の正岡子規の事蹟を、ここで簡単に述べておく。正岡子規(慶応三(一八六七)年~明治三五(一九〇二)年九月十九日:本名・常規(つねのり))は明治二三(一八九〇)年に東京帝国大学哲学科に進学したものの、翌年、国文科に転科し、この頃から句作を開始している。大学中退後、明治二五(一八九二)年に新聞『日本』の記者となり、翌明治二十六年には「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」の連載を開始するとともに、本格的な俳句革新運動に着手した。明治二七(一八九四)年の夏に日清戦争が勃発すると、翌明治二十八年四月、近衛師団附従軍記者として遼東半島に渡ったが、上陸した二日後に下関条約が調印されたため、同年五月、第二軍兵站部軍医部長であった森林太郎(鷗外)らに挨拶をし、帰国の途についた。しかし、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院、同年七月、須磨保養院で療養した後、松山に帰郷している。明治三〇(一八九七)年、俳句雑誌『ほとゝぎす』(後の『ホトトギス』)を創刊している。以上はウィキの「正岡子規」に拠った。

「足たゝば蝦夷(えぞ)の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを」明治三一(一八九八)年の「足たたば」の歌群の中の一首。

「白皚々(はくがいがい)」雪や霜などが一面に白く明るく積もっているさま。]

 

 熊賣つて乾鮭(ほしざけ)買ふて歸りけり 子規

 草枯(くさがれ)や狼(おほかみ)の糞熊の糞

                     同

 冬枯や熊祭る子の蝦夷錦(えぞにしき)  同

 

 これらの句もまた北海道生活の想像的産物であろうか。熊を売るという特別な事柄の裏としては、乾鮭を買うのは平凡過ぎるようでもあるが、そこは想像的作品のやむをえざる所であろう。価高きものは他に売り、価低きものを買って暮す小さな生活者の様子も窺われる。居士は先ず熊蹯よりはじめてそれを売るところ、草原に見る熊の糞、熊祭をする子の蝦夷錦まで句中のものにしたが、想像は竟(つい)に実感でない。熊の句の世界は広くなっても、句から受ける感銘はむしろ稀薄な憾(うらみ)がある。

[やぶちゃん注:「熊賣つて」の句は明治三〇(一八九七)年の俳句稿。

「草枯や」明治三十一年の句。

「冬枯や」同じく明治三十一年の句。次の「江戸櫻」も同年。]

 

  無事庵より熊の肉を送り來る

 江戸櫻越後の熊を肴かな         子規

 

 熊の肉はこに至り俳諧の俎上に上ることになった。居士はこの珍味に関して他に何も記しておらぬから、果して熊蹯であったかどうかわからぬが、御馳走主義の居士をよろこばせたことは想像に難くない。無事庵は今成氏、越後六日町の人で、居士と同じ病を抱いていた。われわれは変化に富んだ北海道の諸句よりも、一見平凡なるこの越後の熊の肉を尊重する。居士の句の本色は、彼になくして此に存するからである。

[やぶちゃん注:「今成」「無事按」子規と交流のあった新潟県南魚沼郡六日町の今成文平。]

 熊祭の句は明治以前には見当らぬようであるが、連句の中にはこれを捉えたものがある。

 

  義經(きくるみ)王は大祭なり   太祇

 果果はしてやる熊を乳に育テ     嘯山

  鬢付油(びんつけあぶら)なくてあらなん

                   同

 

 太祇の作中に蝦夷文学が顔を出すのは意外であった。嘯山は前にも熊の句があり、ここでまた熊祭を持出している。何か熊に因縁のある人だったか、書物か人の話かで得た知識を応用したまでか、俳諧に現れた熊として注目に値することはいうまでもあるまい。

 前に北枝の「あら熊」の句について示教を得た野鳥氏の書簡によると、越後、岩代(いわしろ)の国境に近い山村の者は、ブナの実が沢山地上に落ちているのを見て「今年は熊が捕れるぞ」というそうである。野鳥氏なども幼時火燵の上で、炒ったブナの実の薄皮を南京豆のようにはじきながら、年寄たちからこういう話を聞かされたという。ブナの実は余り食べると頭痛がするほど、油の多いものだと書いてあった。これを読んだらいまだ見ぬ雪国の冬が直(じか)に眉宇(びう)に迫るような感じがした。芭蕉は東海道の一筋も知らぬ人風雅におぼつかなしと喝破したが、雪国の冬を知らぬ者は熊を談ずるに足らぬのかもわからない。

[やぶちゃん注:「義經(きくるみ)王は大祭なり」この付句、意味がよく判らぬので調べて見たところが、義経の生存説に関わるもので、彼が衣川で死なず、蝦夷へと渡って、アイヌ民族によって「キクルミ神」として祀られたという伝承があるらしいことが判った。東北大学附属図書館会議室で行われた展観目録第66号「源義経」に関する図書展目録を参照されたい。にしても、私は正直、この連句の意味はまるで判らぬことを告解しておく。何方か、私に解るように、御説明戴ければ幸いである。

「越後、岩代(いわしろ)」不詳。識者の御教授を乞う。

「ブナの実は余り食べると頭痛がするほど、油の多いものだ」タンニンが疑わられるが、ブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata にはタンニンが殆んどなく、特にヒトに対する頭痛を惹起するような毒性があるという記載は、ない。

「眉宇(びう)」「宇」は軒 (のき)、眉(まゆ)を「目の軒」に見立てて言った語。眼前。

「芭蕉は東海道の一筋も知らぬ人風雅におぼつかなし」服部土芳の「三册子」(さんぞうし:元禄一五(一七〇二)年頃成立、安永五(一七七六)年刊)の「白册子」の一節。「旅、東海道の一筋もしらぬ人、俳諧に覺束なしとも云へりと有」で、これは森川許六(きょりく)の「韻塞(いんふたぎ)」(元禄十五年)に拠るか。]

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