老媼茶話巻之七 牛裂
牛裂
北方(きたかた)に彦惣といふものあり。大惡無道の者也。ばくち・大酒・盜(ぬすみ)を産業(なりはひ)として月日をおくる。
同所の玉法寺といふ淨土宗の坊主を殺し、金銀・衣服・什物(じふもつ)を盜取(ぬすみとり)、寺に火を付(つけ)、燒(やき)たり。
彦惣、兩親妻子、有(あり)。
父、此事をほのかにきゝて、彦惣をよび、大きにいましめ、段々の惡逆をゆび折(をり)かぞへ立て、いゝ聞(きか)せ、
「己れ、此以後、かゝる大惡無道を止間敷(やむまじき)ならば、我(われ)、直(ぢき)に其筋の御役所へ罷出(まかりいで)、汝を極刑におこなふべし。其時、恨むべからず。」
といかりければ、彦惣、物もいわず、飛(とび)かゝり、七拾餘の父がもとゞりをつかみて、うつぶしに引伏(ひきふ)せ、傍に有りける山刀を以て父が天窓(あたま)を切割(きりわり)、うち殺しける。
近隣へは頓死と僞り、その夜、葬禮、過(すぐ)しける。
彦惣が舅(せうと)は、善六と云(いひ)て、酒屋にて、内證(ないしやう)、ゆたかにくらしける。彦惣、善六に度々合力(かふりやく)をたのみけるまゝ、もだしがたく、弐度に金子弐百兩見續(みつぎ)けれども、不殘(のこらず)、博奕(ばくち)に打込(うちこみ)、赤裸になりたり。
依之(これによつて)、舅の善六も彦惣を見かぎり、不通同前になり、出入なし。
彦惣、是をふかくいきどをり、善六子の善八といふもの、越後新潟へ商ひにゆく折、道にまち受(うけ)、善八を切殺(きりころ)し、金子をうばひとりたり。
此事、天知る地知るにて、皆人(みなひと)、知りければ、舅善六方へもくわしく聞(きこ)へけり。
善六、此よしを聞(きき)、大きに驚き、娘かたへもひそかに、
「かく。」
と告(つげ)、
「彦惣方を夜逃(よにげ)にして、子どもつれ立(だち)、歸るべし。彦惣、惡逆、其筋へ訴へ出(いづ)る。」
由、文(ふみ)して申遣(まうしつかは)しけるに、彦惣女房は、夫と違ひ、しうとに至孝(シイカウ)成る者なりしかば、彦惣母、六拾に餘り、立居(たちゐ)不自由成ル老(おい)の身を、日頃、彦惣、邪見ほういつに當りける。
母は子の不孝なるをかなしみ、
「身を渕河へ沈めん。」
と、泣(なき)もだへけるを、女ぼう、色々といたはり慰(なぐさめ)、彦惣が、きげんよき折節、樣々泣(なき)くどき、母に不孝、改(あらたむ)べきよし、いけんをいへ共、彦惣、且て用ひざりければ、
「里へ逃歸(んげかへ)るべき。」
と思ひ定(さだめ)けれども、姑にふかく名殘りをおしみ、今日迄も有(あり)けるが、文をみて、
「彌(いよいよ)親もとへ立歸るべき。」
と究(きは)めけれ共、
「我(われ)、此所(ここ)にあらずんば、必(かならず)、母をも父を殺したるごとくに殺害すべし。とやせん、かくやあらまじ。」
と、終夜、獨り淚に沈(しづみ)けるが、猶も、姑に名殘(なごり)をすて兼(かね)、壱日二日とおくりけるうちに、善六がおこせし文を、彦惣、女房の手箱より見出し、大きにはらを立(たて)、其(その)夕(よ)さり、女房と弐人の子を、〆殺(しめころ)しける。
子とも壱人は女にて拾壱、壱人は男にて七ツに成(なり)ける。
彦惣が母、是を見て、
「己(おのれ)には天魔の入替(いれかは)りたるか。」
と、彦惣に取付(とりつき)けるを、
「老ぼれめ、何をするぞ。」
とて、右の足を以(もつて)母の橫腹をしたゝかに、けたりければ、いとゞさへ、風一吹(ひとふき)の老(おい)の身なり、あばら骨、二、三枚、おれければ、則(すなはち)、息絶(きたえ)、空敷(むなしく)成る。
近所の者共、寄集(よりあつま)り、
「前代未聞の大惡人、このものを取逃しなば、御公儀樣より我等に御祟(たた)り可被成(なさるべし)。」
と、大勢にて彦惣を取(とり)こみければ、彦惣、死に狂ひに脇差を拔(ぬき)、散々、切(きり)ちらしけるを、たゝきふせ、嚴敷(きびしく)いましめ、御代官元へ行(ゆき)ける。
此折も、五、六人、手を負(おひ)ける。
彦惣、強く拷問に懸り、前々の惡事、悉くあらわれ、湯河原にて牛裂におこなはれける。
けんぶつの諸人、不便(ふびん)といふ者なく、にくまぬものは、なかりける。
[やぶちゃん注:「牛裂」戦国から江戸初期にかけて行われた死刑法の一つ。ウィキの「牛裂き」によれば、『罪人の両手、両足と』、二頭又は四頭の『ウシの角とを縄でつないだのち、ウシに負わせた柴に火を点け、暴れるウシを』二『方または』四『方に走らせて罪人の身体を引き裂き、死に至らしめる処刑法である』。『美濃の斎藤政利、会津の蒲生秀行などが領内の罪人にこの刑を科した』。『「倭訓栞」に、「堺にて切支丹の咎人を刑せしに一人此刑にあふ云々」とある。家康公御遺訓百箇条第二十一条に、「牛裂、釜煎等の厳刑は将軍家之不及行処也」とある』また「加賀藩刑事記録索引」によれば元和八(一六二二)年、『持筒足軽が「衆道(男色)ノ事ニテ」牛裂きに処された』とあるという(下線太字やぶちゃん)。
「北方(きたかた)」敢えてかく編者が底本でルビを振るということは、ここまで多くのロケーションが東北である以上、現在の福島県会津地方の北部に位置する喜多方市と考えてよいか。しかし、だとすると、しかし処刑されたという「湯河原」が判らぬ。しかしだ! これって! 「湯川河原」の脱字か「湯川原」だったら、どうよ?! それなら散々、「老媼茶話巻之三 藥師堂の人魂」で考証した処刑場と一致するんでないかい?! それで、キマりだ!!!
「彦惣」「ひこさう(ひこそう)」と読んでおく。
「玉法寺」不詳。
「内證(ないしやう)」暮らし向き。経済状況。
「弐度に」二度に亙って。
「金子弐百兩」二度、合わせて、であろう。
「見續(みつぎ)けれども」「貢けれども」。
「不通同前」音信不通同様。
「至孝(シイカウ)」原典ルビはママ。
「とやせん、かくやあらまじ」「どうしましょう……幾らなんでも、(母を殺すという)そこまで非道なことをなすことはないかしら……」。
「おこせし文」「遣(おこ)せし・「致(おこ)せし」で、「先方からこちらへ送って寄越した手紙」。
「夕(よ)さり」夜。]