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2017/12/14

譚海 卷之二 江戸非人・穢多公事に及たる事

 

江戸非人・穢多公事に及(および)たる事

○同年夏品川溜非人がしら松右衞門缺落(かけおち)せし事有。是は享保年中より、非人のものは穢多(ゑた)團左衞門支配に仰付られ、博奕(ばくち)に耽る非人は、團左衞門より高利の金子をかり、返濟に迷惑し、缺落(かけおち)せしもの多く、その催促、左衞門より非人小屋頭の者をはたり、返濟延引に及(およぶ)ものをば、團左衞門處へ呼(よび)よせ、牢の如きものに入置(おれおき)、はたる事に成(なり)しゆへ、小屋頭も、たまらず、缺落致し、そのさいそく、又、團左衞門より松右衞門へきびしく申(まうし)かけ、松右衞門も、たまらず、缺落せし也。淺草溜(あくさため)のかしら善七事、數年、團左衞門が無道を惡(にく)みをり、因(よつ)て萬事(ばんじ)、貴(じつ)かたに勤め、安永元年の春、淺草溜燒失の節も、御普請金、上(かみ)より出され候外(ほか)、善七、私(わたくし)の物入(ものいれ)を致し、萬事、嚴重に再興いたし、御褒美等、被ㇾ下(くだされ)、御稱美の上、善七、願(ねがひ)を申上(まうしあげ)、團左衞門無法の致(いたし)方について、支配の非人、年々、難澁、離散致し、御用も勤(つとま)りかね候次第を申上、御吟味に相成(あひなり)、團左衞門事は金子の義、承知不ㇾ申(まうさざる)分に申上、團左衞門支配の手代數人、不屆に相成、入牢被伸仰付(おほせつけられ)、右御裁許、相濟(あひすむ)迄、團左衞門を善七に御預(おあづけ)に相成候。右に付(つき)、古來は、非人ゑたの支配に無ㇾ之(これなき)候間、穢多支配御免被ㇾ下(くだされ)候樣に願上(ねがひあげ)、善七、由緒書(ゆいしよがき)等(とう)、指上(さしあげ)候。右由緒には、善七先租は、本國常陸佐竹義宣家臣車丹波守と申(まうす)事、申立候也。

 

[やぶちゃん注:「同年夏」前条を受けるが、その前条がまた、その前の伊豆大島三原山の安永の大噴火を受けるので、安永六(一七七七)年夏である。

「非人頭松右衛門」現在の南品川三丁目附近が品川宿北宿の外れとなるが、江戸時代、ここにある真言宗海照山品川寺(ほんせんじ)の脇には松右衛門を名乗る非人頭の役所(屋敷)と「品川溜(ため)」(「「溜(ため)」は重病や幼少の犯罪人を平癒若しくは成長するまで収容した施設。非人頭の配下の者はそこでそうした収容者たちの面倒をここで見た)があり、彼は江戸の北の一方の雄「浅草溜り」の非人頭で、ここに出る車善七と江戸を二分する被差別民の統率者であった。hakyubun氏の「旧聞アトランダム」の「江戸六地蔵 (2)―6 品川寺 品川松右衛門と投込み寺」によれば、彼ら非人頭の配下の仕事は溜めの『御用役であり、また浅草弾左衛門』(ここの出る「團左衞門」と同一人物)『配下の長吏の采配で鈴ヶ森刑場の管理、罪人仕置き手伝い、あるいは江戸流入の潰れ百姓(野非人)の刈込みや追い返し、盗人やキリシタン、捨て子などの見張りなど、司法に拘わる』最下級役人としての仕事をこなしていた。

「缺落(かけおち)」貧困や悪事などのために居住地を離れ、行方をくらますこと。

「享保年中」一七一六年から一七三六年。

「非人」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の「非人」の注を参照されたい。

「穢多」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の「穢多」の注を参照されたい。

「團左衞門」江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領、穢多頭(えたがしら)。「彈左衞門」の表記の方が一般的。ウィキの「弾左衛門」にから引く。『江戸幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した』。『また、浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた』。『戦国時代において、関東の被差別民の有力者は小田原近在の山王原の太郎左衛門であり』。『弾左衛門は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者に過ぎなかった(ただし、太郎左衛門家の権力も、それほど強いものではなかったとされる)。ところが』、天正一八(一五九〇)年『に後北条氏が滅亡し、代わって徳川家康が関東の支配者とな』ると、『小田原太郎左衛門は後北条氏より出された証文を根拠に』、『引き続き』、『被差別民の支配権を主張したが、家康は証文を没収し、代わって弾左衛門に与えたという』。『弾左衛門は、非人、芸能民、一部の職人、遊女屋などを支配するとされていた(「弾左衛門由緒書」偽書)。このうち職人などは早い時期に支配を脱した』。宝永五(一七〇八)年『に京都の傀儡師・小林新助が、弾左衛門が興行を妨害した件で江戸町奉行に訴え』、『これに勝訴したため、傀儡師・歌舞伎も弾左衛門の支配を脱したと受け取られた。特に』正徳三(一七一三)年『初演の歌舞伎十八番の一つ』「助六」は、二代目市川團十郎が『弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したもので、悪役の髭の意休は』、宝永六(一七〇九)年に『死去した弾左衛門集誓をモデルにしたといわれている(特に初期の公演では、意休が被差別部落の人間であることがはっきり分かる描写があったという)。これに刺激を受け、非人頭の車善七が訴え出たが、弾左衛門が勝訴した』(享保七(一七二二)年)。『非人は下層芸能民である猿飼(猿回し)・乞胸と並び、幕末まで弾左衛門の支配下に置かれるにいたった(ただし、一部の猿回し・芝居・能師・三河万才は、安倍晴明の子孫であり』、『陰陽道宗家となっていた土御門家の管理下に置かれていた)』。『身分的には被差別階層であったが、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工などの製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇った。皮革産業は武具製造には欠かせない軍需産業であり、当時の為政者から差別を受けつつ保護される存在であった。弾左衛門の地位は世襲とされ、幕府から様々な特権を与えられ、その生活は豊かであった。巷間旗本や大名と比較され、格式』一『万石、財力』五『万石などと伝えられた。また一般の庶民と同様、矢野という名はあくまで私称であり、公文書に使用されることはなかった』。「弾左衛門由緒書」等に『依れば、秦から帰化した秦氏(波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔して長吏の頭領におさまり』、治承四(一一八〇)年、『鎌倉長吏頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て』、『中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張するためのものとみられている。しかし、江戸幕府がこの主張を認めたのは、太郎左衛門より弾左衛門を支配者にした方が都合が良く、その点で両者の利害が一致したからではないかといわれている』。『弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に位置し、現在の東京都立浅草高等学校の運動場あたり(東京都台東区今戸』内『)である。屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であったが、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていた。屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち』三百から四百人もの『役人家族が暮らす住宅もあった。弾左衛門は支配地内の配下は勿論のこと、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。関東大震災と東京大空襲の被害を受けたこともあり、弾左衛門にかかわる遺構はほとんど残っていない。部落の神社も近くの神社に合祀され、その痕跡もない』。『幕末に活躍した第』十三『代弾左衛門は、長州征伐や鳥羽・伏見の戦いで幕府に協力した功労によって』、慶応四年一月(一八六八年)に配下六十五名と『ともに被差別民から平民に取立てられた。明治維新後に弾直樹(内記)と改名し、近代皮革・洋靴産業の育成に携わったあと』、明治二二(一八八九)年に死去した、とある。また、底本の竹内氏の注に、『江戸のエタ支配頭団左衛門が、非人支配を一時かねた時の話で、非道をとがめられて、罰せられた。しかし車前七はエタ支配を返上したというのである』ともある。「火方御役儀祝儀に三芝居の座中參入の事」で私が示した注を再度、引いておくと、当該条の底本注には、『近世ではエタ非人などの賤民は特別に頭目を設けて自治的支配をさせた。浅草の車善七と品川の松右衛門は江戸の非人頭であった。町人百姓外なので、芝居役者も一応はその支配下に入ったのである』とある(「乞兒」は「乞食」と同義で「子」の意ではない)。部落解放同盟東京都連合会公式サイト内の「非人」によれば、非人の長吏頭であった弾左衛門(言葉上の誤解を生む嫌いがあるので注しておくと彼は、穢多・非人集団内の長であり支配者だったのであって、差別支配をしていた武士階級の側の上位支配者ではない)の支配下にあった四人(一時期は五人)の有力な非人頭の中でも、ここに出てくる車善七は特に有力で、享保四(一七一九)年以降になると、弾左衛門や各地の長吏頭の支配から独立しようと幕府に訴えを繰り返したが、しかし弾左衛門を超える経済力・政治力(江戸中期まで弾左衛門は歌舞伎を興行面でも支配していた)を持っていなかった彼ら非人たちは、結局、最後まで弾左衛門の支配下に置かれ続けた、とある。なお、同サイト内には車善七のルーツを武家とする自筆の上申書『「浅草非人頭車千代松由緒書」(天保一〇(一八三七)年)』が載る(千代松は車善七の幼名)必読である。そこには、また『非人頭として車善七につぐ勢力を持っていた品川非人頭松右衛門も、その元祖は三河出身の浪人三河長九郎であるという家伝を伝えてい』るともある(下線太字やぶちゃん)。「弾左衛門を超える経済力・政治力」というのは、江戸中期まで弾左衛門が歌舞伎を興行面でも支配していたことを指す。但し、同サイトの「歌舞伎と部落差別の関係」には、『歌舞伎は大衆芸能として大きな人気を誇り、大奥や大名にまでファン層を拡大』すると、『歌舞伎関係者は、こうした自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざし』、宝永五(一七〇八)年に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、遂に「独立」を果たしたものの、『しかし、歌舞伎役者は行政的には依然』、『差別的に扱われ』、『彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受け』、『歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことで』あった、とある。因みに、「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞録であるが、そうした昨日までの弾左衛門の旧支配構造の記憶は江戸のある階級以下の人々にとっては、未だに隠然たる力を持つものであったに違いないことは想像に難くない。

「はたり」「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。

「實かたに」堅実に。

「安永元年の春」「燒失」これは恐らく、明和九年二月二十九日(グレゴリオ暦一七七二年四月一日)に発生した「明和の大火」の類焼であろう。同年は十一月十六日(一七七二年十二月十日) 改元して安永となった。

「私(わたくし)の物入(ものいれ)を致し」私財を投入致し。

「御褒美等、被ㇾ下(くだされ)、御稱美」第十代将軍徳川家治から。

「佐竹義宣」(よしのぶ 元亀元(一五七〇)年~寛永一〇(一六三三)年))は戦国から江戸前期の武将で出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主。佐竹義重の長男で、母は伊達晴宗の娘(伊達政宗は母方の従兄)。北条氏政や伊達政宗と戦い、常陸の南方(みなみかた)三十三館(国人領主三十三氏)を謀殺、江戸重通(しげみち)から水戸城を奪って居城とし、五十四万石余の大名となった。しかし、石田三成派であった義宣は、「関ヶ原の戦い」で徳川家康からその曖昧な態度を憎まれ、慶長七(一六〇二)年に出羽二十万石に転封させられた。久保田城を居城とし、土豪勢力を排除して藩体制を確立した。石田三成がかつて福島正則らに殺害されようとした際には救助するなど、律義な性格の持ち主であったという。

「車丹波守」戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で佐竹氏家臣の車斯忠(くるま つなただ ?~慶長七(一六〇二)年)。常陸国車城主で、「車丹波」の名で知られた。ウィキの「車斯忠によれば、文明一七(一四八五)年に『岩城常隆が車城を攻め、岩崎二階堂氏系の車氏』『の一族である砥上某を滅ぼした』。『常隆は弟・隆景(好間三郎)を車城に配し、佐竹氏領侵攻のための拠点とした。この隆景が車氏(岩城氏系車氏)を名乗り、斯忠は隆景の曾孫にあたる』。『常陸車城主・車兵部大輔義秀の子として誕生。佐竹北家』四『代当主・佐竹義斯から偏諱を受けたと思われる』。『父・義秀は岩城氏の対佐竹氏最前線として抗していたが、後に佐竹氏に降り、斯忠は半ば人質同然として佐竹義重に仕える。義重に重用され』、『次第に側近として力を持つようになったと思われる』。元亀二(一五七一)年七月、『同じく側近として佐竹氏を支えていた和田昭為が白河結城氏の下に逃亡』『して以降は智謀を武器に』、『多くの外交工作を行った。また武勇にも優れていたが、反面』、『民政面では不手際が多く、そのことで城主の任を解かれ、一時』、『追放されたこともあったと伝わる。そのため』、『岩城氏に属して伊達氏との戦に在陣していた記録も残っている』。慶長五(一六〇〇)年の『徳川家康の会津征伐を前にして佐竹氏を離れて、上杉景勝の下で陸奥国福島城・梁川城に在番しているが、これは名目上中立の立場をとる佐竹氏が上杉氏に助力するために、反徳川の急先鋒であった斯忠を送り込んだものとも言われている。同年の関ヶ原の戦いの後に佐竹氏に復帰するが、戦後仕置きにおいて常陸水戸』五十四『万石から出羽国秋田』十八『万石への移封に反発』、『徹底抗戦を唱え、妹婿の大窪久光や馬場政直らと水戸城奪還を企てるものの』、失敗し、『捕らえられ』、『磔刑に処せられた』とある。『咳をしたため』、『発見され』、『捕らえられたと伝わっており、そのためか』、『捕らえられた場所(車塚)で「咳の神様」を祭っている。幕末時代に吉田松陰が水戸に訪れた時、車塚に通りかかり、この話に深く感動したという。また、近くには吉田城跡があり、佐竹氏時代の車丹波守の居館と推定される』。『なお、嫡男(弟とも)の善七郎は、江戸浅草の非人頭「車善七」の初代であるという説がある』と、最後にしっかりと記されてあった。]

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