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2017/12/05

老媼茶話巻之六 飯綱(イヅナ)の法

 

     飯綱(イヅナ)の法

 狐は、疑(うたがひ)多き、けだ物なり。能(よく)化(ばけ)て、人をまどわす。人、常に知る處也。聲、患(ウリヤウ)る時は、兒(チゴ)の鳴(なく)がごとく、聲、よろこぶ時は、壺を打(うつ)がごとし。白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老たり 化して女と成(なり)顏色よし」「見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)。

 近世、本邦(ホンポウ)に狐を仕(つか)ふ者、有。呼(よび)て飯綱(イヅナ)の法といへり。其法、先(まづ)精進けつさいにして身を淸め、獨り、野山に遊び、狐の穴居をもとめ、孕狐(はらみぎつね)を尋(たづぬ)。此狐を拜して曰、

「汝が今孕む所の狐、産(うまる)れば、我子とせん。必(かならず)、我に得させよ。」

と。

 それより、日夜にしのんで、食事をはこびて、母狐、子を産(うむ)に及び、彌(いよいよ)勤(つとめ)て、是を養ふ。

 子、すでに長じて、母狐、子を携さへ、術者の元に來り、

「子に名を付(つけ)て、今日よりして、如影(かげのごとく)、隨身(みにしたがひ)、心の儘にせよ。」

と云(いふ)。

 術者、兒狐に名を付(つく)る。母狐、悦び、拜して、子をつれて、去る。

 是よりして後、術者、事あれば、潛然(ヒソカ)に狐の名を呼(よぶ)に、狐、形を隱し、來りて人の密事を告(つげ)、術者におしゆるまゝ、術者、狐のおしゑのまゝに妙を談ずる間(あひだ)、則(すなはち)、人、

「神(しん)に通ぜり。」

と思へり。

 若(もし)、狐を仕ふもの、少(すこし)にても色欲・とんよくにふける心有(ある)時は、此術、行ふ事、あたはず、狐も又、弐度來らず、と言へり。

 近所、奧州筋の國主に仕へける士に、能(よく)飯綱の法、修せる人、有。

 此人、江戸登り候折、小金井の宿に泊りける時、あるじ夫婦のもの、立出(たちいで)、申(まうし)けるは、

「我、壱人の娘、有。近きころ、妖狐の爲に惱まされ、半死半生の體(てい)に罷在(まかりあり)候。此娘,昨日の曉より、たわ言を申候。『明日何時、其國の、たれがしと申(まうす)士、此所に宿をかるべし。必(かならず)、宿をかすべからず。此侍、此宿に留(とどま)る時は、我、命、助(たすか)り難し。いかゞせん』と申(まうし)て身もだへ仕(つかまつり)、奧深く隱れ、ふるへ、わなゝき、罷在候。然るに、娘、申候に違いひなく、國所も御苗字も、ひとしき御士樣、御宿召(おんやどめされ)候まゝ、あまりふしぎにぞんじ、御供の衆に承(うけたまはり)候へば、かゝる怪敷(あやしき)病ひ、能(よく)御直しあそばし候由、承申(うけたまはりまうす)に付(つき)、恐入候得(おそれいりさふらえ)ども、老人二人が心底、哀み思召(おぼしめし)、娘が命、御助被下候得(おたすけくだされさふらえ)。」

と、手を合(あはせ)、地に伏(ふし)、淚を流し、賴みける間、かの士も不便(ふびん)に思ひ、

「其娘、爰(ここ)へつれ來(きた)れ。先(まづ)、對面し、樣子を見るべし。」

と云。

 夫婦の者、悦んで、

「出間數(いづまじ)。」

と、泣悲(なきかな)しむ娘を、無理に引立(ひきたて)、來(きた)る。

 其年、十弐、三斗(ばか)成(なる)きれい成(なる)娘なるが、汗を流し、わなゝいて、士の前に、ひれふし、居たり。

 士、娘をつくづくと見て、

「汝、奧州二本松、中山の三郎狐にては、なきか。何の恨(うらみ)ありて、いとけなき者に取付(とりつき)なやまし、くるしむる。己(ヲノレ)、速(スミヤカ)にさらずんば、只今、命をとるべし。早々に去れ。」

と、いへども、娘、答へず、二、三度に及んでも返事、せず、且て、ふくせるけしき、なし。

 侍、怒(いかり)て、拔打(ぬきうち)に娘を打落(うちおと)せり。

 あるじ夫婦の者、大きに動轉し、

「是は、いか成(なる)ことを、なし給ふぞ。」

と、あわてさわぐ。

 士の曰、

「驚(おどろく)事、なかれ。此(この)曉は、必(かならず)、其(その)正體を知るべし。」

とて、娘が死骸にふすまをかぶせ、屛風を以(もつて)、是を、かこふ。

 あるじ夫婦のものは、娘の死骸を守り、終夜、まどろまず。

 曉に成(なり)て是を見れば、年舊(としふ)りたる狐、弐に切られて、ふすまの下に死居(しにゐ)たり。

 夫婦、悦び、娘を尋みれば、奧深き處に、心よく眠居(ねむりゐ)たり。

 引起(ひきおこし)、よく見るに、何の恙(つつが)もなく、日を經て、元のごとく成りしと、いへり。

 近き頃、猪狩所右衞門(ゐがりしよゑもん)と云(いふ)人、能(よく)飯綱の法を行(おこなふ)。

 或時、友、相集(あひあつま)りて、酒、半醉(はんすゐ)に及びける折、所右衞門、あをのきて空を詠(なが)め、友をかへり見、語りけるは、

「昨夕の雨に、銀河(ギンガ)、水、增して、桂陽(ケイヨウ)の武丁(ブテイ)兄弟、浮木(うきき)に乘りて、すなどりを、なす。われも行(ゆき)て、天の川より、魚をすくふて歸り、おのおのを、もてなすべし。」

と云(いひ)て、笠をかぶり、網を提げ、はけごを腰に付(つけ)、わらんじをはいて、天へ、のぼる。

 暫(しばらく)有(あり)て、又、空より歸り來(きた)る姿、しとゞ濡(ぬれ)て、腰のはけどより、大魚、數多(あまた)取出(とりいだ)し、則(すなはち)、料理して、皆皆へ、ふるまひけり。

 是は其座に有(ある)人の、ものがたりなり。

 又、寛文拾年の夏、ある國へ、現世(ゲンセ)居士・未來(ミライ)居士といふ、幻術者、來(きた)り、樣々の不思義をなし、諸人をまよはす。

 其國主、是を聞召(きこしめし)、

「左樣の者、國にあれば、諸人、亂を發すの元也。」

とて召(めし)とられ、刑罪せらるゝ折、彼(かの)兩人の者ども申けるは、

「我等、只今、最期に及(および)候。仕殘したる術一候。見物の各々へ見せ可申(まうすべし)。かく嚴敷(きびしき)警固の人々、鑓(やり)・長刀(なぎなた)にて取(とり)かこみおはしまし候得ば、外へのがるべき樣もなし。少し、繩を御ゆるし候得。」

と、いふ。

 警固の者ども、聞(きき)て、

「靑天白日なり。少し繩をゆるめたればとて、いづくへ行(ゆく)べき。」

とて、少し、なはをゆるめければ、未來居士、則(すなはち)、なはをぬけ、壹の鼠となり、はり付(つけ)柱の橫木あがり、うづくまり居たり。

 現世居士、鳶と成り、虛空に飛(とび)あがり、羽をかへし、空に舞ふ。暫く有(あり)て落懸(おちかか)り、彼(かの)鼠をさらひ、行方知らず成(なり)たり。

 警固のもの、大きに驚き、爰かしこ、尋(たづね)けれども、なわは、しばりし儘に殘り、身斗(ばかり)ぬけたり。

 其刑罪の場へ出(いで)し固(カタメ)の役人・足輕迄、いましめを蒙りたりと、いへり。

 かゝる怪敷(あやしき)者、ゆるがせにすべからず。必(かならず)、急に殺すべし。魔術を行ふ場へ牛馬鷄犬によらず、何(なんの)獸(けもの)の血にても、振(ふり)そゝぎ、或は糞水(くそみづ)をそゝぎ懸(かく)れば、妖術、忽(たちまち)、滅して、魔法幻術、かつて行はれず。また、鐵砲を打(うち)はなてば、其法、破(やぶ)ると、いへり。是、古人の祕法也。

 またいつの頃にや有けん、武州川越の御城主、秋元但馬守殿領分、三の丁と云處行脚の僧壱人來り、宿をかりけるに、あるじ、けんどん成る者にて、宿をかさゞりけり。

 僧、ひたすらに歎き、

「日はくるゝ、いたく草臥(くたびれ)、一足も引(ひか)れ不申(まうさず)。せめては軒の下なりと御かし候へ。夜、明(あか)ば、早々、出行可申(いでゆきまうすべし)。」

と云。

 主(アルジ)、是非なく、しふしぶ立て戸を開き、態(わざ)と灯をも立(たて)ず。

 坊主、内へ入(いり)、水を求(もとめ)、手足を洗ひ、たばこを呑(のみ)、休息し、

「灯は、なく候哉(や)。」

と、いふ。

「是、なし。」

と、いふ。

 其時、坊主、左の手をいろりの内へ差入(さしいれ)、五のゆびを火にもやし、灯となし、目を張(はり)、こぶしを握り、鼻の穴へ入るゝ事、ひぢまで也。

 其後、鼻をしかめ、口をあき、くさめをすれば、長(たけ)二、三寸斗(ばかり)の人形共、弐、三百、吐出(はきいだ)す。

 此(この)人形共、立上(たちあが)り、てん手(で)に鍬(くは)を以(もつて)座中をからすき、忽(たちまち)、苗代田(なはしろだ)の形をなし、水を引(ひき)、籾を蒔(まき)、靑田となし、穗に出(いで)てあからむを、人形共、鎌を取(とり)、大勢にて刈取(かりとり)、つきふるひ、數升の米と、なしたり。

 其後、坊主、人形共をかき集(あつめ)、大口をあき、一のみに飮納(のみをさめ)、

「鍋來(きた)れ、鍋來れ。」

と呼(よぶ)に、庭の片角の竃(かまど)にかけし鍋、おのれとおどりて、坊主が前に來りければ、坊主、ふたを取(とり)、米・水を鍋に入(いれ)、左右の足を踏(ふみ)のべ、いろりの緣(フチ)へ當て、傍(カタハラ)に有(あり)ける大なたを以て、膝、節より打碎(うちくだ)き、打碎き、薪(たきぎ)となし、火にくべて、程なく、飯を焚納(たきをさ)め、數升の米、不殘(のこらず)喰盡(くらひつく)し、水を一口、吞(のみ)、いろりに向ひ、吹出(ふきいだ)しけるに、忽(たちまち)、いろり、泥水と成り、蓮の葉浮び出(いで)て、蓮の花、一面に咲(さき)、數百の蛙(かはづ)、集り、かまびすしく泣(なき)さわぐ。

 あるじ、みて、大きに驚き、ひそかに表へ出(いで)て、若き者共を呼集(よびあつ)め、件(くだん)の事共を語りければ、聞(きく)者ども、

「夫(それ)は慥(たしか)に化物なるべし。取逃(とりにが)すな。」

と訇(ののし)り、てん手(で)に棒・まさかりを取持(とりもち)て、くつ強(きやう)の若男、十四、五人斗(ばかり)、家の内へ押入(おしいり)、見る。

 坊主、ゆたかに伏(ふし)て、いびきの音、高し。

「しすましたり。」

と、坊主が伏たる跡先を取(とり)かこみ、手足をとらへ、頭を強く押(おさ)へからめ、是をとらへんとするに、坊主、目を覺し、押へける手の下より、

「ふつ。」

と拔出(ぬけいで)る。

 是をみて、てん手に棒をふり上(あげ)、たゝき伏せんとするに、かげろふ・いなづまのごとく、飛𢌞(とびまは)り、手にたまらず、片原(かたはら)に有(あり)ける大きなる德利の内へ飛入(とびいり)たり。

「取逃(とりにが)すな。」

と訇(ののし)り、この德利をとり上(あげ)るに、おもくして、あがらず、德利、おのれと、こけまわる。

「さらば。打碎(うちくだけ)。」

と、棒・まさかりを振上(ふりあぐ)るに、德利の中より、黑煙(くろけぶ)り吹出(ふきいだ)し、德利の中、鳴(なき)はためき、終(つゐ)に二にわれたり。

 其ひゞき、大雷のごとし。

 十四、五人の者そも、氣を取失(とりうしな)ひ、爰かしこに、倒れ、ふす。

 このさわぎの内に、坊主は、いづかたへ行(ゆき)たりけん、跡形もなく、失(うせ)けり、となり。

 昔、松永彈正久秀、永祿の頃、多門の城にありし時、果心(クハシン)居士といふ魔術者、久秀をまどはしける事あり。果心も此類にや。 

 

[やぶちゃん注:「飯綱(イヅナ)の法」「飯綱」(いづな)は管狐(くだぎつね)のこと。ウィキの「管狐」によれば、『日本の伝承上における憑き物の一種』とされるもので、『長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキの勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」』「クダ屋」「クダ使い」「くだしょう」などと『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。なお、実在する食肉目最小種である哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ型亜目イタチ科イタチ属イイズナ(飯綱) Mustela nivalis(「コエゾイタチ」とも呼ばれる)が同名で実体原型モデルの一つではあるが、同種は本邦では北海道・青森県・岩手県・秋田県にしか分布しないので、寧ろ、イヌ型亜目イヌ科キツネ属 Vulpes をモデルとした広義の狐の妖怪(妖狐)の一種と採る方がよい。なお、所謂、「妖狐」の分類については、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (三)』の私の注を参照されたい。

「疑(うたがひ)多き」(民俗学的な意味で)妖しい魔性部分の多い。

「聲、患(ウリヤウ)る時は」何か思い通りにならなかったり、悲しかったり、或いは心身を病んでいる時には。

『白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老たり 化して女と成(なり)顏色よし」「見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)』白居易の詩「古冢狐(こちようこ(こちょうこ))」(「古塚の狐」の意)冒頭の二句(「古冢狐妖且老 化爲婦人顏色好」)と途中の一句(見者十人八九迷)。サイト「龍神楊貴妃伝」の『白居易の「任氏行」・「古冢狐」』で原詩と訓読文及び訳が読める。

「飯綱(イヅナ)の法」標題では実は底本は「イツナ」なのであるが、ここは表記通り、「イヅナ」と濁点がある。それで統一した。

「けつさい」「潔齋」。

「遊び」逍遙しつつ探索し。

「子に名を付(つけ)て」底本はこの文を地の文としているが、後と呼応しないので従えない。母狐の台詞とすべきである。

「とんよく」「貪欲」。

「小金井の宿」「奥州筋」とあるから、これは現在の栃木県下野市小金井にあった旧小金井宿である。日光街道及び奥州街道に設けられた下野国の宿場。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧州二本松」現在の福島県二本松市内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中山の三郎狐」この「中山」は同二本松市渋川中山か(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「ふくせる」「服せる」。命令に従う。

「ふすま」「衾」。体の上に掛ける寝具。木綿・麻などで縫い、長方形或いは衣服同様に袖や襟があるものもある。現在の「掛け布団」の原型。

「奧深き處」屋敷内の、であろう。

「猪狩所右衞門(ゐがりしよゑもん)」不詳。読みは幾つかの実名例から推定した。

「桂陽(ケイヨウ)の武丁(ブテイ)兄弟」室町中期の応永三〇(一四二三)年頃に成立した一条兼良著の有職故実書「公事根源(くじこんげん)」の七月七日の七夕を語った条に、

   *

おほよそ、今日は牽牛(ケンギウ)織女(シヨクジヨ)二つの星の相遭ふ夜なり。鳥鵲の天の川に來たりて、翅をのべ、橋となして、織女をわたすよし、「淮南子」と申す書に見えたり。又、「續齋諧記」に云ふ、桂陽城の武丁といひし人、仙道を得て、弟に語りて曰はく、『七月七日に、織女、河を渉る事あり』。弟、問ひて、『なにしに渡るぞ』といひければ、『織女、しばらく、牽牛に詣づ』と答へき。是れを「織女牽牛の嫁 (トツ) ぐ夜となり」と、世の人申し傳へたるなり。

   *

とある。「續齋諧記」は梁の呉均によって書かれた志怪小説集で、これは仙人になって天界へ行ったとされる兄弟である(以上は、サイト「オリガミオドットコム」のこちらのページ他を参考にした)。「桂陽」は湖南省郴州(とんしゅう)市桂陽県か(ここ(グーグル・マップ・データ))。仙人だから天の川で漁が出来るわけである。

「浮木(うきき)に乘りて」浮いた流木である。考えて見れば、天の川に舟があったのでは、牽牛織女伝説に都合が悪いと、思わず、私は膝を打ったものである。

「すなどり」「漁る」。

「はけご」「佩籠」。腰に着けて用いる竹や藁で編んだ籠。ここは魚籠(びく)である。

「わらんじ」「草鞋」。

「寛文拾年」一六七〇年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「現世(ゲンセ)居士・未來(ミライ)居士」不詳。トンデモない自称で、見るからに、妖しい。

「はり付柱」「磔柱」。

「急に殺すべし」「急に」は「つとに」「すぐに」などと当て読みしたい。

「牛馬鷄犬」総て音読みでよい。

「何(なんの)獸(けもの)」底本は『なにじゆう』とルビするが(底本のルビは現代仮名遣であるから正確には「なにじゅう」である)、従えなかった。

「糞水(くそみづ)」ここも底本は『ふんすい』だが、従えなかった。糞と尿(すばり)。この辺りの汚穢を以って幻術や魔術を破る方法は、民俗社会では汎世界的にかなりメジャーなものである。

「武州川越の御城主、秋元但馬守殿」武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した川越藩の藩主秋元家は初代の秋元喬知(たかとも:正徳元(一七一一)年に川越城を賜わっているが、三年後の正徳四年八月に死去)と、その後を継いだ子の喬房(但し、彼の但馬守への遷任は享保一〇(一七二五)年十二月で、元文三(一七三八)年九に死去している)がともに但馬守である。時間のスパンの長さから、ここは喬房の代と考えてよかろう。

「三の丁」不詳。識者の御教授を乞う。

「けんどん」「慳貪」。ここは無慈悲なこと、愛想がないことの意。

「日はくるゝ」「日は暮るる」。

「ひぢ」「肱」。

「くさめ」「嚏」。くしゃみ。

「まさかり」「鉞」。刃先幅が広い斧。

「ゆたかに伏(ふし)て」大の字になって呑気に。

「いびき」「鼾」。

「しすましたり」「なんとも! うまい具合だぜ!」。

「跡先」前後。

「かげろふ・いなづま」「陽炎・稻妻」。

「片原(かたはら)」「傍」。

「德利」「とくり」或いは当時は既に「とっくり」。酒などを入れる陶製・金属製などの、口の細い容器。お銚子(ちょうし)のこと。

「こけまわる」ママ。「こけ𢌞る」。転げまわる。

「鳴(なき)はためき」鳴り響き。響き渡り。「はた」はオノマトペイア(擬音語)。

「松永彈正久秀」(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)は専横の限りを尽くした戦国武将。当初は三好長慶(ながよし)の家老として権勢を揮い、信貴山(しぎさん)城・多聞城にあって大和を支配したが、長慶死後は将軍足利義輝を弑(しい)し、三好三人衆と対立した(彼らとの戦いによって東大寺大仏殿が焼失している)。永禄一一(一五六八)年に織田信長に降伏して大和を安堵されるも、直に信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もって、信長が欲しがった平蜘蛛茶釜とともに爆死したことで知られる。

「永祿」一五五八年から一五七〇年。

「多門の城」多聞山城。現在の奈良県奈良市法蓮町にあった平山の城塞。(グーグル・マップ・データ)。

「果心(クハシン)居士といふ魔術者」歴史的仮名遣は「くわしんこじ」(かしんこじ)で誤り。生没年不詳の室町末期の話柄に登場する伝説の幻術師。ウィキの「果心居士」によれば、『七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。筑後の生まれともされ、『大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆』「古老茶話」によると、慶長一七(一六一二)年七月、『因心居士』(彼の別名ともされるもの)『というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八歳と答えたとする。また、『天正一二(一五八四)年六月に『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とするが、『果心居士に関する資料の多くは江戸時代に書かれたものであり、これらの逸話は事実とは考えられないが、奇術の原理で説明できるものとして「果心居士=奇術師」という説もある』とある。私の好きな妖しい幻術者である。興味のある方は、柴田宵曲 妖異博物館 果心居士をお読みあれかし。]

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