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2017/12/23

睡蓮   原民喜

 

[やぶちゃん注:初出未詳。芳賀書店版全集第二巻(昭和四〇(一九六五)年八月刊)に初めて収録された。底本(後述)の配置及び内容から見て、私は敗戦前の作(少なくとも作品内時制は)ではないかと読む。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」の「エッセイ集」に拠った。歴史的仮名遣を用いており、拗音表記もないので、彼の原稿を電子化してきた経験から、漢字を恣意的に正字化した。一部、現代の若者には読み難い箇所があるので〔 〕で読みをオリジナルに推定で歴史的仮名遣で補った

 ここに出る、ある考古学者が新羅の古墳から発掘した宝冠云々というのは、ネットで調べるうち、ある趙弩級に著名な御用考古学者の、この論文ではないか、と思い当たるものがあったのだが、原論文自体に当たることが出来ないこと、その発掘だとすれば、それの纏わる当時の傲岸極まりない日本帝国を含む当事者らのやり口などが、別なネット記事によって芋蔓式に出てきてしまったため、甚だ不快になったので(原民喜の感動とは無縁な事実)、ここにはその有力候補は敢えて示さないこととした。

 本篇は現在、ネット上には電子化されていないものと思う。【2017年12月23日 藪野直史】]

 

 

 睡蓮

 

 私はその晩、ある考古學者が書遺〔かきのこ〕した、厚い大型の本を机の上に展〔ひろ〕げた。時たま、その書物を繙〔ひもと〕くことはあつたが、その度に私は遙かな絶望とも慰めともしれないものに、誘はれるのであつた。人間の營みの微〔かす〕かであること、幽〔かす〕かながらもその營みの地上に印〔いん〕せられてゐること、そんなことが、心を去來すると、私の時間は混亂して、茫漠とした淵に溶け込んでしまふのであつた。

 しかし、その晩は、たしか冬であつた。それも酷〔きび〕しい眞冬であつたし、私の精神は蕪雜〔ぶざつ〕な生活に喘〔あへ〕ぎながら、晝間の印象を抹殺したがつてゐた。つまり、就眠前の靜かな憩〔いこ〕ひが欲しかつた。この不幸な神經を鎭め、魂を淸めてくれるものが、もしあるとしたら、――と、思ひながら、私の指は厚い書物をめくつてゐた。そのうちに、眼はふと、ある頁にとどまり、やがて行を追つてゐるうちに、忘我の境へ導かれた。讀み畢〔をは〕つてから、私の心はいたく滿たされた。遠くで、なにものかが、頷〔うなづ〕き、かすかに搖れ動くやうであつた。

 それは、新羅〔しらぎ〕の古墳から發掘された、目もあやなる純金の寶冠に就いて、精細に述べられてゐる文章であつた。殆ど、その考古學者の眼は、昔の工人の心憎い意匠に眺め入つて餘すところがなかつた。私は寫眞と見較ベながら、靜かな文章の流れに醉つてゐたが、最後の一節に來ると、無數の小さな圓形の瓔珞片〔やうらくへん〕がひらひらと搖〔ゆら〕ぎ出すのを覺え、美しい音樂の休終〔きうしゆう〕した後の瞬間のやうに想へた。

 それにしても、未だこの私の肉眼で見たこともない寶冠が、このやうに私の心を蕩〔とろ〕かすとはどうしたことであらうか。だが、想像の上に浮んで來るその寶冠は、燦然として安置され、妙なる幻覺はゆらゆらと立舞ふのであつた。

 珍しく、心の和むのを覺え、私はうつとりと眼を閉ぢて、夜具の上に橫〔よこた〕はつた。安らかな睡眠が訪れて來るに違ひなく、身も魂も淡く呆けて行くやうであつた。私は何處かの水邊を逍遙〔さまよ〕つてゐた。明るい眩しい光が降灑〔ふりそそ〕ぐ中に白い輪畫のはつきりしない花がいくつも浮んでゐた。あれは夢の花、夢のはじまる花と、私はぼんやり頷いた。

 

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