柴田宵曲 俳諧博物誌(19) 熊 一
熊
一
獅子は石橋(しゃっきょう)の牡丹に戯れると相場がきまり、虎は雞林八道(けいりんはちどう)に横行するのみで、船便がなければ内地へは渡って来ない。明治以前の日本人は猛獣とあまり交渉がなかった。武芸者や狩猟家はあるいは髀肉(ひにく)の歎(たん)に堪えなかったかも知れぬが、一般人民に取ってこれほど幸(さいわい)なことはあるまい。苛政虎の如しなどと文字だけは並べたところで、真に虎害の恐るべきことを知っている人は、絶無といっていい位だから、虎の話を聞いて色を失う心配もないわけである。国内太平を謳歌し得る一理由としては、猛獣毒蛇の難がないことも算えられなければならぬ。
[やぶちゃん注:「熊」ここには以下の叙述から、本邦に棲息している二種、動物界 Animalia脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 食肉目 Carnivora イヌ型亜目 Caniformia クマ下目 Arctoidea クマ小目 Ursoidea クマ科 Ursidae クマ亜科 Ursinae クマ属 Ursus ツキノワグマ Ursus
thibetanus 亜種ニホンツキノワグマUrsus
thibetanus japonicus 及び、クマ属ヒグマ Ursus
arctos 亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis を挙げておく必要がある。
「獅子は石橋(しゃっきょう)の牡丹に戯れる」知られた能の「石橋(しゃっきょう)」(作者未詳)に基づいた謂い。入唐して仏跡を巡り歩いたワキ僧寂昭(じゃくしょう 応和二(九六二)年頃?~長元七(一〇三四)年:「寂照」とも表記。俗名、大江定基。平安中期の天台宗の僧。参議大江斉光(ただみつ)の子。因みに、彼の出家の最初の動機は「今昔物語集」(巻第十九 參河守大江定基出家語(參河守大江の定基出家の語(こと))第二)や「宇治拾遺物語」(卷第四 七 三川の入道(にうだう)遁世の事)などで知られるが、愛する妻が死んでも愛おしさのあまり葬送せず、その亡骸の口を吸っていたが、遂に遺体が腐り出し、そのおぞましい腐臭に泣く泣く葬ったことにあった。後者は私の「雨月物語 青頭巾 授業ノート」で電子化しているので参照されたい)が清涼山の麓へと辿り着いた。そこはまさに仙境であった。そこから山の中へは細く長い石橋が架かっており、その先は文殊菩薩の浄土であるという。寂昭は意を決して橋を渡らんとするが、そこに現われた前シテ(樵或いは童子)が「尋常な修行では渡ることは出来ぬから止めよ」と諭し、「暫く橋のたもとで待つがよい」と言い残して消える(或いは橋の謂われと文殊の浄土の奇特を教えて去る)。ここで中入となり、後見が舞台正面に一畳台と牡丹が据える。後段は「乱序」という緊迫感溢れる特殊な囃子が始まり、それを打ち破るように獅子(後シテ)が躍り出でて、法師の目の前で文殊菩薩の霊験としての勇壮な舞いを披露する。一部で参照したウィキの「石橋(能)」によれば、『小書(特殊演出)によっては、獅子が二体になることもある。この場合、頭の白い獅子と赤い獅子が現われ、前者は荘重に、後者は活発に動くのがならいである。前段を省略した半能として演じられることが多い。まことに目出度い、代表的な切能である』とある。
「雞林八道」鶏林八道。「朝鮮八道」とも称し、李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島に置いた八つの道(行政区画)で、京畿道(キョンギド)・忠清道(チュンチョンド)・慶尚道(キョンサンド)・全羅道(チョルラド)・江原道(カンウォンド)・平安道(ピョンアンド)・黄海道(ファンヘド)・咸鏡道(ハムギョンド)の総称(それぞれの位置はウィキの「朝鮮八道」のこちらの地図を参照されたい)。それぞれの四百年以上に亙って同一の区分が用いられたため、これ及び単に「八道」は「朝鮮全土」のことも指した。ここもその用法。
「髀肉(ひにく)の歎(たん)」功名を立てたり、手腕を発揮したりする機会のないことを嘆くこと。「三国志」「蜀志」の「先主傳」注で、蜀の劉備が、平穏な日々が続いたために、馬に乗って戦場に行くことがなくなってしまい、「髀」(「脾」とも書く)肉=内腿(うちもも)の肉が肥え太ってしまったのを嘆いた、という故事に拠る。]
『今昔物語』に「鎭西人波新羅値虎語」こというのがある。船の人を襲おうとして一たび海に落ちた虎が、鰐鮫(わにざめ)に左の前足を咬切(かみき)られながらも屈せず、岩の上に構えて鰐鮫の来るを待ち、頭に爪を立てて一丈ばかり浜に投上げ、銜(くわ)えて二、三度打振った後、肩に懸けて五、六丈の巌壁を上り去った。「船の内に有る者共此れを見るに、半(なかば)は皆死ぬる心地す」とあるのは、日本人としては稀有な経験をしたもので、虎文学の中に永く異彩を放っている。近松も『国姓爺(こくせんや)』に虎狩の一段を点出し、馬琴も『八犬伝』に武松打虎の向うを張ろうとして、国産の虎がないのに困ったらしく、画の虎が抜出す趣向を思いついた。しかしいずれも実感に乏しいのは生きた虎を知らぬからで、如何に豊富な形容詞を駆使したにしろ、虎を画いて狗(いぬ)に類する譏(そしり)を免れぬ。加藤清正は虎狩で雞林八道に勇名を轟かせたが、この猛将も内地へ帰ると筑後河の河童退治になるのを見れば、日本内地の猛獣狩に適せぬことは明である。河童は水虎と書くなどといっても、所詮埋合せのつく話ではない。
[やぶちゃん注:「『今昔物語』に「鎭西人波新羅値虎語」こというのがある」底本の訓点は『鎮西人(ちんぜいじん)渡リ二新羅(しらき)ニ一値(あ)ウ二虎語(とら)一』と、返り点も送り仮名も読みも総て、致命的に間違っている(ここまま書き下すと、「鎮西人(ちんぜいじん)、新羅(しらき)に渡りて虎に値-語(あ)う」と、如何にも気持ちが悪いものになる)ので、排除して白文で示した。これは「今昔物語集」の「卷第二十九」にある「鎭西人渡新羅値虎語 第卅一」でこれは、
「鎭西(ちんぜい)の人、新羅(しらき)に渡りて虎に値(あ)ふ語(こと) 第三十一」
と読む。以下に示す。□は欠字。
*
今は昔、鎭西□□の國□□の郡(こほり)に住みける人、商ひせむが爲に、船一つに、數(あまた)の人、乘りて、新羅(しらき)に渡りにけり。
商ひし畢(は)てて返りけるに、新羅の山の根に副(そひ)て漕ぎ行ける程に、
「船に水など汲み入れむ。」
とて、水の流れ出でたる所にて、船を留(とど)めて、人を下(おろ)して、水を汲まする程に、船に乘りたる者、一人、船に居て、海を臨(のぞ)きけるに、山の影、移りたり。其れに、高き岸(きし)の、三、四丈[やぶちゃん注:九~十二メートルほど。]許り上(あが)りたる上に、虎の縮(しじ)まり居て、物を伺ふ樣(やう)にて有りければ、其の影の海に移りたりけるを、傍らの者共に、此れを告げて、水汲みに行きたる者共など、忩(いそ)ぎ呼び乘せて、手每(てごと)に艫(ろ)を取りて、忩ぎて船を出だしける時に、其の虎、岸より踊り下(お)りて、船に飛び入らむと爲(す)るに、船は疾(と)く出づ。虎は落ち來たる程の遲ければ、今一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]許(ばか)り、踊り着かずして、虎、海に落ち入りぬ。
船に乘りたる者共、此れを見て、恐(お)ぢ迷(まど)ひて、船を漕ぎて、急ぎ逃ぐるままに、集まりて、此の虎に目を懸けたりけるに、虎、海に落ち入りて、暫(しば)し許り有りて、游(およ)ぎて、陸(くむが)に上(あが)りたるを見れば、汀(みぎは)に平らなる石(いは)の有る上に登りぬ。
「何態(なにわざ)爲(す)るにか有(あ)らむ。」
と見れば、虎の左の前足、膝より下、切れて無し。血、出(あ)ゆ。
「海に落ち入りつるに、鰐(わに)の咋ひ切りたるなんめり。」
と見る程に、其の切りたる足を海に浸して、平(ひら)がり居り[やぶちゃん注:凝っと蹲(うずくま)っている。]。
而る間、息(おき)[やぶちゃん注:「沖」の借字。]の方より、鰐、此の虎の居る方(かた)を差して來たる。
「鰐來て、虎に懸る。」
と見る程に、虎、右の方の前足を以つて、鰐の頭(かしら)に爪を打ち立て、陸樣(くむがざま)に投げ上ぐれば、一丈許り、濱に投げ上げられて、鰐、仰樣(のけざま)にて砂の上にふためく[やぶちゃん注:ばたばたと音を立てて暴れる。]を、虎、走り寄りて、鰐の頤(おとがひ)の下を、踊り懸りて咋(く)ひて、二、三度許り、打ち篩(ふる)ひて、鰐、□□る[やぶちゃん注:「なゆる」(萎(な)ゆる)辺りか。弱ってぐったりとなる。]際(きは)に、虎、肩に打ち懸りて、手を立てたる樣なる巖(いはほ)の、高さ、五、六丈[やぶちゃん注:十五~十八メートルほど。]許り有るを、今、三つ足を以つて、下坂(くだりざか)など走り下だる樣に走り登りて行きければ、船の内に有る者共、此れを見るに、半(なかば)は皆、死ぬる心地(ここち)す。
「然(さ)は、此の虎の爲態(しわざ)を見るに、船に飛び入りなましかば、我等は一人殘る者無く、皆、咋(く)ひ殺されて、家に返りて妻子の顏もえ見(み)で死(し)なまし。極(いみ)じき弓箭(きうぜん)・兵仗(ひやうぢやう)[やぶちゃん注:刀剣類。]を持ちて、千人の軍(いくさ)防ぐとも、更に益有らじ。何(いか)に況んや、狹(せば)き船の内にては、太刀・刀を拔きて向き會ふとも、然許(さばか)り、彼(か)れが力の強く、足の早からむには、何態(なにわざ)を爲(す)べきぞ。」
と、各々云ひ合ひて、肝・心も失せて、船漕ぐ空も無くてなむ、鎭西には返り來たりける。
各々、妻子に此の事を語りて、奇異(あさま)しき命を生きて返りたる事をなむ、喜びける。外の人も此れを聞きて、極じくなむ、恐(お)ぢ怖れける。
此れを思ふに、鰐も海の中にては、猛く賢き者なれば、虎の海に落ち入りたりけるを、足をば咋(く)ひ切りてける也。其れに由無(よしな)く[やぶちゃん注:ところが、よせばいいのに無暗に。]、
「尚、虎を咋はむ。」
とて、陸(くむが)近く來たりて、命を失なふ也。
然(しか)れば、萬(よろづ)の事、皆、此れが如く也。人、此れを聞きて、
「餘りの事は止(とど)むべし。只、吉(よ)き程にて有るべき也。」
とぞ、人、語り傳へたるとや。
*
「近松も『国姓爺(こくせんや)』に虎狩の一段を点出」近松門左衛門作の全五段から成る人形浄瑠璃「國姓爺合戰」。正徳五(一七一五)年、大坂竹本座で初演。文楽でも私の非常に好きな作品の一つである。虎退治のシークエンスは二段目に出る。
「馬琴も『八犬伝』に武松打虎の向うを張ろうとして、国産の虎がないのに困ったらしく、画の虎が抜出す趣向を思いついた」「武松打虎」(ぶしょうだこ)とは「水滸伝」の中でも私が格別に好きな武松(梁山泊第十四位。渾名は「行者(ぎょうじゃ)」(途中から追手から遁れるために修行者の姿に変装することに由来)の虎退治のこと。ウィキの「武松」によれば、『鋭い目と太い眉をもつ精悍な大男で、無類の酒好き。拳法の使い手』であったが、酒のために、『誤って役人を殺したという理由で柴進の屋敷に身を寄せ隠れていた。そこで逃亡してきた宋江と出会い』、『義兄弟の契りを結ぶ。その後、殺したと思っていた役人が実は失神しただけということが判明し、故郷の清河県へ帰る途中で、景陽岡の人食い虎を退治したことにより、陽穀県の都頭に取り立てられる。更にその街で働いていた兄・武大と再会したが、武大は武松が出張している間に嫂の潘金蓮とその情夫・西門慶によって毒殺される。兄の死に疑問を持った武松は奔走して確かな証拠を』摑『み、兄の四十九日に潘金蓮と西門慶を殺害して仇討ちを果たし、その足で県に自首し』、『孟州に流罪となった』。『護送中、立ち寄った酒屋(張青、孫二娘夫婦が経営)で振る舞われた酒に一服盛られるが、感づいてかかった振りをして倒れ、肉饅頭にしようとした張青夫婦を逆に懲らしめた。孟州に入ると、典獄の息子であり』、『盛り場の顔役であった施恩の世話となる。ところが、施恩と盛り場を巡り対立していた張団練配下の蒋門神(蒋忠)を叩きのめしたことにより恨みを買い、孟州に赴任した張団練の一族である総督の張蒙方に冤罪を着せられて再度流罪となった。さらに護送中に刺客に襲われたことにより激怒し、刺客や護送役人を返り討ちにし、蒋門神と張団練と張蒙方一家を皆殺しにすると、今度は自首せず』、『逃亡。その途中、張青夫婦と再会し、魯智深や楊志がいる青州二竜山へとの入山を勧められ向かうこととなる』とある人物。ここで宵曲が言っているのは、ウィキの「南総里見八犬伝」によれば、滝沢馬琴の大長篇の読本「南總里見八犬傳」(文化一一(一八一四)年刊行開始後、二十八年かけて天保一三(一八四二)年完結。全九十八巻百六冊)の中の、犬士列伝でも終りに近い「親兵衛の京都物語」のシークエンス。『里見義成は朝廷への使者として犬江親兵衛を京都に遣わす。しかし、美貌の親兵衛は管領細河政元に気に入られて抑留されてしまう。親兵衛は「京の五虎」と称される武芸の達人たちや、結城を追われ京都に戻っていた悪僧徳用(父は細河家の執事)との試合を行い、大いに武勇を示した。そのころ、巨勢金岡』(こせのかなおか 生没年未詳:九世紀後半の伝説的な名画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜なその馬が壁から抜け出て田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わる。他にも、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしよう、という。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て、絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードなども今に伝わる。なお、言わずもがなであるが、「南総里見八犬伝」の時代設定は室町末期である)『の描いた画の虎が抜け出て』、『京都を騒がす事件が発生する。虎を退治した親兵衛は、褒賞として帰国を認めることを細河政元に認めさせ、安房への帰国の途に就く』とある。私は実は全篇を通して読んだことはないのだが、実は妻が大変なファンで、原文全篇を二度も精読しているフリークである。
「加藤清正は虎狩で雞林八道に勇名を轟かせたが、この猛将も内地へ帰ると筑後河の河童退治になる」安土桃山から江戸前期の武将で、肥後熊本藩初代藩主加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)の朝鮮出兵中の虎退治は有名だが(但し、実はこの虎退治は本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすり替えられたもの)が、河童の方は私の「火野葦平 英雄」の本文及び私の注を参照されたい。手短に知りたい方にはサイト「河童共和国」の田辺達也氏の「美童をめぐる 清正VS河童 球磨川夏の陣」がお薦めである。]
余計な前置が長くなったが、日本に猛獣文学の少いのは、資料になるべき猛獣が少いためである。近松や馬琴のような舞台を持合せぬ俳諧者流が、その取扱に苦しむのは致方がない。百獣の王や金毛白額の大虫は原産地の諸公に任せるとして、これに次ぐものを我国に求めれば、第一に熊を挙げなければなるまいと思う。
もう二十何年も前になるが、友人の山岳愛好者から、日本アルプスの何処かに熊が出るという話を聞いた。そんなに山が物騒なのかと早合点したらそうではない、あまり登山者が出かけるため、その人たちが山で粗末にする食物の残りを食いに出没するという説明で、いささか呆れたおぼえがある。比較的近年の日本アルプスでさえその始末だとすれば、昔の山中に熊の出るのは珍しい話ではあるまい。ピエル・ロティの『日本印象記』に日光の事を書いて、「ここは日本嶋の中部である。ここから行けばすぐと熊より外には誰も住まぬ地方に出られる。につこうの商家にはその熊の灰色の皮が沢山ある」といっているのは、あながち誇張の言とも思われぬ。われわれは日本アルプスに熊が出たと聞いて驚いた顔をするけれども、逆に熊の方からいえば、彼らの天地まで人間の侵入するのに呆れているかも知れない。
[やぶちゃん注:「ピエル・ロティの『日本印象記』」フランス海軍士官で作家であった通称ピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年:本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud)は一八八五年(明治十八年)と一九〇〇年(明治三十三年)から翌年の二度、来日し、明治の日本を辛辣に観察、日記体小説「お菊さん」(Madame
Chrysanthème 一八八七年)、「日本の秋」(Japoneries
d'automne 一八八九年)、「お梅が三度目の春」(La
Troisième Jeunesse de Madame Prune 一九〇五年)などを発表している(但し、彼は全く日本及びその文化を殆んど理解もせず、評価もしていない)。宵曲の言う「日本印象記」というのは、「日本の秋」の高瀬俊郎による抄訳(大正三(一九一四)年新潮社刊)で、しかも意訳或いは翻案的な杜撰なものである。]
熊の種類にもいろいろあり、一概には往かぬであろうが、動物園で見参した印象は、この種の獣としては温和な方である。丸々と太った軀(からだ)、愛敬のある小さい眼、檻の中に腰を落著けて身を揺(ゆす)る様子、すべて猛獣界のものではない。殊に咽喉に月の輪のある先生に至っては、慥に愛玩に堪えた風貌を具えている。足柄山の金太郎が鉞(まさかり)を担いで日夕(につせき)伴侶とするには、まことに恰好のものと見受けられるが、一たび檻を離れて山野に棲息する段になると、普通の人間にはちょっと近づけない。ルナアルの『博物誌』には無論洩れているし、芥川氏の「動物園」にも見当らぬ。鳥羽僧正の鳥獣画巻は麒麟や獅子まで画いているにかかわらず、どういうものか熊は逸している。永く金太郎とアイヌを以て知己とせざるを得ぬ限り、彼らの境遇も多幸というわけに往かぬであろう。われわれの熊に対する愛情も、動物園の檻に臨んではじめて生ずるものとしたら、そこには自(おのずか)ら限界があるからである。
[やぶちゃん注:「ルナアルの『博物誌』」既出既注。宵曲の言う通り、熊は載っていない。しかし、ルナールのそれは基本、身近に観察される動物中心のアフォリズムで、動物園等で見た動物も採られてはいるものの、ルナールの食指は熊には動かなかったものと思われる。なお、フランスではスペインとの国境のピレネー山脈ぐらいにしか棲息しない(ヨーロッパヒグマUrsus
arctos arctos:ごく少数が棲息するものの、現在、絶滅が懸念されている)。私の古い電子テクスト「博物誌 ルナール 岸田国士訳(附原文+やぶちゃん補注版)」を参照されたい。
『芥川氏の「動物園」』大正九(一九二〇)年一月及び十月発行の雑誌『サンエス』に分割掲載された、明らかにルナールの「博物誌」の二番煎じのアフォリズム集。私の電子化注がある。
「鳥羽僧正の鳥獣画巻」国宝「鳥獸人物戲畫」は京都市右京区の高山寺に伝わる作者未詳の紙本墨画の絵巻物。現在の構成は甲・乙・丙・丁と呼ばれる全四巻から成る。ウィキの「鳥獣人物戯画」によれば、『内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される』。『成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため』、現在では、一二世紀から十三世紀(平安末から鎌倉初期)の『幅のある年代に複数の作者によって、別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来し』、それが、「鳥獣人物戯画」として集成されたものと考えられている。『作者には戯画の名手として伝えられる鳥羽僧正覚猷』(かくゆう 天喜元(一〇五三)年~保延六(一一四〇)年:平安後期の天台僧。日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通した)が長く『擬され』、現在でもそう思っている一般人も多いが、『それを示す資料はなく、前述の通り』、『各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることからも、実際に一部でも鳥羽僧正の筆が加わっているかどうか』も『疑わしい。おそらく歴史上無名の僧侶などが、動物などに仮託して、世相を憂いつつ、ときには微笑ましく風刺したものであろう』とある(下線やぶちゃん)。]
熊に関する文献の乏しい中にあって、俳諧は冬の季題に座席を与えた。熊などに縁のなさそうな近世歌人の作にも「あら熊はゆくへも知らず奥山のうつぼにこもる木枯の聲」というのがある位で、この点に恐らく異議はあるまいと思う。実際また熊といえば、直に朔風凛々(さくふうりんりん)たる天地が連想に浮んで来るが、俳書を猟(あさ)って見ると存外獲物が少い。他の配合物なしに熊だけで独歩している句の如きは、殆ど皆無に近い状態である。歳時記の例句で容易に検出し得るなら、わざわざここへ持出すにも及ばぬが、少しく探索を要するので、見当った句を列べて置く。折角内地産の獣の大関に擬しながら、その地位にふさわしい句がないのは、甚だ遺憾といわなければならぬ。
[やぶちゃん注:「あら熊はゆくへも知らず奥山のうつぼにこもる木枯の聲」出典も作者も不詳。識者の御教授を乞う。「うつぼ」岩や木などにできた空洞やほら穴。洞(うろ)。正確には「うつほ」と濁らないのが正しい。]
蟻を喰(くら)ふ熊の命や冬籠(ふゆごもり) 東以
この冬籠は人間のではない。熊が冬季穴に籠るの意である。熊の冬籠などは俳人の専売かと思うと、古く「白雪のふる木のうつぼすみかとて太山(たいざん)の熊も冬籠るなり」という為家の歌があって先鞭を若けている。『和漢三才図会』に「冬蟄入穴。春乃出」といい、「冬月蟄時不食。饑則舐其掌。故其美在掌。謂之熊蹯」と記してあるのは、多少この句の参考になりそうである。熊が穴に籠る場合は何も食物がないので、掌で蟻を潰してはこれを舐(なめ)るという話は、われわれもかつて誰かから聞かされた。アリマキの身体から甘い汁を吸う蟻が、熊の掌で潰されて餌食になるのは、因果応報らしくも考えられるが、それよりもあの大きな図体(ずうたい)の熊、蟻のような小虫を食料にして、細々と命をつなぐところに、いうべからざるあわれがある。作者は江戸の人らしいから、やはりこんな話を聞いて一句にしたものであろう。
[やぶちゃん注:「和漢三才図会」(江戸中期の大坂の医師寺島(てらじま)良安によって明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた百科事典。全百五巻八十一冊、約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が同年をクレジットすることからの推測)に完成し、大坂杏林堂から出版された。私は同書の動物類の全電子化注も手掛けている最中であるが、「卷三十八 獸類」は未着手である。私がそこに到達するのは恐らく一年ぐらいは先であろう。生きていればの話であるが)の引用は、ルビがあるが、現代仮名遣で気持ちが悪いので、総て排除した。以下で原典で示し、原典の訓点に従って示した(〔 〕は私が添えたもの)。これによって「冬蟄入穴。春乃出」「冬月蟄時不食。饑則舐其掌。故其美在掌。謂之熊蹯」が、実は良安の言葉ではなく、明の本草家李時珍の「本草綱目」からの抜粋部からの、そのまた、一部引用であることがお判り戴けるものと思う(下線太字部分が宵曲の引いた当該部分)。
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本綱熊生山谷如大豕而豎目人足黑色性輕捷好攀縁
上高木見人則顛倒自投于地冬蟄入穴春乃出春夏臕
肥時皮厚筋弩毎升木引氣或墮地自快俗呼跌臕冬月
蟄時不食饑則䑛其掌故其美在掌謂之熊蹯其行山中
雖數千里必有跧伏之所在石巖枯木謂之熊舘其性惡
穢物及傷殘捕者置此物于穴則合穴自死或爲棘刺所
傷出穴爪之至骨卽斃也性惡鹽食之卽死又云熊居樹
孔中人擊樹呼爲子路則起不呼則不動也
[やぶちゃん注:以下、「熊膽」(くまのい)と良安の評言と「熊皮」が続くが、略す。]
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「本綱」に、『熊、山谷に生ず。大なる豕〔(ゐのこ)〕のごとくにして、豎(たて)の目、人の足〔のごとし〕。黑色。性、輕捷にして、好んで攀〔ぢ〕縁〔(よ)り〕、高木に上〔ぼ〕る。人を見るときは、則ち、顛倒し、自ら、地に投〔(とう)〕ず。冬は蟄(すごも)り、穴に入り、春は乃〔(すなは)〕ち、出づ。夏、臕(あぶら)、肥えたる時、皮、厚く、筋、弩〔(ど)たり〕[やぶちゃん注:肉も豊かになる。]。毎〔(つね)〕に木に升〔(のぼ)〕るときは、氣を引き、或いは地に墮ち、自ら、快とす。俗に「跌臕(くまあそび)」と呼ぶ。冬月、蟄する時は、食(ものくら)はず、饑〔(う)ゑ〕るときは、則ち、其の掌(たなごゝろ)を䑛ねぶ)る。故に、其の美、掌に在り。之れを「熊蹯〔ゆうはん)〕」と謂ふ。其の山中を行くこと、數千里と雖も、必ず、跧伏(せんふく)の所[やぶちゃん注:腹這いになる場所。]、有りて、〔そは、〕石巖・枯木に在り。之れを「熊舘(いうくわん)」と謂ふ。其の性、穢(けが)れたる物及び傷殘[やぶちゃん注:傷つくこと。]することを惡〔(にく)〕む。〔されば、〕捕ふる者、此(こ)れらの物を穴に置くときは、則ち、穴に合〔へば〕、自〔(みづか)〕ら、死す。或いは棘刺〔きよくし)〕の爲めに傷〔せらるれば〕、穴を出でて之れに爪〔たてて〕、骨に至れば、卽ち、斃〔(たふ)〕るなり。性、鹽を惡む。之れを食へば、卽ち、死す。又、云ふ、熊、樹の孔の中に居〔(を)〕る〔とき〕、人、樹を擊ちて、呼んで「子路。」と爲〔(す)〕れば、則ち、起き、呼ばざるときは、則ち、動かず』と。[やぶちゃん注:「子路」は孔子の愛弟子で、私も愛する、暴虎馮河で知られた剛勇無双の彼のことであろう。類感呪術の典型例である。]
*
「為家」藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)は鎌倉中期の公家歌人。父はかの藤原定家。この一首は「新撰和歌六帖」の「第二 山」に所載する。
「掌で蟻を潰してはこれを舐(なめ)るという話は、われわれもかつて誰かから聞かされた」私は、熊は熊は好物の蜂蜜を利き手で取って舐める、そうでない方で蜂を払う、だから利き手の方が甘くて美味しいと言い、熊の利き手は左手だとか、いや、右だとかという怪しい話なら知っている。しかし、中華料理で食べるのは皮の内部であり、あのゴッツい皮(上海で実物を見たが)は凡そ外部から蜂蜜が浸透するようなシロモノではないから、妄説である。利き手の方が肉は豊かになろうかとは思うが。
「アリマキ」蟻牧。昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea のアブラムシ類。ウィキの「アブラムシ」によれば、『自身の防御力が弱いアブラムシ類には、アリに外敵から守ってもらう種があり、これがアブラムシがアリマキと呼ばれる所以になっている。食物である師管液には大量の糖分が含まれ、甘露と呼ばれる肛門からの排泄物には余剰な糖分が多く含まれるため、アリ達はこの甘露を求めて集まってくる。中には、はっきりとアリとの共生関係を持ち、アリに守られて暮らすものもある』とある。]
熊の手の蟻も盡(つき)た歟(か)梅の花 嘯山
という句は東以の「冬籠」と併看すべきもので、特に「熊の手」を持出したところ、前の解釈を補うことにもなるが、句の価値は少々落ちる。春来り梅の花の咲くのを見て、冬籠る熊の手の蟻も尽きたろうかと想いやるのは、奇は即ち奇であって、何分か理に堕した嫌があり、「蟻を喰熊の命や」の如く、内に深く蔵するものがない。
あら熊のかけちらしてや前の雪 北枝
飛驒の山中にて
あら熊の出(いづ)る穴あり片時雨(かたしぐれ)
十丈
北枝の句は古い国定教科書に「笹の雪」となつて出ていたかと記憶する。一面の笹に積った雪が、著しく乱れている迹(あと)を見て、あら熊でもかけ散したものかといったとすれば、その意味は明瞭であるが、『北枝発句集』の何によって「笹」と改めたか、その点に疑問がないでもない。「あら熊のかけちらしてや」という事柄の背景としては、「笹の雪」も繊弱を免れぬようである。「前の雪」は前方降った雪か、眼前の雪かなどと解し煩っているうちに、目黒野鳥氏の示教を得た。「前の雪」「背戸の雪」「真の雪」等、いずれも雪国山村の常用語で、明(あきらか)に山中住いの「家の前の雪」の意だそうである。この雪国の用語がわからぬため、誰かがさかしらに「笹の雪」と改めたものではあるまいか、ということであった。「笹の雪」はどう考えても熊に適切でない。作者の北枝は北国人だから、家の直ぐ前の雪に熊の蹴散した逃があるという、即景を句にしたものと思われる。
[やぶちゃん注:立花北枝(?~享保三(一七一八)年)は蕉門十哲の一人。通称は研屋源四郎。加賀金沢に住み、刀の研師(とぎし)を生業(なりわい)としつつ、俳諧に親しんだ。元禄二(一六八九)年に芭蕉が「奥の細道」の旅で訪れた際に入門、越前丸岡まで永の見送をしている。以後、加賀蕉門の中心人物として活躍したが、無欲な性格で俳壇的な野心はなかった。自分の家が丸焼けになった際、「燒(やけ)にけりされども花はちりすまし」と詠み、芭蕉の称賛を得たエピソードは著名で、世俗を離れて風雅に遊ぼうとする姿勢が見てとれる(ここは概ね、「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「目黒野鳥」詳細事蹟は判らないが、彼を師とする俳人がいるから、自己の俳句グループを持っていた人物と思われ、書誌情報では、「芭蕉翁編年誌」(昭和三三(一九五八)年青蛙房刊)の著作もある。]
十丈の句は前書で場所が明になっている。時雨の降る寂しい山中に一箇の穴があって、ここから荒熊が出るという。現在荒熊が顔を出さないにしろ、居住者がそうときまれば、狐や狸の穴と同一視するわけに往かぬ。この二句の共通点は、「あら熊はゆくへも知らず」の歌と同じく、熊の姿が舞台に見えぬところにあるので、そこへのそのそ登場して来たならば、到底十七字や三十一字に収まるものではない。われわれが平然として熊を観察し得るのは、動物園の檻を隔てた場合に限る。彼に山野を彷徨する自由が与えられている以上、文学的材料として彼を捉える前に、此方があの大きな掌の一掃から免れる工夫をしなければならぬ。北枝がかけ散された雪の迹で間に合せたり、十丈が「出る穴」だけで埒(らち)を明けているのも、実際はやむをえぬ結果なのである。