柴田宵曲 俳諧博物誌(26) 兎 二
二
秋に次いでは冬の句が多く、冬の中ではまた雪に関するものが半(なかば)以上を占めている。雪と兎との間には月の場合のような伝説的な因縁はない。冬になると雪国の兎の毛は白くぬけ替るという話もあるが、そんな点から雪に結び付けたとも思われぬ。先ず冬季において自然に生じた因縁と見るべきである。
[やぶちゃん注:「冬になると雪国の兎の毛は白くぬけ替るという話」事実。ウィキの「ニホノウサギ」によれば、ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus
brachyurus の全身の毛衣は褐色』で、『腹部の毛衣は白』『く、『耳介の先端は黒い体毛で被われている』が、『東北地方や日本海側の積雪地帯、佐渡島の個体群は冬季に全身の毛衣が白くなる』とあり、『積雪する地域では』、『秋頃より体毛の色が抜け落ちはじめ、冬には耳介の先端の黒い体毛部分を除き』、『白化し、早春頃より白い体毛が抜け、徐々に赤褐色から茶褐色の体毛が生えてくる』とある。また、ペット・サロン・サイトの記載によれば、ウサギ類(ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae)には、概ね、大きな換毛期が年二回と、小さな抜け変わりが年二回あり、大きなそれは、冬毛が夏毛に生え換わる春、及び、夏毛が冬毛に生え換わる秋である。この抜け替わりには種差や個体差が激しく、また、抜け毛が激しいものと、そうでないものでは、見た目の印象が大きく異なる(ウサギは一般に長めのガード・ヘアと短めのアンダー・コートの二種の毛が体表を蔽っているが、このガード・ヘアが局所的に抜けて、下のアンダー・コートが覗いて、禿げちょろけたように見える場合もあるようである。どうしても、ここで言っておきたいが、「博物誌」と名づける以上は、こうした「話」の事実の虚実を調べ上げてはっきりさせなければ駄目である。私が興味深い部分も多い本書に、ある意味、決定的に失望するのは、そうした核心部の致命傷にある。]
初雪に白きは黑し兎の目 蓮求
初雪の市にうらばや雅子兎 正秀
初雪や兎の耳のあたゝまり 応三
兎にも耳をれやある雪の山 鬼貫
庭の雪目ばかり走る兎かな 茶井
白雪に我影さがす兎かな 不勝
薄雪に兎のかげや山ばたけ 李謙
獵師情有や雪に兎は軒を借ル 栂庚
借(かり)られて往クや兎に雪の傘 古漣
世にまかせ雪の色なら兎かな 嵐靑
雪折の竹に耳たつ兎かな 花橋
山中に子供と遊びて
雪の日に兎の皮の髭作れ 芭蕉
雪の竹に菟(うさぎ)
畫(ゑがき)しに所望
言下
雪の竹は菟兵法(びやうはう)のしなひかな
一雪
兎の目は秋にも「のぼせ目」の句があった。白兎の目といえばルビーのような可憐な色を連想するのが当然だと思われるのに、蓮求はどうしたものか「白きは黑し」といっている。白い兎に赤い目が調和すると同じく、初雪の中に一点紅を認めるのも悪くないはずであるが、茶井は兎の白い方に重きを置いて、雪の上を兎が走る場合、姿はなくて赤い目ばかり見えるという趣向にしてしまった。これでは穿(うが)ちになって面白くない。
兎の耳は応三の句が最も微妙な感覚を持っている。鬼貫が雪の山には立木の雪折の如く、兎の耳折もあるだろうといったのは、要するに言葉を弄(もてあそん)んだに過ぎぬ。それよりは雪所の竹の音を聞いて、兎が耳を立てるという句の方が、平凡ながら遥に自然である。
芭蕉の句は一本に「雪の中に」とある。子供に対していった言葉で、去来が大にこの句に感じたところ、芭蕉は「是を悦ばん者越人と汝のみならんと思ひしに果して然り」といって上機嫌だったというようなことも伝えられている。「兎の皮の髭作れ」に関してもいろいろな説があるが、芭蕉の句が真の自然に帰する一歩手前のものと見てよかろうと思う。
不勝の句、李謙の句は共に兎の影を捉えている。雪の上に白い兎が影を落すというところに興味を持った句らしい。古漣の句は猫でも借りて行くように、飼兎を借りて行く場合を詠んだのであろうか。実際雪の日に傘をさして、借りた兎を抱えて行くものとすれば面白いが、何か他に意味があるならまた考え直さなければならぬ。一雪の「菟兵法」は、雪に竹がしなうのを竹刀(しない)に利かせたまでのことであろう。談林の句が一応人を驚かすようであって、われわれの心に訴えるものがないのは、常にこうした言葉の奇をのみ心がけるからである。
正秀の「雉子兎」は狩猟の獲物と解せられる。右に挙げた句の中で最も生趣に富んでいるのはこれであろう。
[やぶちゃん注:俳号「茶井」「栂庚」は孰れも底本にルビがない。さすれば、前者は「ちやゐ(ちゃい)」、後者は「ばいこう」と読めということであろう。
芭蕉の「雪の日に兎の皮の髭作れ」には異形句が多く、これは「去来抄」に載るもので、
雪の日に兎の皮の髭つくれ
であるが、「いつを昔」(其角編・元禄三(一六九〇)年刊)では、
山中子供とあそびて
雪の日に兎の皮の髭作れ
とあるものの、山本健吉氏などに言わせると(「芭蕉全句」講談社学術文庫)、『其角は句の記憶が杜撰だ』そうで、山本氏は元禄三年正月十七日附万菊丸(愛弟子坪井杜国)宛の『前年冬の句と歳旦吟を報告した中にこの句があり』、そこでは、
山中の子供と遊ぶ
初雪や兎の皮の髭つくれ
とある。因みに岩波文庫「芭蕉俳句集」(一九七〇年刊)では中村俊定氏は「雪の中に」を標準句形(最も古い句形とするが、この場合、私は上記の下線太字部から、ちょっと不審を持つ)として採用している。
さて、「去来抄」(「同門評)では、
*
雪の日に兎の皮の髭つくれ 芭蕉
魯町曰く、「此句意、いかゞ。」。去來曰、「先(まづ)、前書に子どもと遊びてと有れバ、子共のわざと思はるべし。強(しい)て理會(りかい)すべからず。機關(からくり)を踏み破りてしるべし。昔、先師、此句を語りたまふに、予、甚だ感動す。先師曰、『是を悦バん者、越人と汝のミと思ひしに、果してしかり』とて、殊更の機嫌なりし。或いは曰く、『雪ハ越後兎の緣に出(いで)たり。』。來曰く、『此説の古キ事、神代卷に似たり。』。或いは曰く、『兎の皮の髭つくるハ、雪中寒キゆへ也。』。來曰、『如此(かくのごとく)に解せバ、「暑日(あつきひ)に猿若髭をはづしけり」の類(たぐひ)なるべし。いとあさまし。』。」。
*
とある。「魯町」は去来の弟。
服部土芳はこの句を「赤冊子」で「初雪に」の句形で掲げ、『初雪の興也。ざれたる句は作者によるべし。先(まづ)は實體(じつてい)也。猶、あるべし』と述べているが、これについて山本健氏は前掲書で『的確な評語』とし、『この句を見据えたら、この句の解を誤ることはないはずだ。雪が降った時、それは子供にとって寒さよりまず喜びであって、彼らは争って外に飛出すものだから、「雪の中に」という形が生きてくる。だが、「初雪には」いっそう興ずる心の弾みがある、初雪をよろこんで、雪の中を兎のように跳ね回っている子供たちに、兎の毛皮で髭でもつけたらどうだと戯れに呼びかけたのである。このように解しておけば、まずこの句の弾んだ心を捕え得たことになろう。初五と中七との間に表現上のギャップがあるが、「雪の日に」や「雪の中に」より「初雪に」の方が幾分なだらかに接続するだろう』と解釈しておられ、非常に共感出来る。]
兎網かゝる哀(あはれ)や越(こし)の雪 不憚(ふたん)
この句は越路という限られた地方と、兎網というものを持出した点に特色があるが、その趣は十分に現れていない。
[やぶちゃん注:「兎網」ウサギの通り道になる丘陵や山の麓などに予め、網を張り巡らしておき、山頂から大勢の勢子(せこ)で追い立てて狩る方法。「追い山」とも呼び、かの唱歌「故郷(ふるさと」)」の冒頭の「兎追ひし彼の山」のそれである。作詞者高野辰之は長野県中野市出身である。]
雪中待人といふ
うさぎ煮て橇(かんじき)の音きく夜かな 大江丸
越路ならずとも雪深い国の情景であろう。雪を前書に用いて句の背景にしたので、昔も雪の降り積る夜、炉辺に兎の肉を煮ながら人の来るのを待っている。折から耳に入る橇の音は、多分待つ人のそれに相違あるまい。兎を煮る句は大魯にもあったが、あれは過去の出来事として点ぜられたに過ぎず、現在肉を煮つつある趣はこの句のようにこまやかに現れていなかった。橇はソリとも読み、カンジキとも読む。この場合は後者でないと字数が合わぬ。
[やぶちゃん注:「橇(かんじき)」積雪に足を深く踏込んでしまったり、氷結した雪の表面で滑らぬよう、靴や藁靴の下に装着した特殊な履き物。古名を「かじき」と称し、木の枝を曲げて作り、葛(かずら)などで鼻緒を編んで山漆(やまうるし)の肉附きの皮で巻き固めた。下方に向けて木の爪がついたものや鉄製のものもある。現在も登山用などに使われ、「輪(わ)かん」の名で呼ばれる。所謂、アイゼン様(よう)の、本邦の雪国に於ける伝統的な雪中の歩行具である。]
雪兎耳から氷る朝かな 波鷗
狛犬(こまいぬ)と並べて置けり雪うさぎ
虛白
撫(なづ)る間に瘦(やせ)がつかうぞ雪兎
沂風(きふう)
雪で固めた際にも耳を看過せぬのは、形が兎だからである。雪達磨、雪仏、雪兎、皆同類であるが、原物に正比例して兎が一番小さい。子規居士の句に「置炬燵(おきごたつ)雪の兎は解(とけ)にけり」「居つゞけに禿(はげる)は雪の兎かな」とあるが如き可憐な趣は、雪達磨や雪仏の与(あずか)り知らざる所であろう。その観念を以て臨むと、狛犬と並べて置く雪兎は大き過ぎるようである。折風の句は多少室内の模様を見せているけれども、句として甚だ趣味に乏しい。
[やぶちゃん注:「置炬燵(おきごたつ)雪の兎は解(とけ)にけり」明治三二(一八九九)年の句。
「居つゞけに禿(はげる)は雪の兎かな」「芳原詞の内」(「芳原」遊廓の「吉原」のこと。)という前書を持つ明治三〇(一八九七)年の句。]
五十步の兎追ゆる時雨かな 千那
萱野(かやの)から兎追ひ出す霰(あられ)かな
柳居(りうきよ)
この二句は殆ど相似た趣である。ただ時代において千那が先じている上に、五十歩の距離に兎を認めて思わず追駈けて見たという事には、如何にも実感らしい力が籠っている。柳居の句の方が複雑であり、言葉も働いているように見えるが、一句の持つ力において、真に千那に遜(ゆず)らざるを得ない。
[やぶちゃん注:「千那」は近江蕉門で浄土真宗堅田本福寺第十一世住職三上千那(慶安四(一六五一)年~享保八(一七二三)年)。
「柳居」佐久間柳居(貞享三(一六八六)年~延享五(一七四八)年)。幕臣の俳人。初め、貴志沾洲(せんしゅう)の門に入ったが、江戸座の俳風にあきたらず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」を出し、後、中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風の復古を志し、芭蕉五十回忌(寛保三(一七四三)年)に俳諧集「同光忌」を撰している。千那より三十五歳歳下。]
木の葉卷く颷(へう)より出る兎かな 五明
雨落葉走る兎の辷(すべ)りけり 藤山
一は倏忽(しゅっこつ)に過ぎ、一は平浅に失する。木の葉を吹巻くつむじ風の中から兎が飛出すということも、雨の落葉に兎が足を辷らすということも、実際にないではないかも知れぬが、これを読んで何となく拵えもののような感じがするのは、題材の問題でなしに、句を作る伎倆(ぎりょう)の問題であろう。こういう句に比べると、前の千那の句などは、大地をしっかりと蹈(ふま)えて些(いささか)の揺ぎも見せぬところがある。
[やぶちゃん注:「颷」は現代仮名遣で「ひょう」で旋風(つむじかぜ)のこと。「飆」の異体字。
「倏忽」「儵忽」とも書く。時間が極めて短いさま。忽ち。]
霜の聲何と兎の耳のそこ 砂遊
茶の花に兎の耳のさはるかな 曉臺
曇る日は氷柱(つらら)を舐(なむ)ル兎かな
溪石
砂遊の句は兎の耳について聴覚の問題に触れている。その点はいささか珍とするに足るが、耳の長い兎が霜の降る声を何と聞くかというまでで、別に面白いこともない。暁台の「茶の花」も必ず実景なるべくして、少しく明瞭を欠いている。氷柱を舐るのは飼兎の写生であろうか。慥に実感と認むべきものがある。
水仙や兎の耳も旭影(あさひかげ) 莊丹
水仙に兎うかゞふ霜夜かな 景帘(けいれん)
偶然水仙に関する朝と夜との句を発見した。水仙と兎とはその白い色の上にも、優しい感じの上にも、一種の調和がある。強いていえば、水仙の葉と兎の耳を立てた形とにも相通ずるものがあるかも知れぬ。
松陰に兎は白き枯野かな 八十
草枯や兎の山へかよふ道 天淮
兎坂といふにかゝる、さのみ
羊腸たるとにもあらねど奇區
兎徑といひけんも此あたりの
おもむきなるべし
冬の山兎の床をふたつまで 星布尼(せいふに)
蕭条たる枯野に立つ松はやや黒ずんだ翠(みどり)の色を見せている。その陰に白い兎がいるとなると、少し目立たしいようであるが、これは周囲の風物が自(おのずか)ら然らしむるので、殊更に構えた趣向ではない。少くとも蕎麦の花の中に駈込む兎よりは、趣において自然である。「草枯」の句も平凡ながら無難の域に入るであろう。兎坂というのは何処かわからない。地名から兎を持出したようなところもあるが、特に「ふたつまで」と断っているのを見れば、事実に基いたものと思われる。「兎の床」は兎の穴の意か、兎が寝ているのを見てこういったのか、いずれにしてもあまり結構な言葉ではなさそうである。
[やぶちゃん注:「奇區」奇景の地域。
「兎坂」宵曲は「何処かわからない」と言っているので、試みに調べてみた。作者の榎本星布尼(文化一一(一八一五)年~享保一七(一七三二)年:武蔵国八王子(現東京都)の名家榎本忠左衛門徳尚の娘。継母の影響で俳諧に親しみ、初め、白井鳥酔門、後、加舎白雄の門に入った。白雄の後援で松原庵二世を嗣号し、寛政期(一七八九年~一八〇一年)に大いに活躍した。息子喚之編「星布尼句集」ほか多くの編著がある。寛政一二(一八〇〇)年八月に芭蕉の句碑を八王子に建立し、翌年その記念集「蝶の日かげ」を上梓したが、刊行に先立って喚之を失い、以後、沈滞した。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)が八王子の生まれであることを考えると、八王子から二十五キロメートルほど東南東の、現在の溝の口付近の「兎坂」(現存)を一つの候補として考えてもよいのではないかと言い添えておく(「溝の口カイロプラクティック院」公式サイト内の「のくちぃ散歩」の「久本山への坂道~兎坂・馬坂~」を参照されたい。地図もある。その「兎坂」の写真を見ると、細く狭く薄暗く、しかも二十六%勾配を持ち、「兎徑」に相応しい感じはする)。]
猪(しし)兎つるしかけたり榾明(ほだあか)り
曉臺
十月は兎と猿の日なたかな 雞路
正秀の「初雪」の句は雉子と道連であったが、ここでは猪と伍を共にしている。猪や兎をつるした壁に、榾の明りが赤々とさすなどは、山家らしい空気が出ていて面白い。「十月」の句はまた蕪村の「猿どの」の句を連想せしめる。兎はかつて鰐にいじめられたり、狸と戦ったりした歴史を持っているが、猿とは存外平和な間柄だったと見える。山の斜面か何かに日向ぼっこをしながら、猿と兎とが仲よく話している光景は、蕪村の句と趣を異にする一幅の俳画であろう。
狂ひけり彼の兎と小夜千鳥(さよちどり)
東藤
寒月や兎は見えず啼(なく)は鴨(かも)
文錦
熊も狼も海岸まで出張した以上、詩句の上だけでも水に縁のある兎が波に遊ぶのは怪しむに足らぬ。この二句は例の「綠樹影沈魚上木。浦波月落兎奔浪」を冬の世界に持込んだのである。この趣向に多少の無理を感じたものか、文錦は「冬の月に波走ル事不聞」という前書をつけて、兎の代りに鴨の声を点じたのであるが、東藤は千鳥をワキ役に使って、兎と共に波に狂うことにした。浪に遊ぶ兎は必ず月光の裏にある。「狂ひけり」の句には月の字がなくても、その舞台は明皎々(こうこう)たる月夜でなければならぬ。
餠つきや月の兎に覗かるゝ 柳居
秋の句が冬に持越した形である。下界の餅搗(もちつき)を覗く月の兎は、自分でも杵(きね)を持っていること請合(うけあい)であるが、下界を覗くのは人間がどんな風に餅を搗くか、それを見ようというのであろう。月の兎が餅を搗くときまった時代を考証するには、一の資料となるべき句である。
つくづくと畫圖(ぐわと)の兎や冬の月 仙化
つくぐと壁のうさぎや冬籠(ふゆごもり) 其角
この二句は『句兄弟』にある。『句兄弟』というのは、鯛の句にも一度出たが、前句に対して形が似ながら趣の異った句を作る其角の趣向なので、全部で三十九番ある。「ことはらずして決斷せり。冬ごもりはいひ過(すぎ)たれど、畫圖の兎を壁と云(いふ)字にへだてたれば、閑居のたよりも宜しくて對句す。又兎の鼻や冬ごもりと云(いひ)たらば、うづくまりたる人のさまにも成(なる)べけれども、かけり過たる作意ゆへ、本意をうしなふ。興をとらんとて曲流に落る句の出(いで)くるものなれば、作者よくよく沈吟すべし」という其角の文章を読むと、冬籠の壁に兎の画をかけたらしく見えるが、その次に「うづくまりたる人のさま」云々とあるので、いささか首を傾けざるを得なくなった。兎の画をかけるのを「壁のうさぎ」といったのなら、其角の句としてはむしろ平凡である。こういう文章なしにこの句を一誦すれば、自分の影法師か何かが壁にうつっていて、それが兎の形に見えるという解釈になるのが自然ではあるまいか。仙化の句は冬の月の面に画図の如き兎の形を認めたという意であろう。冬の月は四季を通じて最も冴渡(さえわた)っているから、月中の兎もまた明に目に入るわけである。是(ここ)において両句の世界は全くかけ離れていることになる。
[やぶちゃん注:この其角の句の達意の解釈には全く脱帽である。
「句兄弟」こちらを参照されたい。]
綿衣(めんい)著(き)て兎の眞似か冬籠 風白
この句は其角の「壁のうさぎ」と頗る似通っている。ただこの方は影法師ではない。綿入を著てうずくまっている姿が兎に似ているというのである。これらの句がいずれも元禄期の作者の手に成っているのは、単なる偶然であるかどうか。
安藤冠里(あんどうかんり)公の庭に飼われた兎があった。白蓮の莟のような形をして、て掌(てのひら)に乗る位の大きさになったのを、扈従(こしょう)をして御側(おそば)に持って来させると、兎は人を恐れて彼方此方(あちこち)に跳ね廻り、文台(ぶんだい)へ飛上ったり、硯の中へ足を踏込んだりして、「雪の白玉を墨にこかしたらんやうに」汚してしまった。冠里公も不興の様子で、近習の者がはらはらした時、その座にいた其角が、硯に溢(あふ)れた墨に染むことは、彼者の性が天然筆に生れついているのでございます、と放言した。兎毫(とごう)の筆から思いついた当意即妙であったが、この放言のために冠里公の御機嫌も直り、一座笑を催した。其角は「白兎公」という文章にこの顚末を記した上、「臘月の未つかたに、兎の子いつゝ生れたるに」とあって左の句を録している。
年をとる兎にいはへいらぬ豆 其角
年越の豆は妙るものにきまっているが、兎のためには妙らぬ豆がよかろうといったのである。兎の子を詠んだ句は頗る珍しい。その兎に対して年越の豆を持出すなどは、其角のような作者でなければ思いもよらぬ趣向であろう。
[やぶちゃん注:「安藤冠里」備中松山藩第二代藩主。美濃加納藩初代藩主安藤信友(寛文一一(一六七一)年~享保一七(一七三二)年)の俳号。徳川吉宗の代に老中を務め、文化人としても名高く、俳諧や茶道(御家流創始者)でも知られる。
「兎毫の筆」中国では古代から秋の兎の毛を毛筆素材の最上としたことが文献から知られている。
「白兎公」宝井其角の遺稿を没年に貴志沾州らが編集した俳諧俳文集「類柑子」(るいこうじ)(全三巻・宝永四(一七〇七)年刊)に載る。原典を所持しないので示せない。]
「白兎公」の文末には更に「三方に綿をのせて、雪に富士などいふ当座の興をもよほされしに」とあって、
つみわたに兎の耳をひきたてよ 其角
という句が記されている。三方に載せた白い綿を雪の富士に見立てたに対し、この端から長い耳を二本引立てたら、そのまま兎の形になろうと興じたものらしい。已に『万葉集』の歌にも「白縫乃筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼曖所見」とある通り、一見して暖(あたたか)に感ぜられる綿を雪の富士に擬するのは、見立としても上乗のものではない。柔毛兎の適切なるに如(し)かぬ。しかもただ兎に擬するにとどまらず、「兎の耳をひきたてよ」といってのけたところに、放胆なる其角の面目は躍然として現れている。
[やぶちゃん注:「白縫乃筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼曖所見」底本のルビは排除した。「万葉集」の「卷第三」の「雜歌」に載る僧満誓(まんせい/まんぜい 生没年不詳:笠朝臣(麻呂(かさあさそみまろ)の出家後の法号。官位は従四位上・右大弁で、古代吉蘇路(木曽路)の開削者であった。元明上皇の病気平癒のために出家(養老五(七二一)年。但し、別に政治的な意図があった可能性も指摘されている)、願い空しく同年に上皇は崩御し、二年五の養老七年に観世音寺の造寺司に任ぜられて筑紫に赴任した(この赴任については、自が希望したとする説や、当時、奈良仏僧が朝廷から風俗壊乱を成すとして批判されていた折りから、出家祈禱による上皇の快復が適わなかったことも加わって、彼への処罰の一環として左遷されたとする説もある。詳しくは参照したウィキの「満誓」を見られたい)の一首。改めて前書を附して訓読して示す。
沙彌(さみ)の滿誓、綿(わた)を詠める歌一首
しらぬひ筑紫(つくし)の綿は身につけていまだは著(き)ねど暖かに見ゆ
「しらぬひ筑紫(つくし)」は筑紫の広域古名ととっておく。]
探題兎
二の谷をうきぎの登る霰(あられ)かな 几董
餌(ゑ)に飽(あき)て巨燵(こたつ)に眠る兎かな
同
この二句は冬季に兎の題を得て詠んだものである。「二の谷」は須磨であろうが、実景から得たものでないだけに、一句としての力がない。彼の句は其角の「白兎公」と同じく、室内の兎を捉えている。白い兎が火燵の上に眠っているところは、猫と違って頗る斬新の趣がある。
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