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2017/12/24

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第八章 自然淘汰(4) 四 所謂退化

 

     四 所謂退化

 

 我々は通常構造の複雜な動物を高等と見倣し、簡單な動物を下等と見倣すから、複雜な動物が再び簡單な形に戾り、前に持つて居た特別の器官を失ふやうな場合には、之を退化と名づける。倂し前に述べた通り複雜な動物が必ず簡單な動物よりも一層生存に適すると限つた譯でもなく、地球の表面の中には簡單な動物でなければ生存の出來ぬやうな處が幾らもあるから、複雜な動物の子孫と雖も、外界の事情が簡單な動物の方が生存の見込の多いやうな有樣となるか、或はそのやうな有樣の處に移住するかしたならば、代々少しづゝ簡單な動物が生き殘り、自然淘汰の結果、次第次第に簡易なものに變ずる筈である。進化と退化とは字で見ると相對立して反對の意味を有するものの如くに思はれるが、所謂退化といふもやはり適者が生存して生じたもの故、決して進化以外のものではなく、單に進化の特別の場合に過ぎぬ。適するものが適せざるものになれば、之は眞の退化であるが、かやうなものは生存が出來ぬから、忽ち死に絶えてしまふ。

 

Hujitubo

[ふぢつぼ]

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の写真図を用いた(講談社学術文庫版は絵)。]

 

 海岸へ行つて岩石・棒杭等の表面を見ると「ふぢつぼ」といふ貝の如きもふのが一面に附著して居るが、この動物は解剖上・發生上から調べて見ると、確に蝦や蟹と同じく、甲殼類といふ類に屬するが、蝦や蟹が皆活潑に運動して餌を探し廻る中に交つて、このものだけは岩などに固着し、一生涯動くこともなく、餌を探すこともない。運動するための足も筋肉もなければ、餌を探すための眼もない。外から見れば一枚の貝殼を被つた如くであるから、昔は之を蛤・「あさり」のやうな貝類かと人が思つて居た。斯くの如きもの故、蝦や蟹の如く足があり眼があつて巧に運動するものに比較して、通例「ふぢつぼ」を退化したものと見倣すが、その境遇に於ける生存に適するといふ點では、決して蝦・蟹に劣るものではない。海岸の岩石の表面に何萬とも何億とも數へられぬ程に盛に生活して居るのは、卽ちそこの生活に適して居る證據である。假に岩石の表面から「ふぢつぼ」を悉く取り拂ひ、その代りに之と同じ位の大きさの蝦・蟹を同じ數だけ置いたと想像するに、蝦や蟹では到底斯く盛に生活することは出來ぬ。今試に「ふぢつぼ」の生活する有樣を見るに、丈夫に固着して居るから、浪が烈しく岩に打當つても離れる虞がなく、隨つて岩に打付けられて碎かれるやうなこともない。運動するための足もなく、之を動かす筋肉もなく、常に坐したまゝ故、餓ゑることも甚だ少く、少量の食物で事が足るが、食物が少くて濟むから、固着して居ても浪に打寄せられて來る微細の藻類などを取るだけで十分に生活して行ける。別に餌を搜すに及ばぬから、眼も入らぬ。斯く孰れの點を取つても、「ふぢつぼ」の身體は浪の打當る岩石の表面に生活するには極めて適して居るから、蝦や蟹は如何に運動感覺の器官が發達して居てもこの場所では之と競爭は出來ぬ。

[やぶちゃん注:「ふぢつぼ」
節足動物門甲殻亜門 Crustacea 鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha に属する、エビ・カニと同じ甲殻類であり、これは同類と同じく自由遊泳性のノープリウス幼生として孵化することが一八二九年に明らかにされている。

 元來動物の身體内にある器官は如何なるものと雖も費用の掛らぬものはない。一の器官を具へ置くには、滋養分の一部を割りて常に之を養はねばならぬ。運動器官の發達した動物は運動器官のために滋養分の大部を費さなければならぬから、餓ゑることも甚だ速である。それ故多量の食物を求めねばならぬが、坐して多量

の食物は獲られぬから、盛に動き廻つて食物を搜さねばならず、而して運動すればまた餓ゑる。之を外の物に譬へれば運動する動物は收入・支出ともに多い會社で、運動せぬ動物は收入・支出ともに少い會社のやうなものである。土地の狀況次第で前者の適する處もあれば、後者の適する處もあつて、孰れが繁昌し、孰れが失敗するかは、單に出入額の多少ばかりでは定まらぬのと同じで、勝敗は決して運動力の有無によつて定まるものではない。

 以上はたゞ一つの例に過ぎぬが、退化といふことは生物界に決して稀な現象ではない。闇黑な洞穴の中では魚でも蝦でも眼が發達せぬ。また他の生物に寄生する類には一般に運動・感覺の器官が甚だしく少い。前に掲げたことのある風の荒い大洋の中の小島に住む昆蟲に飛ぶ力のないことなどもこの類に屬するが、これらの場合とても理窟は全く同樣である。通常我々が身體各部の聞に分業の行はれた、構造の複雜な動物を高等動物と名づけ、構造の簡單な動物を下等動物と名づけるのも、複雜な動物が稍々簡單な形に變ずるのを退化と名づけるのも、皆高いと貴いとを結び合せ、低いと卑しいとを結び合せる人間の心の働で、天然から見ればたゞ適者が生存するといふことがあるばかり、決して高等動物が優るとか、下等動物が劣るとかに定まつたことはない。それ故所謂退化といふものも決して生存上優つたものが劣つた有樣に移るといふ意味に取ることは出來ぬ。
 

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