柴田宵曲 俳諧博物誌(15) 狸 四 / 狸~了
四
かつて『鬼城句集』を読んだ時分に、「のし餅や狸ののばしゝもあらむ」という句があつて、餅と狸との間にどういう関係があるのかわからなかったが、たまたま古人に
題山家餠つき
のしもちを延(のば)しかけたる狸かな 許六
というのがあるのを見て、はじめてこの落想の偶然ならざるを知った。兎の餅搗は月宮殿裡(り)の特技だが、狸はかちかち山以来、敵役に廻っているので、どうしてのし餅の係になるのか、山家育(やまがそだち)でないわれわれにはその辺の消息を詳(つまびらか)にすることが出来ない。狸の御家の芸はむしろ
すみがまに狸の陰囊のばしけり 靑流
の方であろう。この八畳敷についても古来いろいろな説が行われているが、穿鑿沙汰は面倒だから、しばらくいい伝え通りの畳数に従って置くことにする。
[やぶちゃん注:鬼城の句は所持する「鬼城句集」(初版本復刻版)で踊り字に補正した(「餅」は初版本でもこの字体)。「鬼城句集」の「冬之部」の「餅搗」(同句集は季題部立分類掲載を採っている)の季題の冒頭に掲げられている。ここ(ブログ版)。HTML一括サイト版はこちら、また、同縦書版も用意してある。
「八畳敷についても古来いろいろな説が行われている」Q&Aサイトの回答に、蓮実香佑著「おとぎ話の生物学」(二〇〇七年PHP研究所刊)を元ネタとして(私は未見)、以下のような記載があった。まず、実際の狸の睾丸は、『実際にはタヌキの金玉は小さく、人間の小指の先程しかないという。むしろ哺乳類の中でも小さい部類らしい』。『タヌキが座ったときに、フサフサ大きなしっぽが股の間からおなか側へはみだしている様子が金玉に見間違えられたという説がある』、とし、「八畳敷き」の由来としては、『タヌキの皮は耐久性に優れているため、金箔を作るときにタヌキの皮を利用したことに由来していると言われている』。『タヌキの皮に金の玉一匁(もんめ)を包んで』、『つち打ちして延ばすと』、『八畳もの広さの金箔ができたという』。さらに、寄生虫感染によって陰嚢が異様に膨れ上がる象皮病の一種に罹患した患者が大金玉の狸の話のモデルとなったというような話が紹介されているとある。最後の症例「大金玉」については、私は既に「想山著聞奇集 卷の參 戲に大陰囊を賣て其病氣の移り替りたる事 附 大陰囊の事」で詳細に解析している。是非、お読み戴きたい。]
伝説や昔話の世界では相当幅を利かしている狸先生も、いよいよ一匹の動物として登場する段になると、多くの場合あわれな姿にならざるを得ない。
冬籠(ふゆごもり)厨(くりや)に狸釣(つら)れたり
嘯山
搦置(からめおけ)る狸の面(つ)ラに雪ぞちる
同
ゆき解(どけ)や狸をしばる寺をとこ
大旭(たいきよく)
提(さげ)て出る市の狸や初しぐれ
木因(ぼくいん)
雉子(きじ)は逃(にげ)狸はうたれとしの暮
野坡
初雪に売られて通る狸かな 蘆本
雪中の狸も見方によっては風流であるが、四足を括(くく)られて売りに行かれるに及んでは、かちかち山の老媼(ろうおう)でも騙(だま)さぬ限り、もう復活の見込はあるまいと思う。
雪の山狸ふすべて歸りけり 直人
これだけではまだ攻囲軍の勝利に帰したかどうかわからぬにせよ、進んで
薰(ふす)ぼりて蔦(つた)の哀(あはれ)や狸穴
釣壺(てうこ)
となれば、降将は已に人間の手に落ち、燻(くす)べられた名残(なごり)の蔦の葉が、穴のほとりにあわれをとどめているのである。さすがに狸汁の一段を描いたものはないようだけれども、明治には
藥には狸なんどもよかるべく 露月
という句があるから、なかなか油断は出来ない。
[やぶちゃん注:「露月」石井露月(明治六(一八七三)年~昭和三(一九二八)年)は医師で俳人。秋田生まれ。本名は祐治。秋田中学中退。上京して明治二七(一八九四)年から正岡子規に師事し、新聞『日本』の記者となった。後に医師試験に合格、秋田で開業した。明治三三(一九〇〇)年、島田五空らと俳誌『俳星』を創刊、子規の日本派俳風を広めた。代表句に「草枯や海士(あま)が墓皆海に向く」がある。]
狸は野獣ではあるが、巌穴(がんけつ)のみに住せず、人家近いところへもしばしば出現する。
草庵の火燵(こたつ)の下や古狸 丈艸
行秋(ゆくあき)や狸子をうむ緣の下 玉珂(ぎよつか)
仏幻庵の火燵の下に古狸が居を構えて、時にぐうぐう鼾をかいたりするところを想像すると、自(おのずか)ら微笑を禁じ得ない。狸が縁の下へ来て子を産むなどというのは、いずれ山家の話であろう。狸とわれわれとの間には、化したり燻べられたりする対立関係以外に、こういう親しい交渉もあったのである。
[やぶちゃん注:「仏幻庵」内藤丈草の別号であると同時に、彼の庵の名でもあり、ここは後者。師芭蕉の墓所義仲寺の直近、同じ現在の滋賀県大津市馬場にあった。]
田舎から江戸城の大奥へ奉公に上った女が、何心なく庭を見ていると、狸が一疋縁先近くやって来て、パクパク口を開いて見せた。田舎に育った女の事だから、狸をそうこわがることもないようなものだが、江戸を一概に賑かな処、大奥を立派な処とのみ考えて、広く寂しいことに想い到らなかったため、この不意の出現にひどく驚いたという話を聞いたことがある。しかしこの話にしても一面からいえば、狸の人に親しい点を語ることになるのかも知れない。
春の雪障子を覗く狸かな 米松
夕顏に狸の出(いづ)る小雨かな 賀瑞
というような句を読んでも、別に薄気味の悪い感じは起らぬ。この狸きは可憐なる画裡のものである。
酒買狸も先刻画で御馴染の姿であるが、狸は酒を買うに当って何を使用するか、狐の如く木の葉の小判で目をくらますわけでもあるまいと思うが、その辺のことは委しく知られておらぬ。俳諧にも、
粥(かゆ)焚(たい)て賊歸るなる夜の雨 星府
沙汰ある狸酒買に出る 左言(さげん)
あさましく腐(くされ)の入(いり)し龜の橋
籬雪(りせつ)
などというのがあるから、時にそういう評判の狸が徘徊したと見える。
[やぶちゃん注:籬雪の句の「龜の橋」は不詳。]
狸寝入という言葉は、本物の狸の場合は知らず、人間が借用するようになって頗る横著な意味を帯びて来た。狸の名の下に寝たふりをするなどは、何方(どっち)が化すことに長じているのかわからない。狸や貉はよく睡(ねむ)るものだといい
行く年や貉評定(ひやうぢやう)夜明まで 其角
という句は、しばしば睡るがために評定の纏らぬ意と解せられている。睡りながらの評定では、能率の挙らぬこと、小田原会議以上であろう。二言目には文化を口にする現代といえども、会議の貉評定におわることは存外珍しくない。睡るという点からいえば、
五月闇(さつきやみ)眞に寐(いね)たる狸かな
比松
の如き、よくその本領を発揮したものであるが、あやめもわかぬ五月闇の底に、ひたすら睡(ねむり)を貪(むさぼ)る狸公は、幽暗なるが如くに見えて、妖気はむしろ乏しい観がある。
世に愛狸家はあっても、愛狐家というものはない。狸と狐との相異は、その風采乃至(ないし)性格から来るか、附随する古来の伝説によるか、いずれにせよ一般の狸は、狸爺と称せられる人間ほど腹黒なものではなさそうである。狸爺に対する狸祖母に至っては、これを道具に使った『織留(おりどめ)』の文句にも、「大殿樣の時さへ古狸と名に呼(よび)し百三つになる祖母(ばば)」とあるのみで、格別性格の如何に触れたものがない。俳句にも
蚊やりには出てもいなずや狸祖母(ばば) 十知
というのがあって、前の支考の句と同じく、殊更に燻(いぶ)し立てているようであるが、別に尻尾は出しておらぬ。
[やぶちゃん注:「織留」井原西鶴(寛永一九(一六四二)年~元禄六(一六九三)年)作の浮世草子「西鶴織留」。元禄七(一六九四)年刊。六巻五冊。「本朝町人鑑」(二巻・九話)と「世農(の)人心」(四巻・十四話)から成り、「日本永代蔵」「世間胸算用」と合せて町人物三部作と呼ばれるものの、本書はご覧の通り、遺稿であって、西鶴没後、門人北条団水が編したものである。当該話は「世農人心」の巻首に配された「一 引手になびく狸祖母 算用なしの預り手形 御前に正月の夜あそび」の末尾に出る文句。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]
山家箒(やまがはうき)
炉開(ろびらき)を狸へまはす箒かな 柏十
小はる哉(かな)狸とくるふ木葉搔(このはかき)
常陽
こういう句は狸を憎む人の間から決して生れるものではない。炉開の日に狸へ廻す箒は何の用に立つのか明でないが、寒山拾得然たる木葉搔と嬉戯する狸は正に俳画中のものであろう。作者がそこに何の妖気も感じておらぬことは、最初に「小はる哉」と置いたのを見てもわかる。
木の下に狸出むかふ穂懸(ほかけ)かな 買山(ばいざん)
となれば殆ど家族の一員に近い。物数寄(ものずき)に狸を飼っている農家か、その辺に住む狸と自ら顔馴染になったのか、とにかく犬や猫と同様にこれを遇しているようである。木の下に出迎える狸が少しも無気味でないにかかわらず、その場に姿を現さぬ
人さらに狸のあとをふむ落葉 成美
の句を読むと、寂寥(せきりょう)の気がひしひしと身に感ぜられるのは、場所柄の自(おのずか)らしからしむるところであろうか。
枯柴やたぬきの糞も庵(いほ)の門(かど)
史邦
この句には「幻住庵(げんじゅうあん)にて」という前書がついている。芭蕉の『幻住庵記』には狸の沙汰はなかったが、山居の事だから、あの辺も狸が出没したのであろう。史邦が訪問の際、門前に認めた狸の糞なども、幻住庵裡閑談の一材料になったに相違ないと想像されるのである。
[やぶちゃん注:「幻住庵」滋賀県大津市国分の近津尾(ちかつお)神社境内にあった松尾芭蕉所縁の小庵。ここ(グーグル・マップ・データ)。芭蕉は「奥の細道」の旅を終えた翌元禄三(一六九〇)年三月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していたが、ここで門人菅沼曲水の奨めにより、同年四月六日から七月二十三日までの凡そ約四ヶ月ほど、ここで暮らし、名著「幻住庵記」をものしている。]
こがらしや宙にぶらりと狸の火 隨古
狐火はいろいろなものに出て来るが、狸の火はあまり聞いたことがない。『古今著聞集』に、水無瀬の山に古池があって、そこでしばしば人が取られる。北面の武士薩摩守仲俊なる者が、小冠者(こかんじゃ)一人に弓矢を持たせ、自分は太刀だけ携えて闇夜にそこへ出かけると、池の中が光って何者か松の上に飛び移る。弓を引こうとすれば池に飛び返り、弓を外すとまた松に移る。近づいたのを見たら、その光の中に老婆の笑顔がある。この光物の正体が狸であったという話が書いてある。久米邦武博士の「狸貉同異の弁」の中にも、初は糸車を廻す音が聞えるだけであったのが、後には薄ぼんやりした灯のところに誰かがおって、糸車を廻すという話になったと見えている。「宙にぶらり」と現れる狸の火は、恐らく前の光物の類であろうが、その光は必ずぼんやりしたものであったろう。この特異な句を以て狸の打止とする。
[やぶちゃん注:「小冠者」元服が済んだ直後の若党。
以上は「古今著聞集」の「卷十七 變化」に載る「薩摩守仲俊水無瀨山中の古池にて變化を捕ふる事」。
*
水無瀨山のおくに、ふるき池あり。水鳥、おほく居たり。件(くだん)の鳥を人とらんとしければ、この池に人とり[やぶちゃん注:「人捕り」。人を襲って殺す変化(へんげ)の物の意。]ありて、おほく、人、死にけり。
源右馬の允仲隆・薩摩の守仲俊・新右馬の助仲康、この兄弟三人、院の上北面にて、水無瀨殿に祗候(しこう)の比、おのおの相議して、
「かの水鳥とらん。」
とて、もち繩の具[やぶちゃん注:鳥黐(とりもち)を塗った鳥刺し用の繩。]など用意して行きむかはんとするを、或人、いさめて、
「その池には昔より人とりありて、おほくとられぬ。はなはだ[やぶちゃん注:決して。]、むかふべからず。」
といひければ、
「まことに無益の事也。」
とて、とゞまりぬ。
其中に仲俊一人、おもふやう、
『さるとても、人にいひをどされて、させるみたる事もなきに[やぶちゃん注:そのような怪異現象実際に見たわけでもないのに。]、とゞまるべきかは。けぎたなきことなり[やぶちゃん注:全く意気地のないことではないか!]。われひとりゆきて見む。』
とて、小冠(こくわん)一人に弓矢持たせて、我が身は太刀ばかりうちかたげて[やぶちゃん注:肩に背負って。]、暗夜にて道も見えねど、知らぬ山中を、たどるたどる、件(くだん)の池のはたに行つきてけり。
松の、池へおいかゝりたるがありける、もとにゐて待つ所に、夜ふくるほどに、池のおもて、振動して、浪、ゆはめきて[やぶちゃん注:揺らめき立って。]、おそろしきこと、かぎりなし。弓矢うちはげて[やぶちゃん注:弓矢をつがえて。]待つに、しばしばかりありて、池の中、ひかりて、その體はみえねども、仲俊がゐたる所の松のうへに、とびうつりけり。
弓をひかんとすれば、池へととびかへり、矢をさしはづせば、又、もとのごとく、松へうつりけり。
かくする事、たびたびになりければ、
『この物、射とめむ事は、かなはじ。』
と思ひて、弓をうち置きて、太刀をぬきて待つ所に、又、松にうつりて、やがて、仲俊がゐたるそばへ、きたりけり。
はじめは、たゞ光もの、とこそ見つるに、ちかづきたるを見れば、光の中に、としよりたるうばの、ゑみゑみとしたる形を、あらはして見えけり。
ぬきたる太刀にてきらんと思ふに、むげにまぢかきを、よく見れば、物がら、あんぺいにおぼえければ[やぶちゃん注:その物の怪の様子は、案外、弱そうに感じたので。]、太刀うちすてゝ、
「むず。」
と、とらへてけり。
とられて、池へ引きいれんとしけれど、松の根をつよくふみはりて、ひき入れられず。しばし、からかひて[やぶちゃん注:張り合って。]、腰刀を拔きてさしあてければ、さされては、力もよはり、光もうせぬ。
毛、むくむくとある物、さしころされてあり。
見れば、狸なりけり。
これをとりて、そののち、御所へまいりて、局(つぼね)へ行きて寢ぬ。
夜あけて、仲隆等、きて、
「夜前ひとり高名せんとて行きし、いかほどの事したるぞ。」
とて見ければ、
「すは。見給へ。」
とて、古狸を、なげ出したりけり。
「かなしくせられたり。」[やぶちゃん注:「あっぱれ! でかした!」。]
とて、見あさみけるとなん。[やぶちゃん注:皆人、それを見て、驚嘆したということである。]
*]
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