原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 地獄の門
地獄の門
お祭りの夜だつた。
叔父は薰を自轉車に乘せて走つてゐた。と、警官が叔父を呼留めた。それから二人は警察へ連れて行かれた。薰の顏とそこの机は同じくらいの高さだつた。叔父は頻りに薰の慄へてゐるのを宥めながら云ひ譯した。
「こんなに慄へてるぢやありませんか、今日のところは大目に見てやつて下さいよ。」
薰は警官が今に自分まで調べるのではないかと怖れた。
「なあに心配しなくてもいいよ、何でもないのだ、何でもないのだ。」と叔父は警官の前で薰にさう云つてきかせた。
警察を出て二三町行くと、叔父はまた自轉車に薰を乘せた。薰はまだ警官に追跡されはすまいかとビクビクしてゐた。しかし燈のない自轉車は無事で薰の家に歸つた。
薰の父が旅に立つのを皆で見送つた時のことだつた。
薰は小さいから入場券は要らなかつた。が、叔父は入場券が無くてはプラツト・ホームに入れない筈である。ところが叔父は入場券なしに入つて來たことを薰にだけ打明けた。薰は手品の上手な叔父のことだからそんな事も出來ようと思つた。が、もしか歸りに見つかつたらどうなるのかしらと獨りで心配した。
「まあ見てゐ給へ、うまく行くよ。」
叔父は薰を先に立てて見送人の群のなかに竝んだ。薰が改札口を出て振返つてみると、叔父も悠々と出て來た。薰は手品の種を見損つてしまつた。酒と釣りを嗜んだ薰の叔父は今ではとくに亡くなつてしまつた。
三途の河の岩に腰掛けて、ちびりちびり獨酌しながら彼は靜かに糸を垂れてゐるかも知れない――と薰は想像する。
幼い日、警察を懼れた薰は、少年時代には地獄のイメージに惱まされたものだ。だが、薰の叔父なら、極樂の門だつて入場券なしに這入るにちがいない。
[やぶちゃん注:「ちがひない」はママ。]