進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第八章 自然淘汰(1) プロローグ/一 優勝劣敗
第八章 自然淘汰
さて前章に述べた如く、生物界には常に異種間にも同種内にも劇烈な競爭が日夜絶えず行はれて居るが、異種間の競爭によつて各種の盛衰存亡が定まり、同種内の競爭によつてその種が進化する。而して競爭の際には如何なる標準によつて勝敗が決するかといふに、自然界は前にも述べた如く極めて複雜なもの故、我々が容易に豫め知ることは出來ぬが、その場合場合の生存に適する性質を帶びたものが勝つことだけは確である。然るに自然界は常に成るべく平均の有樣を憚ちて、變化は甚だ徐々であるから、生存に適する性質といふものも、一種類每に就いては千代も萬代も略々變らぬことが多いので、各種の生物は餘程長い間、代々略々同一な標準に隨つて淘汰せられることになり、淘汰の結果次第次第に形狀・構造等に變化が生ずべき筈である。
斯くの如く生存競爭の結果は自然淘汰であるが、自然淘汰によつて生物各種に如何なる變化が生ずるかは、一種每に就いて別に考へねばならぬ。倂し之は無論一朝一夕に出來るものではない。特に生物の身體を成せる各器官の間には、生長の聯關などといふ事があつて、一種の器官だけが身體の他の部分と全く關係なしに獨立に變化することは出來ず、一器官に變化が起れば、延いて殆ど全身に影響を及ぼすこともあるもの故、今日の不完全な我々の知識を以ては、到底十分には論ぜられぬ。この生長の聯關といふこともたゞ經驗上若干の事實が知れて居るだけで、例へば四肢が長く延びれば之と同時に頭も長くなるとか、足に羽毛の生えた鳩には外側の趾の間に膜があるとか、嘴の短い鳩は足が小く、嘴の長い鳩は足が大きいとかいふやうな、一個一個の離れた事實は、飼養者の常に知る所であるが、斯く一種の器官に起る變化が必ず或る他の器官の變化に伴はれるのは何故であるか、如何なる規則に隨つて斯かる現象が起るかといふことは、まだ極めて不明瞭である。之に限らず總べて他の方面に於ても、我々の知識はまだ甚だ不完全なもの故、今日の所ではたゞ大體を論じて滿足するより外に致し方はない。
[やぶちゃん注:「延いて」「ひいて」。副詞。動詞「ひ(引)く」の連用形に接続助詞「て」の付いた「ひきて」の音変化であるが、現在では専ら、強調形の「ひいては」でしか使わない。前文を受けて接続詞的に用い、事柄の範囲がさらに広がることを表わす。「~である事だけにとどまらず、さらに進んで」「それが原因となって、その結果」「~が原因となって結果として」の意。
「趾」音「シ」であるが、鳥類に用いる場合は「あしゆび」(脚指)と訓ずるケースが多い。]
一 優勝劣敗
優つた者が勝ち劣つた者が敗れるのは解り切つたことで、別に説明にも及ばぬやうであるが、生存競爭といふ字も自然界の現象を論ずるに當つては、普通に用ゐるよりは大に意義を廣めて無意識的競爭までも含ませなければならぬやうに、優勝劣敗というても、我々が優者と見倣す者がいつもも必ず勝ち、劣者と見倣すものが何時も必ず敗れるとは限らぬ。たゞその場合に於て生存に適するものが生存するといふ廣い意味であるから、我々が常に劣者と見倣して居るものが却つて生き殘るやうな場合があつても、之は決して優勝劣敗以外の現象ではない。嘗て磐梯山の破裂したとき、達者な者は驚いて一番に家から飛び出して負傷したり死んだりしたが、腰の立たぬ人等は遁げ出すことの出來なかつたために却つて助かつた。之を見て或る人は劣勝優敗だなどと論じたこともあるが、斯かる際には腰の立たぬ方が適者で、達者な方が不適者である。かやうなことが自然界には往々ある故、優勝劣敗といふよりは寧ろスペンサーの用ゐ始めた適者生存といふ文字を取つた方が、誤解せられる恐がなくて穩當であるかも知れぬ。生物界に於て優勝劣敗といふのは、何時でもたゞ適者が生存するといふ意味であるが、これならばいつどこで用ゐても決して例外のあるべき理窟はない。
[やぶちゃん注:「嘗て磐梯山の破裂したとき」本書初版発行(明治三七(一九〇四)年一月)の十六年前、明治二一(一八八八)年七月十五日に発生した水蒸気爆発。ウィキの「磐梯山」によれば、『小磐梯が山体崩壊を起こし、発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の集落』(五村十一集落)『が埋没するなどの被害を及ぼし』、四百七十七名の『死者を出した』。『なお、マグマ由来物質は検出されていないため』、『マグマ水蒸気噴火ではない』。『この噴火は明治になってからの近代日本初の大災害であり、政府が国を挙げて調査、救済、復旧を実施した。調査は関谷清景や菊池安らにより行われた』。『学術的調査としては、当時としては珍しいアンケートの手法が採られており、かなり詳細な噴火の経過や被害状況、写真が収集され、論文としてまとめられている』。『のちに磐梯型との噴火形式名称が残るほど世界的に有名な噴火となった。復旧に当たっては義援金は』三万八千円『(現在の貨幣価値で約』十五『億円に相当)が集まり』、『復興を支えた。また、噴火前年の』明治二〇(一八八七)年に『結成された日本赤十字社初の災害救護活動となり、さらに赤十字活動における世界初の平時救護(それまでは戦時救護のみ)ともなった』。『この山体崩壊で生じた土地の多くは』、『当時の官有地であったため』、『民間の資金と労力を利用した植林事業が行われ、泥流堆積地の』七『割を』三十一年もかけて、緑化したのであった、とある。]
斯くの如く適者も不適者も初めから定まつたものでなく、場合次第で違ふことがあり、隨つて生物個體の存亡の標準はその時々の事情に應じて異なるものであるが、この事情といふものの中には年々歳々絶えず變らぬものもあれば、また一囘限で前にも後にもないものもある。磐梯山破裂の如きはたゞ一囘限りで再びあるかないか知れぬことであるが、敵に食はれぬための競爭、餌を食ふための競爭の如きは、年々引續いて決して絶
えることはない。斯く二種類ある中で敦れが自然淘汰に必要であるかといふに、凡そ動物でも植物でも淘汰の結果の現れるのは、代々同一の標準によつて長い間絶えず淘汰の行はれることが必要である故、單に一囘限りよりない事件は、生物の進化に向うては殆ど何の影響も及ぼさぬ。之に反して如何なる事情でもたゞ長い間絶えず引き續きさへすれば、生物個體の存亡の標準の一部分は常に之によつて定まるから、生物進化の一原因となることが出來る。敵より逃れるための競爭、餌を取るための競爭等はその最も著しいものであるが、一地方に於て偶然稀に起る事件も、他の地方では規則正しく常に起るやうなこともある故、甲の地方で生物進化の原因として働かぬ事件が、乙の地方では明に斯く働く場合がないとも限らぬ。例へば昆蟲の如きは蟻を除けば、その他は通常蝶でも蜂でも蟬でも蠅でも、皆翅を以て飛ぶものばかりで、翅の發達して居ることが生存の一條件となつて居る程であるが、大洋の眞中にある小島の常に風の烈しい處には、翅のない飛ばぬ昆蟲が甚だ多い。マデイラ島には甲蟲の種類が五百ばかりもあるが、その中半分は飛ぶ力のない種類である。また印度洋の南方にあるケルゲレン島に産する昆蟲は悉く飛ばぬ種類ばかりである。之は或は代々翅の發達した善く飛ぶものは風に吹き飛ばされて海中に落ちて死んでしまひ、餘り飛ばぬものが生き殘つたために、自然淘汰で斯くの如くになつたのかも知れぬ。若しさうとしたならば、この場合では前の磐梯山の例の如く、翅の弱いものが適者で翅の發達したものの方が不適者である。斯くの如く如何なる性質を帶びたものが適者で、如何なるものが不適者であるかは、前から豫め知ることの出來ぬもので、たゞ競爭の結果より見て生存した者をその時の適者と認めるより外はないが、生活の有樣の略々解つて居る場合には、如何なる個體が競爭に勝つべきであるかを前以て推し考へることが出來る。
[やぶちゃん注:「マデイラ島」マデイラ諸島(ポルトガル語:Arquipélago da Madeira)。北大西洋上のマカロネシアに位置するポルトガル領の諸島で、ポルトガルの首都リスボンから南西に約一千キロメートルの海上にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「ケルゲレン島」ケルゲレン諸島(フランス語:les îles Kerguelen)。南インド洋にあるフランス領南方・南極地域の島々の総称。ケルゲレン島(La Grande Terre)を中心に約三百の島で構成されている。風が強く、海は常に荒れている。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
つまる所、實際生き殘つた個體は無論生き殘るべき理由があつて生き殘つたのであるから、その理由を有したものを優者と名づけるに過ぎぬ。この點を誤解すると、前の如き例を引き出して生物界に優勝劣敗の反對の場合があるなどといふ議論も起るが、こゝに述べた意味に取れば素より反對の場合のあらう筈はない。而して外界の事情に著しい變化が無ければ、生存競爭に於ける個體の存亡の標準にも餘り變化が起らぬから、代々同一の標準に隨つて自然淘汰が行はれ、終に生物種屬に著しい進化を惹き起すに至るのである。
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