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2017/12/20

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十二年以前 最初の詩「聞子規」

 

     最初の詩「聞子規」

 

 子規居士の生れたのは慶応三年九月十七日である。三歳にして火災に家を失い、六歳にして父君を襲った居士の幼年時代は、決して幸福なものではなかった。幼時における居士は雛祭、七夕の如き女らしき遊びを好み、火災に焼失を免れた庭園の植物の花を見るのを何よりの楽とした。後年「わが幼時の美感」なる文章にその頃の事を回想して、「幼時より客觀美に感じやすかりしわれ」といい、「我家をめぐる百步ばかりの庭園は雜草雜木四時芳芬(はうふん)を吐いて不幸なる貧餌を憂鬱より救はんとす」と記してある。この事は居士の文学における傾向を考える上に、何らかの暗示を与えているように思う。

[やぶちゃん注:「慶応三年九月十七日」一八六七年十月十四日。ウィキの「正岡子規」によれば、子規は『伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女』。明治五(一八七二)年(子規五歳)、『父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、後に勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け』、『政談にも関心を熱中したという』とある。以下、本文の年齢は総て数えである

「わが幼時の美感」明治三一(一八九八)年十二月発行の『ホトトギス』初出。「青空文庫」のこちらで読める。引用文は原文と校合して一部を訂した。

「芳芬」香(かぐわ)しい香り。良い匂い。]

 明治八年、居士九歳の時、外祖父大原観山翁が没した。観山翁は一藩の儒宗(じゅそう)として多くの尊敬を得た人である。居士はこの人に就(つい)て素読を学んだ。たまたま「余の幼なる時も汝程は遊ばざりし」という訓戒を受けて、勉強しなければならぬという奮発心を起したことが居士の書いたものにある。観山翁は学者として居士に影響を与えた最初の人であり、遺伝的にいっても、居士はその好学の性質を享(う)けたと見るべきであろう。

[やぶちゃん注:「大原観山」(文化一五・文政元(一八一八)年~明治八(一八七五)年)は伊予国出身の儒者。本名は有恒。ウィキの「大原観山」によれば、『正岡子規の外祖父にあた』り、『伊予松山藩士加藤重孝の次男として生まれ、大原家の養子となる。歌原家の長女と結婚し、昌平坂学問所舎長を経て、松山藩藩校明教館教授とな』った。『明治維新後は、私塾で孫の正岡常規(後の子規)を教えていた。亡くなるまで』、『丁髷を切ることはなかった』とある。

「儒宗」代表者や師と成るべき優れた儒者のこと。

『「余の幼なる時も汝程は遊ばざりし」という訓戒を受けて、勉強しなければならぬという奮発心を起したことが居士の書いたものにある』以下は、子規の随筆「筆まか勢」第一編の「當惜分陰」(明治二二(一八八九)年筆)に出る。引用文は原文と校合して一部を訂した。標題は「當(まさ)に分陰を惜しむべし」で「当然、僅かな時間をも惜しむべきである」の意)。]

 今伝わっている居士の作品中最も古いのは明治十一年(十二歳)の夏に作った左の一絶である。

 

   聞子規

  一聲孤月下

  啼血不堪聞

  半夜空敧枕

  古都萬里雲

    子規を聞く

   一聲 孤月の下

   血して啼けり 聞くに堪へず

   半夜 空しく枕に敧(よ)りぬ

   古郷 萬里の雲

 

[やぶちゃん注:底本では承句を『血をはきて啼(な)けり、聞くに堪(た)へず』と訓ているが、私は従えなかった。]

 

 この頃居士は毎日五言絶句を一つずつ作り、観山翁歿後の素読の師であった土屋久明に添削を乞うた。その最初の作品が「聞子規」であったのは、偶然にして偶然でないような気がする。自ら子規と号するより十年も前の話だからである。観山翁の塾生が朱を加えられた詩稿を持っているのを見、朱黒相交(あいまじわ)る美しさに感じて、自分も早く年を取って詩を作るようになりたいと思ったのが、意外に早くその日が来たのであった。

[やぶちゃん注:『春や昔~「坂の上の雲」のファンサイト~』の「登場人物」のこちらに、『松山藩の儒学者で、明教館の助教授を務めていた人物。大原観山の依頼で子規に漢学を教えていた。 解らない字が出てきた場合でも誤魔化すようなことはせず、子規らを待たせて字引で一々引いてから教える堅実な人物であったという。家禄奉還金を使いきった後、食を絶ち』、『餓死した』。『子規と共に学んだ三並良は後に「土屋三平先生」と証言しており、柳原極堂は著書の中で「久明」が字、「三平」が通称ではないかと推測しているが、子規追悼の座談会席上で近藤我観が「久明と三平は別人」と証言したことも記している』とある。]

 居士の文学趣味は詩作に端を発して以来、いろいろな形を以て現れるようになった。松山中学校に入学した明治十二年(十三歳)には、友人と共に『桜草雑誌』『弁論雑誌』『故山雑誌』などの小回覧雑誌を作っている。半紙四ツ折の大きさに毛筆で記したもので、十三年から十四年へかけて作った『莫逆詩文』『五友雑誌』『雅懐詩文』『雅感詩文』なども皆同じ形のものである。五友というのはその頃最も親しかった詩文の仲間で、太田柴洲(おおたさいしゅう)(正躬(まさみ))、竹村錬卿(たけむられんきょう)(鍛(きたう))、三並松友(みなみしょうゆう)(良)、安長松南(やすながしょうなん)(知之(ともゆき))及(および)居士の五名を指す。当時の居士は香雲と号していた。居士の家は中ノ川に臨んでいたため、「中水」の号を習字の師より与えられたが、あまり用いる機会がなかった。「香雲」は武智五友の揮毫にかかる額の字をそのまま号にしたので、居士の庭に一株の老桜があって、庭の半(なかば)を蔽うに因んだものである。前年の雑誌に『桜草雑誌』などと名づけたのも、けだしこの一樹の縁によるのであろう。この時代の詩文は河東静渓翁(竹村黄塔(こうとう)、河東銓、同碧梧桐氏らの厳父)の添削を乞うを常としていた。けれども少年時代の居士は、学業の余暇を詩文に銷(しょう)していただけではなかった。大会堂の寄席に軍談を聞きに行くこともあれば、貸本屋から借出した本を耽読したこともある。『水滸伝』や『八犬伝』の中の名文に逢着すると、これを写し取るということさえやっていた。居士は少時より字が達者で、写本をする労などは何とも思わなかったらしい。この事は後年の仕事と或関連を持っている。

[やぶちゃん注:「太田柴洲」太田正躬(生没年未詳)は明治二一(一八八八)年に東京商業学校(現在の一橋大学の前身)を卒業、府立大阪商業学校に赴任している。

「竹村錬卿」竹村鍛(慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年)。河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、先に出た河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。別号、黄塔。

「三並松友」三並良(みなみはじめ 慶応元(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)は牧師。明治一六(一八八三)年に東京の「獨逸学協会学校」に入学、ドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーの感化を受け、四年後の明治二〇(一八八七)年に新教神学校に入学、卒業後は「普及福音教会」の設立に参加し、教会の機関紙『真理』の編集に携わった。明治二四(一八九一)年に壱岐坂教会の牧師になったが、その後、「普及福音協会」を離れ、「ユニテリアン」(キリスト教の伝統的な核心的真理とされてきている「三位一体」(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称。イエス・キリストを宗教指導者として認めるが、その神としての超越性を否定する立場に立つ一派)に加わった。明治三三(一九〇〇)年には「日本ゆにてりあん協会」機関紙『六合雑誌』の編集長となった。後に、「ユニテリアン」の牧師となり、「日本ゆりてりあん協会」会長を務めた(以上はウィキの「三並良に拠った)。

「安長松南」安長知之(生没年未詳)は事蹟不詳。後に森姓を名乗ったか。]

 そのうちに若い居士の心を揺り動かすような、新時代の波が起って来た。自由民権の声がそれである。当時の岩村(高俊)県令も、中学校長草間時福氏も、熱心な自由民権の宣伝者で、街頭に立って政談演説をやる位であった上に、同志社一流の雄弁家が土佐からやって来ては、頻(しきり)に演説会を開催するという風であったから、中学生たる居士も自然その感化を受け、演説会へ聞きに行くだけでは満足出来ず、寺の本堂を借りて自分でも演説を試みるまでになった。後年居士は当時のことを顧みて

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げである。以下は、引用元が不明であるので、恣意的に概ね、漢字を正字化した。続く「演説会の草稿」の標題も同じ処理を施した。]

 

 この時余は中學校にありながら学課は全く抛(なげう)ち去りて、たゞ夜ごとに寺院學校などを借り受け、學友十人ばかりと共に「自由の權利」「參政の權利」などと演説するを無上の快樂とはなしたるなり。今よりして思へばこれも自由黨の餘波を受けし者なるべし。

 

と述べている。これは居士の一生を通じて、そう意義のある時代ではなかったかも知れぬが、新時代の空気の影響を受けた点で、看過すべからざるものであろう。「自由何くにかある」「諸君まさに忘年會を開かんとす」「天まさに黑塊を現さんとす」など、当時の演説会の草稿とおぼしきものが裁つか遣っている。これらは明治十五年から十六年――居士の十六歳から十七歳へかけての出来事である。

 明治十六年五月、居士は諸友と共に故山中学を退(しりぞ)いた。

 

  故山中學只虛名

  地少良師從孰聽

  言道何須講章句

  染人不敢若丹靑

  喚牛呼馬世應毀

  今是昨非吾獨醒

  忽悟天眞存萬象

  起披蛛網救蜻蜓

   松山中學は 只だ虛名

   地に良師少なく 孰れに從ひて聽かん

   道を言ふは 何ぞ章句を講ずるを須(ま)たん

   人を染むるは 敢へて丹靑に若(し)かざらんや

   牛を喚び 馬を呼びて 世 應(まさ)に毀(こぼ)たんとし

   今は是(ぜ) 昨は非にして 吾 獨り 醒(さ)む

   忽ち 天眞 萬象の存するを悟り

   起(た)ちて 蛛網(ちうまう)を披(ひら)きて蜻蜓(せいてい)を救ふ

 

[やぶちゃん注:底本の訓読文では、「世應(まさ)に毀(こわ)れんとし」、「天眞の萬象を存するを悟り」とするが、従えない。「蜻蜓(せいてい)」は一般には昆虫綱蜻蛉(トンボ)目不等翅(トンボ)亜目ヤンマ(蜻蜓)科 Aeshnidae 等に属する大型の蜻蛉の通称である「やんま」のことであるが、日本最大種のトンボであるオニヤンマ科 Cordulegastridaeオニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii はこれに含まれず、ヤンマ科でない種(例えば、サナエトンボ科 Gomphidae Hageniinae亜科コオニヤンマ属コオニヤンマ Sieboldius albardae や、サナエトンボ科ウチワヤンマ亜科 Lindeniinaeウチワヤンマ属ウチワヤンマ Sinictinogomphus clavatus も和名に「ヤンマ」が附されるから、ここは寧ろ、蜻蛉(とんぼ)類の中の大型種や大型個体を指していると採るのがよい。]

 

の一詩がある。この退学についての委しい事情はわからぬが、当時已に東京にあった三並良民(居士の再従兄(またいとこ))に与えた手紙を見ると、上京の志勃々として禁じがたきを述べ、同窓の士の出京せんとする者相次ぐ旨が記されているから、東都遊学の前提として退学を決行したものであろう。

 居士の上京が実現したのは、叔父加藤恒忠氏(号拓川、大原観山翁の第三子)の書簡を得てからで、加藤氏は遠からず欧洲に赴くことになっていたため、その前に来いということで急にきまったらしい。事決するに及び、明教館の演説会に臨んで一場の演説を試み、ひそかに留別の辞とした。前年末の演説会において「河流は鯨鯢(げいげい)の泳ぐ所に非ず、枳棘(ききよく)は鸞鳳(らんぽう)の棲む所に非ず、海南は英雄の留まる處に非ず、早くこの地を去(さり)て東京に向ふべし」と論じた居士が、爾後半歳にして東上の機を得たのだから、得意の状想うべきものがある。いよいよ故山を発して上京の途に上ったのは六月十日の正午であった。

[やぶちゃん注:「演説会」の知られた台詞部分は恣意的に正字化した。「鯨鯢」「鯨」は雄の鯨、「鯢」は雌の鯨で、古くは「けいげい」とも読んだ。大魚の謂い。「枳棘」枳殻(からたち)や茨(いばら)の悪しき草木の生えた悪所。「鸞鳳」想像上の聖獣である鸞鳥と鳳凰(ほうおう)。君子・高邁な理想に燃える同志・夫唱婦随の夫婦の譬え。「海南」四国。

「得意の状想うべきものがある」「得意の状」(じょう)、「想」(おも)「うべきものがある」。]

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