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2017/12/24

自由畫   原民喜

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年九月号『草莖』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅱ」の「エッセイ集」に拠った。歴史的仮名遣を用いており、拗音表記もないので、彼の原稿を電子化してきた経験から、漢字を恣意的に正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。一部の有意な行空けは底本のママである。

 ここで行われる幼少の甥の描いた絵のトランスクリプションは素晴らしい。原民喜が永く生きて、多くの絵画作品をこうして私たちに語ってくれたら、どんなにか素晴らしかったことであろう。残念でならぬ。

 「南京陷落」は昭和一二(一九三七)年十二月十三日

 「靑島が陷ちた時」第一次世界大戦中の大正三(一九一四)年、ドイツ帝国の東アジアの拠点であった青島(チンタオ)を日本・イギリス連合軍が攻略した「青島の戦い」は、同年十一月七日の連合軍の勝利で終わった。原民喜、満九歳になる直前(彼は明治三八(一九〇五)年十一月十五日生まれ)で、県立広島師範学校付属小学校の小学二年生であった。

 「銷夏」「せうか(しょうか)」。暑気払い。

 「大人(おせ)」中国・四国・九州地方で広く見られる方言。「大兄」が元か。

 「惠女君」「けいじょぎみ」(現代仮名遣)と読んでおく。妻の貞恵のことと思われる。

 「一そのこと繪を寫眞版で入れてもらふといい」私も彼女に全面的に賛同する。

 「大魚氏」掲載誌『草莖』の編集者であろうが、不詳。

 本篇は現在、ネット上には電子化されていないものと思う。【2017年12月24日 藪野直史】]

 

 

 自由畫

 

 今年の二月、廣島の兄の許へ行つた時、私は甥の描いた一枚の自由畫を見せてもらつた。南京陷落祝の提燈行列の畫で、なかなか面白いので、私に呉れないかと云つたら、「先生がまだ持つて來いと云ふかもしれないから要るんぢや」と威張つて居たが、結局、歸る時私ほそれを貰つてポストンバツグの底に入れて居た。そして、私は私の書齋の壁にその畫を鋲で留めて、朝夕眺めて來た譯だが、今、この一文を草するにあたつて、鋲をはづして机の上に置いて眺めて居る。

 

 この南京陷落祝賀提燈行列の畫の作者は、當時尋常一年生で、原三四郎といふ人で、私の兄の第三番目の子供であるが、私はこの甥に兼てから興味を抱いて居る。何故かといふと、この人の風格は子供には珍しい位の落着と、聖者のやうなユーモアを湛へて居て、浮世離れがして居るからだ。

 この人がもつと幼かつた頃、なかなかものが云へなかつたため、叔母(つまり私の妹だが)が一生懸命發音を教へて居たが、やがて、ものが云へるやうになると、叔母に對つて、「ねえさんが、あーいへ、かーいへ、いうていひよつたぢやあないね」と、その當時の記憶をつまびらかに述べて驚かせたさうだ。作者の紹介はこれ位にして、作品に就いて述べよう。

 

 この畫は縱二五糎、橫二九糎八粍の畫用紙にクレーオンを用ひて描かれてゐる。右上の隅に『雪』といふ判が押してあるが、これは先生が採點の印に押したのだらう。雪といふのは、雪・月・花で、つまり、甲といふ意味にでもなるのだらうか。

 提燈は全部で二十三箇、畫面の上半分を占めて、梅干ぐらゐの大きさに赤のクレーオンで濃く塗られてゐるが、下の方の一つだけ、色が淡くなってゐるのは、僅か一時間で描いたのだから時間が足りなかつたのだらうか、それとも、燈が消えた一箇の提燈を現してゐるのか、私には不明である。この賑やかな提燈に照し出された空は、黑と靑の線によつて塗られ、何時もの空より明るいことを感じさせる、提燈の柄(といふより竿かも知れないが)長、短、とりどりで、大概前の方へ向けられてゐるが、三箇だけ後の方へ跳ね返つてゐるのは、途中で誰か識り合つた顏と出違つた提燈が、浮かれて萬歳を叫んでゐるのだらう。

 畫面のほぼ中央に奇妙な黑い塊りが一つあるが、それは人間の顏を描き損じて、自動車に直し、當意卽妙の解決を與へたものらしい。群衆の頭上に見える、一臺の黑い自動車はその夜の雜沓を暗示してゐるやうに私には想へる。

 人は何人居るか數へてみたところ、はつきりした姿は凡そ十九人あつたが、あとは漠然と描かれて居る。そのうち、眼に着くのは近くの六人であるが、先頭の男と、その次の女が一番大きく描かれてゐる。

 先頭の男は茶色のソフトを被り、釦が五つ着いた黑の上着を着、茶色の半ズボンを穿いてゐて、いかにも先頭の人らしく、まつすぐ堂々と步いてゐる。その次の女の人は茶と綠の混つたオーバーコートを着て、赤いスカートを着け、先頭の男に從ふが如き風情を示して居る。先頭の男の眼が簡潔な圓に描かれてゐるのに比べて、この女の眼は楕圓形にされ、徴妙に暈(くま)どられてゐる。

 私はこの先頭の男の顏が、どうも、作者自身の顏と、作者の父親の顏とに類似してゐるやうに思へてならない。さう思ふと、その次の女が作者の母親の顏とまたよく似てゐるのである。作者は恐らく、無意識に自分や自分の兩親をモデルに用ひたのではあるまいか。その他の人も、はつきり誰と指示することは出來ないが、多分近所の誰彼にモデルがありさうだ。

 男の子の洋服には、きまつて釦が五つ着いてゐるが、一人だけ、あまり背を低くしたため、どうしても三つしか釦が着かなかつた。

 

 私もその昔、靑島が陷ちた時、提燈行列に行つたが、廣島の街は川があり、川に提燈の燈が映り、山があり、山に提燈の燈は登つて行き、子供心に恍惚としたものであつた。この畫の作者も全體として、一つの恍惚を描かうとしたものであらう。

 

 さて、この銷夏隨筆を私の甥に讀ませたら、彼は何と云ふであらうか。――つい何の氣なしに描いたものを大人(おせ)は何とか彼とか理窟をつけるものぢやのう、と、三ちやんは呆れるであらうと、これは惠女君の憶測である。

 その他、この拙文に關する惠女君の批評を列記すると、――これはまるで繪の批評ではないか、一そのこと繪を寫眞版で入れてもらふといい、これを讀んだ人の眼の前に多少でも繪が浮んで來るかしら、等々。

 ――實は大魚氏に速達で命令され、時間がなかつたので、自由畫のつもりで書いたのである。

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