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2017/12/05

柴田宵曲 俳諧博物誌(18) 雀 三 / 雀~了

 

       

 

 子供の時分に雑誌で読んだきりだから、何に出ている話か知らない。中山公明卿の弟の某という少年が、光格天皇の御側にあった時、歌を詠んで見せよとの仰を蒙って、折からの初雪を題に「初雪に雀の足はつめたかろわれは積るが嬉しかりけり」という一首を奉った。叡感浅からず御嘉賞の御言葉を賜ったが、時にその少年は八歳だったというのである。

[やぶちゃん注:出典不詳。識者の御教授を乞う。

「中山公明」この人物そのものが不詳。羽林家の家格をもつ公家で藤原北家花山院家の支流の中山家(花山院忠宗の子中山忠親を祖とする)の系統の人物かと思って調べたが、支流にも見当たらない。識者の御教授を乞う。

「光格天皇」(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年)は江戸時代の第百十九代天皇で、在位は安永八年十一月二十五日(一七八〇年一月一日)から文化十四年三月二十二日(一八一七年五月七日)で第十一代将軍徳川家斉の治世であった。参照したウィキの「光格天皇」によれば、『傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった』とある。]

 こういう話は一種の人物伝説に属するから、仮令(たとい)昔の本に出所が明記してあったところで、直に実話と断ずるわけには往かぬ。この少年は後来有名な歌人になったというのでもなし、惜しいことにその名も伝わらぬというあたり、何だか事実らしくもあるが、別の点から疑問とせざるを得ないのは、元禄十六年版の『当座払』に

 

 雪降や雀の足がつめたかろ   つや女

 

の一句が存することである。『当座払』は惟然(いぜん)に師事した千山の撰集で、全巻を通じて方言俗語を用いた句が非常に多い。この句も肩書に「大津」とあるだけで、大人とも子供とも断ってないが、子供の句でなくても誰も怪しまぬほど、この書には同じような調子の句が充ちている。つや女の一句を土台にして、中山公明卿の弟という少年に附会した伝説が生れたか、雪を踏む雀の足の冷たさを思い遣るが如きは、子供の考(かんがえ)としてむしろ普通なものだから、偶然暗合したに過ぎぬか、いずれにせよ元禄に先蹤(せんしょう)があるとすれば、後の名歌の影は薄くなる。「雀の足がつめたかろ」までは童謡的思想と解し得ても、「われは積るが嬉しかりけり」は一度大人の頭を透過した子供らしさである。かたがた以て歌の方は疑問としなければならぬ。尤も雪に雀はあらゆる配合の中で最も平凡なものである。

[やぶちゃん注:「元禄十六年」一七〇四年。第五代将軍徳川綱吉の治世。]

 

 初雪や雀の足の三里たけ       其角

 初雪や雀の扶持(ふち)の小土器(こかはらけ)

                   同

 朝雀雪はく人をはやしけり      支考

   別莊

 初雪や竹に雀をかざるほど      支考

 

というような有名な作家の句をはじめ、

 

 雪の井に雀聲する野中かな      一笑

 日を荷ふ雪の雀の背中かな      りん女

 雪の松一かい下は雀かな       東潮

 雪に猶(なほ)なぞわらやのむら雀  露紅

 竹の雪落(おいち)て夜るなく雀かな 塵交

 よそ外に思はぬ雪の雀かな      千川

 雪降て馬屋にはひる雀かな      鳧仙(ふせん)

 牛の尾にくるふ雀や雪の上      臥高

 雪を待(まつ)雀の觜(はし)や小雀口(すずめぐち)

                   助然

   芭蕉翁十三囘忌追善

 雪ちるや竹に雀はおさだまり     使帆

 

という風に、いくらでも出て来る。しかもその多くが平凡で面白くない。雪の降り積った野中の井のほとりに雀の声がするという一笑の句が、平凡な中でやや生趣がある位のものである。「竹に雀はおさだまり」であるばかりではない。雪の雀もまた「おさだまり」たることを免れぬ。特に雪と竹とを併せ配したものに至っては平凡の二乗で、十一歳という肩書のある少年ですら、

 

 枝ながら雀折たし雪の竹       吟朔

 

の如き月並句を遺している。少年俳句が常に純真で清新なものと心得るのは、少年の通弊たる追随性や模倣性を勘定に入れぬ人の錯覚であろう。

[やぶちゃん注:「三里」灸点の一つである足三里。膝頭の下、約三寸(約六センチ)の脛骨の外側部にある。

「芭蕉十三囘忌」宝永三(一七〇六)年。芭蕉の逝去は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)であるから、宝永三年の祥月命日は一七〇六年十一月十六日に相当する。]

 雪の句の平凡なのに比べると、同じ冬季でも他の風物に配した句の方が遥に特色を具えている。

 

 食堂)じきだう)に雀啼(なく)なり夕時雨(ゆふしぐれ)

                    支考

 こがらしや廊下のしたの村雀      夕兆

 冬空や雨もとぎれてむら雀       野坡

 雹(あられ)にも怪我せぬ雀かしこさよ 杉風

 みぞれふる庇(ひさし)の間(あひ)や友雀

                    昌房(まさふさ)

 刈蕎麥(かりそば)の跡の霜ふむ雀かな 桐奚(とうけい)

 

 これらはいずれも天文に属する句であるが、一つ一つが生々と動いている。寺の食堂に啼く時雨の夕雀、木枯の吹き荒(すさ)む廊下の下の雀、霙(みぞれ)降る庇間になく雀――舞台は建築物の一角に限られており、大体の空気も似たり寄ったりであるにかかわらず、雪の雀のような常套的の感じでない。雨がとぎれてなお晴れやらぬ空の下の雀なども、漠然たる中に冬らしい寒さを捉えているから妙である。童心に触れるという点からいっても「雀の足がつめたかろ」よりは「雹にも怪我せぬ雀」の方が清新であるかも知れぬ。この雹はヒョウでなしにアラレの方である。

 竹に雀は陳腐であるが、柳に雀となると、配合の上で僅に常套を脱して来る。殊に蕭条たる冬枯の柳になれば尚更である。「枯柳雀止りて色もなし 水巴」という明治の句は、色彩の上からこの配合を見て、何ら目立たしいところのない趣を詠んだものであろう。元禄の俳人は同じ配合に目をつけながら、色彩に重きを置かず、

 

 枯柳雀の腹の見えにけり   旦藁(たんこう)

 

という句にしている。「枯柳腹の見えけりむら雀」となつている本もあるようだが、句意に大した変りはない。「むら雀」といえば、その柳の雀の複数であることがはつきりするまでの話である。枯柳に止る雀が色彩の上で目に立たぬというのも、白い腹が目につくというのも、蕭条たる冬の眺として同じことになるのかも知れぬ。

 狂言の「酢薑(すはじかみ)」に「住吉の隅に雀が巢をかけてさぞや雀はすみよかるらん」という歌が出て来る。酢売が引用するだけあって、すの字を畳みかけたところが身上なのであろうが、俳諧にも二、三この歌を据えたものがある。

 

 住よしの隅に雀や松かざり     專吟

 住吉のすみに雀やす蛤(はまぐり) 才麿

 

 これが更に一転すると、其角の「隅に巢を鷺こそねらへ五月雨」になるので、雀を離れると同時に、趣向の上でも其角らしい転化を見せている。但(ただし)この事については柳亭種彦が『足薪翁記(そくしんおうき)』の中に多くの句を引いて、一流の考証を試みているから、ここには省略しよう。『足薪翁記』には「す蛤」の句の作者が「正俟(せいし)」となつているが、何方がいいのかわからない。

[やぶちゃん注:『狂言の「酢薑(すはじかみ)」』小学館「日本大百科全書」の油谷光雄氏の解説に拠れば、『藁苞(わらづと)に薑(山椒(さんしょう)または生姜(しょうが)の古名)を入れて売り歩く男と、竹筒に入れた酢を売る男(シテ)が出会い、自分に挨拶(あいさつ)なしには売らせないと互いに言い張り、商人司(あきうどのつかさ)(商人の元締め)になったそれぞれの由緒を披露して争う。薑売りは「からこ天皇の御時」に始まる薑の辛さにちなんだから尽くしで述べ立てると、酢売りは「推古(すいこ)天皇の御時」とす尽くしで対抗する。これではらちがあかぬと、都へ上る道すがら「から」と「す」との秀句合戦を繰り広げるが、みごとな洒落(しゃれ)の応酬に意気投合し、笑って別れる。酢と薑の商売物にちなんだことば遊びが小気味よいテンポで繰り広げられ、一服の清涼剤のような狂言に仕上がっている、とある。宵曲の引く和歌は、酢売りの由緒話に出る。

   *

さても、推古天皇の御時、一人の酢賣り、禁中を賣り步く、帝、これを聞こし召し、「あれは如何に」と御じようある。「參候、あれは酢と申していかにも酢き物にて候」と申し上げられければ、「さあらば、その酢を召せ」とて召されしに、すい門を、するりと通り、すの子緣に出で畏まる。帝、墨繪の、襖を、スルスルと開けさせ給い、するすると御出あつて、その時の御詠歌に、

 住吉の 隅に雀の巢を組みて さこそ雀の 住みよかるらん

と遊ばされ、その後、いかにも、好き、御酒を、下されてより此の方、酢は賣り物の司じやほどに、某(それがし)へ一禮なくば、そのはじかみは賣らすまい。

   *

という台詞に出てくる(以上の原文は「立命館大学能楽部」公式サイト内の『狂言「酢はじかみ」研究』の電子データを加工させて貰った)。

「足薪翁記」江戸後期の戯作者柳亭種彦(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)の考証随筆(遺稿か)。当該部は「上」の「四 一 角(すみ)に雀」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。但し、草書写本。其角の句は同条の一番最後に出る。ここ。]

 雀に関する文学としては大正年代に北原白秋氏の『雀の生活』及『雀の卵』がある。前者は散文詩、後者は歌集で、各々描く所を異にするけれども、雀に対してこれほど多くの観察を試み、これほど多くの作品を収めた書物は前後に見当らぬ。俳諧の雀はかなり多方面にわたっているにかかわらず、斯の如く一点に集中した書物はない。雀文学の巨擘(きょはく)としては何人も白秋氏の二著を推さざるを得ぬであろう。

[やぶちゃん注:「雀の生活」大正九(一九二〇)年刊。宵曲は「散文詩」などと言っているが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で見て戴ければ判る通り、壮大な目次と内容で、これは北原白秋の雀の随想大成であり、恐らくは文芸的な雀の博物誌的著作の大著と言ってよい。

「雀の卵」大正一〇(一九二一)年、白秋が三十六歳の頃の歌集。「青空文庫」のこちらで読める。

「巨擘」原義は親指で、転じて、同類の中でも特に優れた人物、指導的立場にある人を指す。]

 

 名月や竹を定むる村雀        其角

 月代(つきしろ)や雀こそつく藪の中 囘虎

 

 これらは俳諧にあっても珍しい月夜の雀である。「月讀(つくよみ)の光の紅(あか)く射すところ雀は啼けり軒の古巢に」とか、「巢の中にいくつ卵をまもればか雀は寢ぬぞ春の月夜に」とかいう白秋氏の歌に比べたら、抒情味は乏しいにせよ、とにかく元禄期の俳人が已にこの世界を窺っていることを認めなければなるまい(白秋氏の歌に近い点からいえば、子規居士の「寐(ね)おくれて鳴くや月夜の雀の子」という句も、ここに挙げて置いた方がいいかも知れぬ)。

[やぶちゃん注:「月讀(つくよみ)の光の紅(あか)く射すところ雀は啼けり軒の古巢に」先の歌集「雀の卵」の「序歌」の「二」に出る一首。

「巢の中にいくつ卵をまもればか雀は寢ぬぞ春の月夜に」同前で、「春は軒の雀が宿の巢藁にも紅あかき毛糸の垂れて見えけり」を第一首として前の歌の次に並んで載る。「序歌」の「二」はその三首のみである。

「寐(ね)おくれて鳴くや月夜の雀の子」明治二八(一八九五)年の句と思われる。]

 俳人の中にも白秋氏の如く特に雀に興味を持った人がいたかどうか、事実の上の調査は第二として、雀の句を多く遺した人に野坡がある。野坡の句はこれまでも度々引用してあるが、最後にやや毛色の変ったものとして左の数句を挙げなければならぬ。

 

   草庵を盜人におそはれて

 垣穿(うが)つ雀ならなくゆきのあと   野坡

   五十年に近き人の初子を

   儲けられけるを眞兒と名

   をつけて

 孫も子も分らぬ雪のすゞめかな      同

   伊賀の山里に石を燒木(たきぎ)

   とすることあれば香に匂へうに

   掘岡の梅の花といにしへ翁の吟

   じ給へる此石に其色はことなり

   といへ共筑前木屋の瀨と云(いふ)

   邊りは石を煙らせて朝夕用る宿

   にとまりて

 薪石(まきいし)や薰(くんず)る軒の花 同

 

 一番目と二番目は雀に人事を寓したのであるが、こういう場合に雀を持出すということが、野坡と雀との交渉について何かを語るものであろう。三番目は石炭文学らしいことが注目に値する。筑前とあれば土地柄も想いやられる。当時は固(もと)より煤煙の天を焦すようなものではなかったろうから、旅人たる野坡はその事に興味を持ち、雀や軒の花に配して一句に取入れたのである。「薪石」は野坂の造語であるかどうか、手近の辞書を調べて見たが記載がない。

[やぶちゃん注:「香に匂へうに掘岡の梅の花」「有磯海」に載る芭蕉の句。「有磯海」の表記は(前書有り)、

   *

 

   伊賀の城下にうにと云(いふ)ものあり

   わるくさき香(か)なり

 香にゝほへうにほる岡の梅のはな

 

   *

で、貞亨五(一六八八)年春、「笈の小文」の旅で伊賀で越年した、梅の咲く頃の作。「うに」は「雲丹」で、当時の伊賀・伊勢・尾張地方で低品質の亜炭や泥炭を言う語。当時は特に伊賀古山で採掘していた。]

 しかし最初に述べた通り、雀は鳥の最も平凡なものである。特異な興味は姑(しばら)く措(お)き、何人も多少の交渉を有するのが当然であろう。芭蕉七回忌に詠まれた次の句を見れば、芭蕉も閑居の徒然に任せ、庭前の雀を友とした消息を知ることが出来る。

 

   亡師の閑座をとひ來る小鳥ども

   あはれみ給ふを思ひ出て

 枯庭に米くれられし雀ども   岱水(たいすい)

 

[やぶちゃん注:「芭蕉七回忌」元禄一三(一七〇〇)年。芭蕉の逝去は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)であるから、元禄十三年の祥月命日は一七〇〇年十一月二十二日に相当する。]

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