柴田宵曲 俳諧博物誌(24) 狼 三 / 狼~了
三
狼を冬の季に定めたのは、冬時積雪の山野を埋むるに当り、村里に出没して人畜を害するところから来ているらしい。これは狼に限らず、雪のために餌を失った禽獣は皆人里近く姿を現すようであるが、狼との交渉は人間として迷惑な部類に属し、銃を執ってこれを斃(たお)したところで、皮とか肉とかいう収獲は期待し得ぬように思われる。それだけにまたそういうありがたくない交渉のある時でもなければ、季題に採用する因縁を見出しにくいのかも知れない。但(ただし)最初に述べた通り、狼だけで独立した句は殆ど見当らず、他の季題と結合して冬季に列するものが多いので、これまでに挙げた以外にもまだ次のような句が算(かぞ)えられる。
狼の吠(ほえ)からしたか冬のやま 冰花(ひやうくわ)
山枯(かれ)て狼の目や星月夜 除風
狼のあと蹈消すや濱千鳥 史邦
狼のかりま高なり冬の月 奚魚(けいぎよ)
蕭条たる冬の山に対して「狼の吠からしたか」というのは作者の主観である。現在そこに狼が姿を現しているわけでもなければ、景陽岡の虎の如く狼が出るときまっているわけでもない。狼の凄(すさま)じい吠声のために枯山になつてしまったのか、という作者の感じさえ受取れれば差支(さしつかえ)ないが、その次の「山枯て」の句になると、どうしても実際の狼をそこに認めなければならぬ。しかも枯山に徘徊する狼の目は爛々と光っている。狼の目即星の光として、星月夜の星の如く無数の狼の目が光りつつあると解せぬまでも、星光の下に狼が日を輝かしていることは事実である。用い慣れた秋の星月夜でなしに、枯山を照す鋭い冬夜の星光でなければならぬ。
海浜の狼はやや奇であり、特に千鳥のような優しいものを配したのは更に奇である。千鳥の迹(あと)を逆に出て、「狼のあと蹈消す」役をつとめさせたのは、奇を弄し過ぎた嫌がないでもない。子供の時誰かから聞いた話に、狼は塩が欲しくなると、海辺まで水を飲みにやって来るということがあった。真偽は固より保証せぬが、山の狼が海辺に出るには何か原因があるのであろう。山の狼さえよく知らぬわれわれが、海浜の狼を問題にするのは無理なのかも知れぬ。
狼に関する夜の連想は、それに月を点ぜしめやすい。「故寺月なし狼客を送りける」の句が「月なし」と断ったのも、裏面からこれを証明しているような気がする。殊に寒月と狼との配合に至っては、いささか即(つ)き過ぎることを歎ぜざるを得ぬほど、切離し難い関係にある。
[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、「狼のかりま高なり冬の月」の句意が判らぬ。「狩り」が「眞高」である、最高潮である、という謂いか? 「雁眞高なり」では初句が潰れる。何方か、御教授戴ければ幸いである。]
こがらしや狼原をいづる月 五明(ごめい)
という句の「狼原」は恐らく地名であろうが、その名の由(よ)って来る所は、実際の狼にあるに相違ない。宮城県本吉郡の狼河原(オイヌガハラ)は、煙草の産地として江戸まで知られていたが、狼が数多くいたために出来た地名だと『孤猿随筆』に見えている。現在そこに狼の影を認めぬにせよ、狼を以て呼ばるる原の月の凄じさは想像に堪えたるものがある。
[やぶちゃん注:「宮城県本吉郡の狼河原(オイヌガハラ)」「(オイヌガハラ)」はルビではなく、本文。現在の登米(とめ)市東和町(とうわちょう)米川(よねかわ)地区内。ここ(グーグル・マップ・データ)。平凡社「世界大百科事典」の「東和町」の中に、二股川に沿って走る西郡街道(にしごおりかいどう。現在の国道三百四十六号線)の狼河原(おいのかわら)(米川)では永禄年間(一五五八年~一五七〇年)から製鉄が行われたと伝えられ、荒鉄を米谷(米川に接する南の地区。ここ(グーグル・マップ・データ))に運んで精錬し、武具を作っていた。また、狼河原一帯は近世初期にキリシタンが多数居住した所で、キリスト教の布教に尽力した後藤寿庵の墓とされる碑が残り、三経塚はキリシタン百二十名余が処刑された地といわれる、とある(太字下線はやぶちゃん)。以上の柳田國男のそれは「狼史雜話」の「十六」にある。そこでは確かに柳田は『おいぬがわら』(ちくま文庫版全集の表記)とルビしている。東北方言を考えると、「おいぬ」「おいの」は腑に落ちる違いではある。]
けれども俳諧の狼は冬季の専属ではない。時として意外の辺に顔を出すことがある。
狼のすべつたあとや春の雨 氷固(ひやうこ)
狼にねごときかすなおぼろ月 梢風尼(せうふうに)
狼の辷(すべ)った跡は何によって鑑定するかわからない。もし作者が狼の辷るのを目撃していたとすれば、慥に滑稽句に分類さるべきである。肝腎の、辷った場所がわからぬので、これ以上の解釈はつかぬけれども、背景は煙るが如き春雨であり、冬とは全く舞台の変った感を与える。狼に聞かすまじき寝言というのは何であろうか。狼が古屋の軒に立聴(たちぎき)していると、老同士の話として「虎狼よりはモリ殿こそこはけれ」というのを聞いて、世の中に自分より強いものがいるのかと驚いて逃去ったとある古屋の漏(もれ)の昔噺(むかしばな)は、偶然の話が狼を追払ったことになっている。何か狼に聞かれてならぬ事があって、うっかり寝言をいうと立聴される虞があると警(いまし)めたらしいが、この裏にはどうしても古屋の漏の話が潜んでいるように思われてならぬ。ただそれが寝言であり、朧々とした春の月夜であるために、狼らしくもない、むしろのんびりした趣になるのである。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「古屋の漏り」の民話で、「モリ殿」とは「古い家屋の雨漏り」のことで、この「殿」は避けたい対象を敬して遠ざける呪術的言い方であろう。これは恐らく、柳田國男の「桃太郎の誕生」(昭和八(一九三三)年三省堂刊)の中に「古屋の漏り」を参考にして書いたものと思われる。幸い、個人ブログ「民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界」の『「古屋の漏り」柳田国男』に当該箇所が電子化されている(前が省略されているものだが、宵曲が参考にしたと思われる箇所は出ている)ので参照されたい。]
狼にもるぞおそろしほとゝぎす 許六
この句には明(あきらか)に古屋の漏が使ってあるが、句意はあまりはっきりしない。雨の漏る古屋にあってほととぎすを聞くと解すれば、一応わかるようなものの、それでは狼は漏のために引出されたに過ぎなくなる。狼とほととぎすとを共に実在のものと解すれば、全体が三題噺のようにばらばらになってしまう。始末の悪い句というべきであろう。
狼の口に入けり雨のてふ 丿松(べつしよう)
狼のによろりと出るや藤の花 荒雀
狼の足跡さびし曼珠沙花(まんじゆしやげ)
露竹
狼に夜はふまれてはなすみれ 成美
狼の息かゝる野にすみれかな 五明
かっと開いた口に蝶がひらひら飛ぶ。折からの雨を避けて狼の口に入るように見えるというのであるが、狼の口という恐しいものと、可憐な蝶とを対照的に用いたので、いずれ空想の産物であろう。奇抜といえば奇抜である。荒雀の句の藤は、人家に近い藤棚などのでなしに、山藤らしく思われる。巌(いわ)に攀(よ)じ梢にかかる山藤のほとりに狼がひょっと顔を出す。「によろり」という言葉も、この場合山藤の妖気と一脈相通ずるところがありそうである。曼珠沙華の真紅の花の側に狼の足跡を認めるということも、冬とは全くかけ離れた点に一種の狼趣味を発揮したのが面白い。董(すみれ)に至っては狼と甚だ縁の遠いもので、狼に踏まれるにしても、狼の息がかかるにしても、董のために同情に堪えぬ。
狼の子をはやしけり麻の中 許六
狼の子と人間、人間の子と狼の間にはいろいろな話が伝えられている。狼の乳に育てられた赤子があったり、狼の産見舞という話があったりして、人狼交渉史の最も微妙な一面であるが、この句を解する上にそう面倒なものを担ぎ出すにも及ぶまい。問題はこの狼の子をはやす者が人間か、狼自身かということである。狼の子などは容易に人の目に触れそうにも思われぬが、岩穴に狼が子を産んだのを見て、「好い児を沢山産んだなあ、おれに一疋くれないか」と口から出まかせにいったところ、翌朝戸口に可愛らしい狼の子がいたので、困って狼の巣まで返しに行ったなどという話もあるから、人間がはやすという解釈も成立たぬことはないらしい。もし産み落されたばかりの子でなしに、戎程度育った子だとすれば、山に近い麻畠の中まで出て来たのを、人が見つけてはやし立てるというのかも知れぬ。とにかくこの句は夏であるのが珍しい上に、他の捉えぬ「子」を描いており、実感に富んでいることを異とすべきであろう。狼もここに至って完全に平和なる野趣の裡(うち)に住している。
[やぶちゃん注:「狼の乳に育てられた赤子」ローマの建国神話に登場する双子の兄弟ロームルス(Romulus)とレムス(Remus) が著名。ウィキの「ロームルスとレムス」によれば、『この双子は、軍神マルスとレア・シルウィア(アルバ・ロンガ=ラティウム王ヌミトルの娘)の間に生まれたとされている。王の末弟のアムリウスは王位を奪っていたが、兄の孫である双子の復讐を恐れて、双子をテヴェレ川に捨てた。しかし、双子は狼によって育てられた。やがて、羊飼い夫婦に引き取られ立派に成人する。その後、祖父の軍隊に山賊と間違えられてとらえられ』、『尋問されるうちに孫と判明する。間もなく』、『兄弟は反逆者の叔父を殺し、祖父を復位させた。兄弟は、自分たちが捨てられた地に都市を建設しようと決めた。兄弟のうちのどちらが建設者になるかを鳥占いで決めることになり、兄のロームスに軍配が上がり、羊の守護の女神パレスを讃えるババリアの日』(四月二十一日)『新しい町(Roma quadrata)の城壁を築くために線を引き始めた。それに弟のレムスが怒り兄をあざけったので、兄弟の間で戦いが起こり、弟が兄に殺されてしまった。弟を立派に埋葬した兄ロームスは、町に多くの人を住まわせた。彼は』四十『年間統治し、雲の中へ消えていった』とされる。『このローマ建設伝説は、紀元前』三『世紀にはすでに存在していたと伝えられて』おり、紀元前二九六年に『牝オオカミの乳を飲む双子の兄弟の像が献上され、同』二六九『年製造のローマ貨幣の表裏にオオカミと双子像の同じ場面が刻印されている』とある。また、宵曲は昭和四一(一九六六)年没で、一九二〇年にインド西ベンガル州で発見され、孤児院を運営していたキリスト教伝道師ジョセフ・シング(Joseph Amrito Lal Singh)によって保護・養育された、幼少時、狼に育てられたとされる二人の少女アマラ(Amala 一九一九年?~一九二一年九月二十一日:死因は腎臓の炎症とされる)とカマラ(Kamala 一九一二年?~一九二九年十一月十四日:死因は尿毒症とされる)の話も知っていたと考えられ、彼女たちのことも或いは念頭にあったかも知れぬ。本邦では彼女たちは昭和三〇(一九五五)年に翻訳出版されたアーノルド・ゲゼル著生月雅子訳「狼にそだてられた子」(新教育協会刊)によって大々的に知られたからであり、私自身(昭和三十二年生まれ)、小学校の低学年の時に既に「狼少女アマラとカマラ」として知っていたからである。但し、現在ではこれはシングによる作り話であり、彼女たちは実は所謂、「野性児」だったのではなく、先天的疾患としての自閉症或いはある種の精神障害を抱えた孤児であったと考えられている。それこそ彼女たちは年齢からして、狼から授乳を受けていなくてはならないのであるが、オオカミの♀は積極的に乳を与えることはなく、ヒトの乳児も乳首を口元に持って行かないと乳を吸わないことから、授乳自体が成立しないし、ヒトとオオカミの乳は成分がヒトと異なるため、実は消化自体が出来ないのである(ここは一部でウィキの「アマラとカマラ」を参照した)。
「狼の産見舞」「産見舞」は「さんみまい」と読む。これは柳田國男の「桃太郎の誕生」に収録されている「狼と鍛冶屋の姥(うば)」(昭和六(一九三一)年十月『郷土研究』初出)の「六 朝比奈氏の先祖」の中に出てくるのを引き写しただけである。この言葉だけでは何のことか判らぬので(引用しない方が却っていいぐらいだ)、当該パート前後を引くと(ここは原典を引くため、国立国会図書館デジタルコレクションの「桃太郎の誕生」の原典画像を視認した。傍点「ヽ」は太字に代えた)、
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以前「山の人生」と題する小著[やぶちゃん注:大正一五(一九一六)年郷土研究社刊。]に於て、既に片端は述べたこともあるが、人と狼との昔の交際は、必ずしもこわもてとか、機嫌取りとかいふ程度の、輕薄なものでは無かつたのである。其の中でも興味のある古い仕來りは、狼の産見舞(さんみまひ)と名けて[やぶちゃん注:ママ。「名付けて」。]、一年に一度食物を器に入れて、山に持つて行つて狼の居りさうな處に置いて來ることであつた。是が狼に逢つて手渡しするのでも無ければ、又實際に安産のあることを確かめての上での無かつたのは、少しく其言ひ傳へを注意して見ればわかる。東京の近くで有名なものは、武州秩父の三峯さんであるが、是は三峰山誌にも、又十方菴遊歷雜記三篇中卷にも詳しく出て居て、近頃まで行はれて居た式であった。或夜狼の異樣に吠える聲を聞くと、それで御産の有つたことを知つて、翌日は見舞ひに行くのだといひ、又山中に特に淸靜に草木を除いた一地の有るを見付けて、そこに注連[やぶちゃん注:「しめなは」。]を張つて、酒と食物を供して來るともいひ、是を御産立(おこだて)の神事と謂つて居た。た。新篇武藏風土記稿卷八十、三峰村大木の行屋堂(ぎやうやだう)の條には是を御犬祭と名付けて每月十九日に行ふともある。十九日は知つて居る人も有らうが、子安講とも又十九夜講とも謂つて、村々の女人が子安神を祀る日であつた。是が後には一年に一度になっただけである。
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『岩穴に狼が子を産んだのを見て、「好い児を沢山産んだなあ、おれに一疋くれないか」と口から出まかせにいったところ、翌朝戸口に可愛らしい狼の子がいたので、困って狼の巣まで返しに行ったなどという話』これもやはり前と同じく、柳田國男の「桃太郎の誕生」の「狼と鍛冶屋の姥」の「七 狼と赤兒」の中に出てくるのをやはり引き写しただけである。ここまでくると、宵曲は同じ書物から引用していることを意識的に隠して、恰も自分がいろいろ調べて知っているかのように振舞っている節さえ窺われる(正直、出典を探すこっちとしては、いや~な感じである)。前と同様に当該パート前後を引く。
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或は又斯ういふ話もある。美麻村千見(せんみ)區に花戸(くわど)といふ澤があつて、村の下條家の持地であつた。岩穴に狼が子を産んだので、産養(うぶやしな)ひに赤飯を持たせて遣つた。其下男が狼の子を見て、好い兒を澤山産んだなア、おれに一疋くれねエかと口から出まかせを言つて戾つて來ると、翌朝は戸口に可愛らしい一疋の狼の子が居た。さうはいふものの飼ふわけにも行かぬので、又其子を狼の巢の中へ返しに行つたといふ。此種の世間話の發生した事情を考へて見ると、單なる目の迷ひや思ひ違へ以上に、尚之を受入れた聽衆の心理にも、今まで省りみられなかつた奥深い何物かが窺われる。
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狼のこの比(ころ)はやる晩稻(おくて)かな 支考
晩稲田を刈る頃になって、彼方此方(あちこち)で狼の噂を耳にする。現代ならば狂犬の沙汰の如きものであろうと思う。多少の流言蜚語も交って各方面に狼出没の話が伝えられる。実際は何疋いるのかわからぬけれども、噂を綜合するとかなりの数に上り、被害も頻々(ひんぴん)とあるらしいというような事実を、作者は「狼のこの比はやる」と簡単にいってのけたのである。
[やぶちゃん注:「晩稻(おくて)」「おしね」とも。「おそいね」の音変化とも言われる。稲の中で遅く成熟する品種。]
山に近い農村などであろう。晩稲を刈ることによって冬の眼前に迫ったことを感ずる。そろそろ狼が山から出て来て、人里に食物を求めようとする季節になる。狼は出没の噂だけを現し、「晩稻」の一語で季節と農村の背景とを描き得たのは、巧な手法といわなければなるまい。あるいは働き過ぎているということになるかも知れぬ。
相摸川(さがみがは)洪落水接天
狼の浮木(うきぎ)に乘(のる)や秋の水 其角
古今にわたる狼の句の中で、最も奇抜なものとしては、この句を推すに躊躇せぬ。ここに至ると、もう月も雪もない。夜道の不安も山家もない。狼に関して今まで挙げ来った、あらゆる配合物は悉く影を消して、浮木の上に乗った狼が水の上を流れて来る。秋の水といったところで、湛然(たんぜん)として日を浮べたり、底に何か沈んでいるのが見えたりするような、生やさしいものではない。正に『荘子』のいわゆる「秋水、時に至り、百川、河に灌(そそ)ぐ」底(てい)の大水である。濁流滔々(とうとう)として天を浸す中を、浮木に乗った狼が何処までも流れ去る。人を脅し馬を恐れしむる狼の存在も、頗る小さなものとならざるを得ぬ。其角は那辺より、この奇想を獲来(えきた)ったか。あるいは相模川出水の際の出来事を、沿岸の人からでも聞いて、自家薬籠中のものとしたのではないかと思うが、尋常に甘んぜざる彼の面目は、遺憾なくこの一句に示されている。もしこの句に対してなお其角の才の恐るべきを感ぜぬというならば、その人の眼は魚鱗を以て掩われているのである。
[やぶちゃん注:「洪落水接天」は総て音で「こうらくすいせつてん」と読んでいるのであろう。和訓しては句景の厳しいダイナミズムが失われる。
「湛然」静かに水を湛(たた)えているさま、静かで動かぬ様子。
「荘子」「秋水、時に至り、百川、河に灌(そそ)ぐ」「莊子」(そうじ)「後篇」の「秋水」の冒頭。「秋水時至、百川灌河。涇流之大、兩涘渚崖之間、不辯牛馬。」(秋水、時に至り、百川(はくせん)、河(か)に灌(そそ)ぐ。涇流(けいりゆう)の大、兩涘(りやうし)渚崖(しよがい)の間(あひだ)、牛馬を辯ぜず。)で、「秋の大水が一時(いっとき)に出水(でみず)し、多くの川の水が黄河に一気に流れ込む。水の流れは広大にして満ち溢れて氾濫原は水浸しとなり、両岸や中洲の汀(みぎわ)と思しい辺りを見渡しても、そこに半ば浸っているらしい牛と馬との区別さえ、濛々として、つきかねるほどだ。」の意。原文では以下、黄河の主(ぬし)河伯(かはく)が喜び勇んで泳ぎ出すのである。
「底(てい)」「体(てい)」が正しい。]
狼の聲はなれたる砧(きぬた)かな 五明
この句は二様に解せられる。中七字を「聲は馴れたる」と読むか、「聲離れたる」と読むかによって解釈は分れるので、次第に遠ざかる狼の声を「離れたる」と形容するのは適切でないから、多分前者であろう。狼の声をしばしば耳にしながら、深く意に介せず、砧を打っている山家の生活が側面から描かれている。
眼前の鑑賞物として適せぬことは、熊も狼も大して変りはない。しかし熊を句中のものとするに当っては、どうしても或(ある)形なり、動作なりを捉える必要がある。狼の声は鑑賞に値するものでないにせよ、登場せずに存在を示す利器であり、俳人もまた如才なくこれを活用している。実際俳句の狼の大半は、その姿を見せておらぬようである。