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2017/12/28

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 始動 / 幻燈

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい

 本篇「幻燈」(「燈」の字は底本の用字)は昭和一二(一九三七)年五月号『三田文學』に発表されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。なお、幸い、この「幻燈」一篇に関しては、「広島文学館」公式サイト内の「文学資料データベース」に、同底本を電子化したベタ・データが既にあるため、それを加工データとして使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる(但し、脱字や誤字・表記ミスが複数箇所存在する)

 先に簡単に語注を附しておく。

 主人公の名「昴」はルビがない。人名としては「あきら」・「たかし」・「のぼる」などが一般的である。私は個人的に反射的に「のぼる」で読む。

 第一段落「相撲草」ここでは私はオオバコのことと採る。あの「ヒッキリッコ」である。

 同「躊躇ひがち」「ためらひがち」と読む。

 同「暈された」「ぼかされた」。

 第三段落「泛んだ」「うかんだ」。

 第四段落「遽かに」「にはかに」(俄かに)。

 同「對つて」「むかつて」(向かつて)。

 第五段落「虛空の眼球」の「虛空」は「うつろ」。

 第六段落「急つては」「あせつては(あせっては)」。焦っては。

 同「昏々と」暗くてはっきりしない様子。

 同「惽々とした」「こんこんとした」(「みんみん」とも読めるが)読んでおく。「惽」は「惛」と同義で、「惛惛」は「昏昏」と同義で「暗くて物の区別がつかないさま」を言う。

 同「脚榻」「きやたつ(きゃたつ)」と読む。脚立(二つの梯子を両側から合わせて上に板を載せた形の踏み台)のこと。

 第七段落「破鐘のやうな大聲」「破鐘」は「われがね」(割れ鐘)と読み、大声の形容。

 同「嘯いた」「うそぶいた」。ここは「平然として言う」或いは「偉そうに言う」又は「獣が吠えるように言う」の意。

 第八段落「失敗つた」「しくじつた(しくじった)」と訓じていよう。

 同「剝出したり」「むきだしたり」。

 第九段落「抽匣」「ひきだし」。抽斗(ひきだし)。

 同「痞へて」「つかへて(つかえて)」。

 第十段落「顳顬」「こめかみ」。蟀谷(こめかみ)。

 同「饑じくなつて」「ひもじくなつて(ひもじくなって)」。

 第十一段落「たうとうと水の響がして來た」「たうとう」はママ。水がとどまることなく流れるさまの「滔滔」であるから、歴史的仮名遣は「たうたう」が正しい。

 なお、因みに実は、現在「ジャパン・デジタル・アーカイブズセンター」のこちらで、『三田文學』初出のものは元画像を閲覧出来るのであるが、このデータベースは大学・研究機関に限定されており、所属機関を通して申込まねば見られぬようになっている。私のような在野の研究者は正当な研究者ではないのであり、「そんな奴には未来永劫見せてやらないヨ」という、これが日本のアカデミズムのおぞましい正体であることが、よく判った。【「死と夢」(恣意的正字化版)始動 2017年12月28日 藪野直史】]

 

 

 幻燈

 

 堤の埃つぽい路を川に添つて昂は溯つてゐた。月の光が波の行手を白く浮上らせてゐたが、ざわざわと搖れる藪や、思ひがけない處にある家屋の燈が昂のおぼつかない氣持を通過した。時々足に纏わる、相撲草や、飛立つ昆蟲などもあつたが、それらは晝間の熱氣をまだ少し貯へてゐた。粘土質の柔かい埃には埃の匂ひがあつて、それが彼に遠い日の記憶を甦らせた。昂は七つ八つの頃、夏の夕方露次に立つて好きな女のこのことを躊躇ひがちに懷つた。その女の眼が神祕な湖水であつた。しかし、今彼は二日ばかり前にみた夢のことが不意と氣掛になつた。それは何處か大きな河を渡つていくと、橋の袂に料理屋があつたのだが、そこに料理屋があつたことが夢のなかで非常に詠嘆的に感じられたのだつた。で、後になつて考へ出すと、彼は一度でもいいから、あけみをさうした場所へ連れて行き度いのだつた。夢のなかで感じたのもたしか、あけみを連れて料理屋なんかへ行けたためなのだが、しかし、今も何處かそんな願望の世界へむかつて彷徨つてゐた。では、一體何處にあの料理屋があるのだらう、――あけみは今も狹い家で睡つてゐて、臺所では彼の母がごくごくと音をたてて食器を洗つてゐるに違ひないのだが、昂は遙かに遠方を眺めて步いた。そこには月光で暈された繁みが水に映つてゐた。あのあたりまで行くと、更に眺めが展けて來る筈なのだが昂はどこまで今遡つて行くのか見當がつかなかつた。夢のなかの料理屋、――あれは確か一ケ月位前誰かから聞かされた話のやうな氣もする。そして、その話とあの夢と何の連絡もないのにまだ氣にかかつてゐた。昂は自分のその何時もの癖を強ひて押除けようとはしなかつた。言葉も動作も思考までもが吃るのだが、それに腹を立てればきりがなかつた。

 すぐ近くに淵があるらしく、ひたひたと川波の音が聽えて來た。子供の頃、狽は一日うつとりとして、ここの川を遡つたことがあつた。彼を連れて步いた男の記憶はもうはつきりしなかつたが、牛が鳴いてゐて、蓮華草の花が咲いてたから、季節は四月らしかつた。をかしいことに昂はその大人が何かの祕密のために彼を連れて步くやうに妄想した。赤ん坊のお前は川から流れて來たのだよ、と昂の父はよく笑ひながら云つた。もしそれがほんとなら、彼の生れた家は川上にあるらしかつた。さうした心配と多少の夢につつまれてゐた過去が、今もそのあたりの叢に搖曳してゐた。昂はひたひたと呟く水の音で、月の光がゆらゆらと映つてゐる姿を思ひつめてゐると、稍微かな睡氣を誘ふのであつた。實際、空に懸つてゐる月ははつきりしない感銘であつた。月光のためにすべてのものが吐息をついてゐた。そして昂が視凝めて步いてゐる世界は、もう今日の晝間の續きではなく、もつと安らかなものになり變つてゆくやうに想へた。恰度その時、四五間さきの傍の藪から何か黑い塊が現れた。昂は藻拔けの殼になつたやうな足どりで進んで行くと、その黑い塊は彼を目掛けて突進して來たが、彼の足もとまで來ると、きりりと一囘轉しておきながら、不意と緩やかに伸び上つて、彼の左手に突當つた。瞬間、どきりとしたが、既にそれは子犬であることがわかり、遠方へよろよろと走り去つてゆくのを見送ると、昂は再び何事もなかつたやうに靜かな散步をつづけた。ひやりとした犬の觸感は消え、掌の咬傷は淺く痛みも微かであつたので、昂にはたつた今眼の前に生じた事件もすぐにも光に暈されて遠ざかつて行くのであつた。さうした、ぼんやりした氣分ではあつても、絶えず昂に附纏ふのは、あけみのことであつた。ねむれ、ねむれ、ねむれと昂は胸のうちで呟いた。さうすると、微かな睡氣が、步いてゐる彼の顏にも、月の光と一緒に降りそそいで來るのであつた。あけみは今も家で睡つてゐるに相違なかつた。もつと遙かなあけみが別の世界にゐて、その透明な玻璃窓に射し入る月の光を頰に浴びながら睡つてゐる有樣が昂には描かれた。その別の世界にゐるあけみなら、何時までも妨げられることなく睡れるだらうが、昂の妻は時々眼を醒すのであつた。しかもこの頃では二時間と續けて意識が保てず、箸を持つたまま、或は箒を持つたまま、睡魔に襲はれては、うとうとするのだつた。

 あけみの不思議な病氣の傍で昂はもう一年あまりも暮らして來たが、あけみは何時覺めるとも知れない無限の睡りのなかを漾つてゆくやうなものだつた。それでも結婚の頃には餘程の努力が拂はれてゐたのだらう、あけみは普通の健康らしかつた。それが日とともにまた娘時代の狀態に逆戾りして、そして睡眠を催す度が却つて頻繁になつた。それと同じやうに昂は暫くの間殆ど全治してゐた、吃音の癖がこの頃ではまた烈しくなつて來た。生活の勞苦や、昂の過去に受けた澤山の屈辱の記憶などが、頻りと彼の神經を搔立て、さんざんに彼を愚弄した。しかし、昂にとつては、あけみは重荷ではあつても、どうかすると彼の方からそれに縋らうとするのであつた。あけみの體溫を傍にして、寢呼吸に聽入つてゐれば、何時の間にか昂の心も純白となり、焦燥の心も靜めら、やがてうとうととした假睡のなかにぼんやりとした巨母の姿が微光を放つ。今もその微光は昂の頭上に降り注いだ。昂は何時の間にか大分上流まで來てゐた。河原の白砂の上にも月の光が煙つてゐた。夏の終りの月は何か苦惱をそそるやうに空に懸つてゐた。昂はやうやく立留まつて、熊笹の脇の空地にしやがんだ。ここから家まで引返すのは大變であつた。何のためにぼんやりと散步をつづけてゐたのか、昂自身にもはつきりしなかつた。何かを求めて彷徨つて行つたやうでもあるし、何かに追驅けられて逃げて來たやうでもあつたのだ。しかし、昂は眼をあげて、そこの河原の中央に細く流れてゆく水を視ると、ふと、病的な氣分に襲はれた。今、自分の生涯がここでばつたりと行塞がつて、もう前へも後へも引返されないやうなもどかしさが、それを、もどかしさと感じささない靜的なものとなつて蹲つてゐた。大體、この頃昂は、悲嘆に似た氣持で、己の過去を遡つてゆく癖が出來てゐたが、それにしても今夜ほど憮然とした姿で散步したのは稀であつた。急に昂は立止まつて家へ引返さうと思つた、すると、一瞬身體全體がめりめりと音をたてて陶器のやうに碎ける幻想が泛んだ。

 そして、昂はその夜家へ引返し、それから何日かは普通の狀態で暮したのであつた、あの月夜のふらふらした氣分とは似ず、昂は晝間の業務に追はれながら、あけみと母と暮した。ある夕方、ふと惡寒がするので昂は疊に伏して、天井板を眺めた。すると、天井板の節穴がふと眼についたはずみに、それが忽ち絶體絶命の兇兆かのやうに彼の視線へ對つて彈丸の如く飛びかかつて來た。昂は眼を閉ぢて、襲ひ掛つて來る惡寒を拂はうとした。その時、精神も肉體もぐつたりと異樣な疲勞を呈して、沼の底にでも引込まれて行くやうに滅入るものがあつた。きんきんと金屬製の音響が耳許で生じ、その一振動每に彼の毛穴に戰慄が點火されて行つた。暫くすると昂の寢てゐる疊はぐるぐると急速に𢌞轉し始めた。それから終には高く低く波を打つて來て、昂の肉體は何かの魔力によつて絞り上げられた。昂は肩を縮めて、のた打ち𢌞つた。そのうちに苦惱が少し緩められて來た。濁つた壁のやうなものが墜落すると、彼の前にはぼんやりとした景色が現れた。月の夜の川岸を昂は步いてゐた。月光は埃のやうに彼の前に煙つてゐて、竹藪がざわざわと搖れた。竹藪の上の方の空に鍵に似た黑い影が浮んでゐたが、昂はそれを訝る氣持で、なるべく視まいと努めて、地面を視て步いた。ところがふと、何氣なしに眼をその黑い點にやると、今迄動かなかつた黑い影は遽かに地面へ對つて滑り落ちて來た。それから非常に緩い速力で、しかし確實に昂に對つて近寄つて來るのだつた。昂の足もとに來た時、それは犬であつた。が、昂の周圍を一囘轉するのが何分間もかかつた。昂はやがてその犬に腰の骨を嚙みつかれるのを感じて、悶えながら立留つてゐた。犬は昂の肩に前足を掛けると、その重みが昂には頭の芯まで傳はつて行つた。昂の背後にゐる犬はこの時もう牛位の大きさになつてゐた。そして犬は更に河馬ぐらいの大きさに變つて行つた。やがて、ぱくりと口を開くと、昂の身體は大きな齒の間に嚙締められた。痛みは鈍く、鋭く昂の全身に傳はつていく。昂の神經は熱湯を注がれたやうにちりちりとした。そのなかを更に針のやうに光るものが暴れ狂つて走つた。それだのに全身はもう犬の齒にしつかりと締めつけられてゐて、拔け出すことが出來ない。時々痙攣が生じて、無力な逃走を試みる。昂は犬の齒の間から逆しまに頭を垂れて、ふと下界を眺めた。眞白な河原の砂に月の光が幽靈のやうに燃えてゐる。と、その砂のなかを犬の眼に似た水が音もなく流れてゐた。水がぼうつと、一ケ處燐光を放つた。次いであつちからも、こつちからも焰が生じて、もう川は眞赤な水の流れであつた。それがずんずん昂を目がけて流れて來る。

 やがてこの眞赤に煮え滾るところの液體が昂を襲つた。彼の鼻腔や耳にまで熱氣は侵入し、煙が全身から立昇つた。今焰の洪水のために、昂はもう犬の齒から押流されてゐた。轟々と唸る火の渦に卷込まれながら、猶ほさまざまの火の姿が昂に戲れて來た。硫黃や砒素などの恨しさうな火の玉が來ると、昂の内臟は破壞に脅え、顏は斷末魔の形相を湛へるのであつた。すると、猶ほちよん切られてピリピリ動く蜥蜴の尾のやうに、昂の頭に纔かに殘されてゐる知覺に、自分の斷末魔の物凄い姿が映つて、その恨しさうな顏に怖れて昂は叫ぶ。叫んだ筈なのが四つん這ひになつて吠えてゐるのだ。吠えて吠えて昂の咽喉は一本の細い針金のやうになつてしまふと、既に身體中の水分が蒸發してしまふ。この時、昂のぎよろんとした虛空の眼球にコツプの水が映つた。誰の掌によつて支へられてゐるのか、その透明なコツプのむかうには白い水仙の花に似た塊があつた。昂はすさまじい勢でコツプに這ひ寄つて、唇もて、その懷しい水に觸れようとした。けれども、次の瞬間には昂の咽喉佛は痙攣を始め、水であつたコツプからは煙が立ち昇るのであつた。痙攣は嘗ての日、彼の發音器官を無慘に辱かしめたやうに、今も彼の意志を逆に捩ぢ伏せてしまつた。昂の苦惱はここで一つの絶頂に達したが、やがて、なにものかが拳を擧げて昂を亂打すると、昂を組み伏せて、すつかり身悶え出來なくさせてしまつた。そして暗闇がその上を通過した。暗闇は汽車のやうに昂の顏の上を走つた。

 走り去つた汽車が物悲しいサイレンを殘すと、次第にあたりは夜明けの微光が漾つて來て、どうやら雨になるらしい氣流が交はつてゐた。何時の間にか昂は暗い函のなかに小さく押込められてゐた。その函の上を荒繩で縛り、二人の男が棍棒で擔つて行くのだつた。今彼等は何を擔つてゐるのか一向無頓着な樣子で、怒つた顏をして、默々と步いてゐた。硬い地面を蹈んで行くものらしく、ゴトゴトと跫音がつづいた。函は搖れる度に軋り、それにつれて昂の骨はがくりがくりと外れさうになつた。到頭雨になつたらしく、雜草の叢が仄かに囁き出した。暫くすると、小川の近くに來たとみえて、水音が微かに聞えた。やがてその小川の岸を渡る時、前の方の男が川にむかつて唾液を吐いた。餘程彼等は不幸な人間らしく、頭に雨がかかると忽ち水蒸氣となつて昇つた。遠くの小屋で火を焚くのが、ゆらゆらと夢心地に昂には感じられた。時たま、何かの鳥が高く上を飛んでゐて、鋭く抉るやうな叫びを放つた。何處までこの二人の男は昂を擔つて行く氣なのか、密閉された函の内部にゐてはわからなかつたが、彼等の步行は何時まで經つても同じやうな調子だつた。一寸も急つてはゐないし、無理に遲らせてもゐないし、それだけに重苦しく耐へきれないものがあつた。不圖、昂は耳許に年寄らしい男の、優しいだみ聲が聞えて來た、それは何か悲痛を諦めてしまつてゐる人間の溫かい呟きで、昂には次第にもの戀しく感じられた。しかし、聲はそれきり杜切れてしまつて、後はまた二人の男の跫音ばかりであつた。その跫音はまるで木のやうに硬い。大粒の淚が浮んで、昂の目の緣で崩れると、ぽとりと落ちた。そして今函の外は朝である筈なのに、逆に夕暮が近づいて來る氣配だつた。昏々と雨が降り募り、路は何時まで行つても涯てしなく、景色も次第に疲れて無慘になつてゆくらしい。昂の頭も惽々とした闇が立ち罩め、その底に金色のぼんやりした暈が一つ微かに浮んで來て、それが靜かに彼をあやしてゐるやうだつた。彼を運んでゐた男達のゴトゴトといふ跫音が何時の間にかしなくなつた。そして昂を閉込めてゐた函ももう消えてなかつた。氣がつくと昂はある街角の路上に橫たはつてゐた。眞晝の雨降りの路上には一つも人影がなかつた。すぐ前の菓子屋の店頭はがらんとしてゐた。何處の店にも人はゐないのだつた。雨に淸められた、路上の小石が美しく露出してゐた。軒每に瓦斯の門燈があつたが、あれは夕暮脚榻をかかへた男が燕の如く現れて、一つづつ燈をさしてゆくのだ。何處かから馬車の喇叭が響いて來さうなのに、今はしーんとしてゐる。

 そこは二十年も以前の、ある街角に違ひなたつたが、別に昂は訝りもせず、目隱しをされた馬や、蹄の音や、先走りの男などが現れて來るのを待つてゐた。ふと彼の側に何處からか女中がやつて來た。彼女は昂を認めると大變心配さうな顏をして、「まあそんなところに一人でゐらしたのですか、さつきから隨分探してゐました、さあ、おうちへ歸りませう、お父さんがお待ちかねですよ」と云つた。そして昂の手を引いて、ずんずん步いて行つたが、昂はその女中の溫かい掌にぶらさがつて步いた。やがて家に這入ると、薄暗くじめじめして其處は大きな洞穴のやうだつた。中央に机が置かれて、その上にランプがぼんやり點けられてゐた。女中は昂を机の脇まで連れて行くと、「只今戾りました」と挨拶した。すると、机には誰か淋しさうな影の薄い男が何か頻りに書きものをしていたが、ふいと顏をあげて、昂を睨んだ。「うまく釣られて來たな」とその男は破鐘のやうな大聲で笑つた。見るとその男はもうさつきの男ではなかつた。おそろしく野蠻な骨相をした男で、顏中が威壓の筋肉で出來上つてゐる癖に、何か愉快さうに、にやにや笑つてゐた。「己を覺えてるだらうな」とその男は昂を斜に視下しながら嘯いた。昂は恐怖のあまり口がきけなく、ふと、さつきの女中の方に縋らうとして振りかへると、女中の顏は口が耳まで裂けた怪物になつてゐる。すると男は何か氣に觸つたらしく、忽ち机に一擊をあたへて呶鳴つた。「逃げようつてのか!」と男は眼を尖らして昂を射屈めた。机のランプがひつくりかやつて燃え出すと、彼はそれを掌で摑んで床の上に投げつけた。その物音を聞きつけて、隣室から男が二人やつて來た。彼等は拳で昂を脅しながら、机の男にむかつて、慇懃に腰を屈めた。「この男を一つみてやつてくれ給へ」と机の男は何時の間にか穩やかな口調になつてゐた。二人の男はかしこまつて、また腰を屈め、それから昂の方へ向直つて、じろじろ眺めてゐたが、急に一人の男が氣色ばんで昂の腕を摑むと「來い!」と云つてずんずん步き出した。コンクリートの廊下のやうな道を、二人の男は昂を眞中に挾んでずんずん進んだ。非常に步調が急いでゐて、そのまた反響がものものしかつた。その時昂の腕を摑んでゐない方の男が、昂の耳許にずつと顏を近寄らせて、「愉快だな」と親密さうな調子で話しかけた。昂が默つてゐると、その男はまた「愉快だな」と云ふので、昂もつい釣込まれて、「愉快だな」と云つた。すると、その男は遽かに冷かな態度になつて、「何? 何だと、何が貴樣に愉快なのだ」と呶鳴り散らした。「でででも……」と昂は詫びようとしたが口が吃つてしまつた。その男は昂の口許を忌々しげに眺めてゐたが、「だだだまれ!」と叫んだ。が、その男は吃つて叫んだのを非常に殘念さうにして、自分の方で默つてしまつた。昂は何だかそれが氣の毒になつて、相手の方を見ないで步いた。

 そのうちに吃つた方の男は何時の間にか、ふつと消えてしまつて、廊下のやうな道が盡きると稍々廣い運動場に出てゐた。昂の腕を握つてゐた男は不意とその手を離して、昂の後方に𢌞つた。そして、びつくりするやうな大聲で、「一、二、一、二」と號令を掛け出した。昂は一生懸命、步調をとつて步き出したが、後から叱咜するやうに「左、右、左、右」と號令を掛けられた。步調が間違つてゐるのに氣がついて、足蹈みをするのだが、うまくゆかない。何度やつても步調が亂れる。號令は昂をさんざ、まごつかせて置いて、後からどかんと呶鳴るつもりなのだらう、泰然として續けられる。氣がつくと、昂を取圍んで中學時代の友達がにやにや見物してゐた。その見物のなかには女も二三人混つてゐる。昂は兩脇からたらたら冷汗をかきながら、奧齒を食ひ締つて、目の前が茫々と白む想ひで、步調をとつた。すると、突然、「まはれ右前へ」といふ怒號が耳許でして、「おい!」と號令は下つたが、昂は足を蹈み損なつて失敗つた。再び、號令は「まはれ右前」と掛けられた。そして昂はまた失敗つた。また、「まはれ右前」と、號令が勇ましく掛けられた。昂は今度もまた失敗するのを豫想すると、もう足が慄へて思ひ通り動かなかつた。彼が失敗る度に、見物の中學生達は面白さうに笑つた。齒を剝出したり、舌を出したりして、皆は彼の失敗を應援した。なかにも一人の女は脇の女にむかつて、さも昂を憐むやうな大袈裟な顏つきで何か囁いてゐた。昂は何が何だかもう號令が聞えなくなつて、立留まつた。すると、今迄遠くから號令を掛けてゐた男がつかつかと昂の脇に近寄つて來た。その男は何時の間にか教師の服裝になつてゐたが、ポケツトからメートル差を出すと、昂の前に屈んで、昂の膝の關節から踵までの長さを計り出した。見物人は珍しさうに、ずつと近寄つて來た。教師の服裝をした男は、何度も首を捻りながら、昂の左脚と右脚の寸法を計算してみたり、終には身長や胸圍まで計つてみるのであつたが、どうも合點が行かないらしく、鉛筆でポンポンと手帳の表紙を叩いてゐたが、やがて手帳を開けて何か書き込んだ。恰度その時、白い上着を着て眼鏡を掛けた醫者らしい男が側に近寄つて來て、默つて手帳を覗き込んでゐたが、何か教師にむかつて合圖をした。そこで二人の男は昂をその儘にして、少し離れた場所で、ひそひそ話を始めた。「どうもあの生徒は根性が捩れてるのですが」と教師の興奮した聲や、「いや、なあに、私におまかせ下さい」と醫者の宥めるらしい聲が洩れた。

 醫者は昂の方に向直ると輕く手招いた。昂が躊躇してゐるのを見物人が後から小衝くので、到頭彼は醫者の方へ步き出す。すると醫者は彼が從いて來るのを疑はないもののやうに、ずんずん先に立つて步き出した。昂は逃げ出したいのだが、逃げると後でどんな亂暴なことをされるかわからないので、厭々ながら引かれて行く。階段を昇り、廊下を𢌞ると、音樂室があつて、小學校の女教師がオルガンを彈いてゐたが、窓の外を通る二人をけげんさうな顏で見送つた。その音樂室の窓からは川が見え、鯉幟を立てた家も見えた。やがて醫者はつきあたりの部屋に入ると、内から鍵を掛けて、大きな机の前の𢌞轉椅子に腰を下した。その部屋は半分板の間になつて、半分疊が敷いてあつたが、秤や、小さな寢臺や、抽匣の澤山ある戸棚などが竝べてあつた。隅の方に立てられてゐる骸骨の標本が一つ、ガクガクと張子の虎のやうに首を搖らがしてゐた。壁には日本海海戰の油繪が懸けられてゐて、沈沒しかかつた軍艦が頻りに眞黑な油煙を噴き出し、その油煙がその部屋の天井のあたりの壁を染めてゐた。醫者は暫く机の抽匣をあけて何か探してゐたが、不意と昂の方へ向きかはると、側にある小さな椅子を指差して、「掛けたまへ」と云つた。昂が神妙に椅子に掛けると、醫者は今度は聽診器を取出して、それを玩具のやうに弄んでばかりゐた。何時まで經つても落着拂つて、さも娯しさうに醫者はそれを弄んでゐたが、時々何か素敵な考へでも浮ぶのか、得意さうに獨りで微笑してゐた。ところが突然、醫者はハツと昂のゐることに氣がついたらしく、ぢつと昂の顏に眼を据ゑてしまつた。それから、ひよいと手を伸して、昂の顎の下を撫で出した。醫者の掌は柔かく、撫で方も輕かつたのに、段々昂は呼吸が塞るやうに苦しくなつて來た。血が頭にむかつて逆流してゆく音がドクドクと聞えた。それでも醫者は相變らず靜かに今度は昂の咽喉の邊を撫で出した。昂は苦しさに淚がぽろぽろと落ちて、聲が出なかつた。やがて醫者は手を離すと、今度はさも親しさうに昂を眺めるのであつた。「大分つらさうですな」昂は半分泣きながら頷いた。「ではあそこで橫になつたらいいでせう」と醫者は疊の方を指差した。それから態々枕を出して呉れた。昂は橫になつた。醫者は戸棚の小さな抽匣から何か獨樂のやうなものを取出した。微かにビユンと鳴る音がするので昂がその方へ眼をやると、醫者はその持つてゐたものを輕く空間へ放つた。はじめ蟲か何かと思つてゐると、氣がつくと、それは一匹の虎であつた。豌豆位の大きさの虎だが、たしかに美しい縞があり、眼球がキンと光つてゐる。その虎は空間を宙に泳ぎながら、次第に昂の方へ近寄つて來る。昂はどう云ふ譯だか、その虎が怖くて耐らなくなつた。虎が進むにつれて、糸に綴られた露の玉のやうなものが三つ四つ前後に續いてゐる。虎は昂の一尺位眼の前に來ると、急に故障が出來たやうに動かなくなつた。が、暫くすると今度は逆の方向にゆつくり進んで行つた。それからまた暫くすると動かなくなり、方向を變へては進み出す。昂は胸が痞へて、手足が痺れ、額からも耳からもたらたらと膏汗が滲み、どうにもかうにも苦しくてならない。もう昂のまはりの空氣はみんな虎に吸ひ採られたのか、無くなつてゐる。昂の眼はぼんやりして、自分の睫と、その邊の疊の筋しか見えない。みんな暗く、みんな苦しさうな影だ。それなのに虎はまだやつて來る。突然、外の方で稻妻がして、パラパラ雨が落ち出したやうだつた。すると、誰か昂の耳許で彼の名を呼ぶ聲がした。聲は何度もするのに昂には誰だかよくわからない。すぐ眼の前にその男の黑いずぼんがぼんやり見えて來た。「寢てるのかい」とその聲は云つてゐるやうで、昂の側に立つたまま頻りにもじもじしてゐる容子であつた。その二本のずぼんの隙間から机が見え、机の上には灰皿と昂の學生帽が置かれてゐる。机の前が窓障子で、その窓は、狹い露次に面した二階の窓だつた。昂はその邊をぼんやり見てゐるうちに、何時の間にか彼の身體は机に吸ひ寄せられて、机に凭掛つてゐた。

 突立つてゐた男はそのうちに昂の正面へ來て疊の上に膝を組んで坐つたが、その友達はだれであつたのか、昂にはまだ呑み込めなかつた。てらてら光つた大きな鼻をした、顎の廣い、どつしりした男であつたが、大變腹を空かしてゐる容子で、顳顬には玉の汗が浮上つてゐた。その顏を見てゐるうちに昂も顳顬に汗が出て、自分も同樣に饑じくなつて少し目が昏んで來た。ふと眼の前に口を開けた蝦蟇口が見え、その暗い底の方に五十錢銀貨が一枚ぼんやり見え隱れしてゐた。ところが、昂の前にゐる男は饑さに耐へかねて、あくびとも溜息ともつかぬ息を吐いた。すると、その男の大きな顏は段々瘠せ細つて來て、前とは見違へるやうな、まるで消え入りさうな顏になつてゐた。その男は餘程睡眠不足とみえて、眼を開けてゐるのもつらさうに、一秒、一秒の時間の重みにも、神經が削り奪られて行くらしく、豆粒程の瞳から氣違のやうな切なさうな光線を閃かしてゐた。ぼんやりと眺めてゐる昂の方でも、もう二三秒もしたら宇宙が爆發するのではないかと、そんな危險な不可知な裝置が今眼の前の空間にしつらへられてあるのを感じさされた。それで、昂の眼球も乾ききつて、眼の底の方に熱い濁つた淚が貯へられて行つた。到頭その友達は、わあ、と口をあけると、全身全靈の疲勞を吐き出すやうに、苦しさうなあくびをした。それから頭をがくりと、前の方へ一度突落して再び上に擧げると、もうその友達の顏はすつかり刃のこけた剃刀のやうなものに變はつてゐた。その男は時々誰かに背骨をどやされてゐるやうに、がくりがくりとしながら、それでも一生懸命、昂の机の上を眺めてゐた。昂はその男が何故一生懸命、机を眺めてゐるのか、段々心配になつた。と、間もなく友達は疊の上に打伏せになると、咽喉を痙攣させてばたばたし出した。友達は唸りながら、白い液體を吐き出した。それから大きな溜息をついて、橫になつたが、段々氣持が落着いて來るらしく、眼を天井へやつてゐた。

 ふと、友達は昂の方を見ながら、「おい、外へ出ようぢやないか」と云つて立上がつた。たつた今あんなに苦しげにしてゐたのが、もう打つて變つて元氣になつてゐるのだつた。昂もそれに釣込まれて、立上らうとしたが、どう云ふものか、腰に力がなく、脚がふらふらし出した。友達は昂のまごまごしてゐる樣子を珍しさうに見返して、「お前步けないのかい」と訊ねた。それで昂は無理矢理に立上がつて、よろよろと步き出した。すると友達はもう昂が步けるのを疑はないもののやうに、ずんずん先に立つて步き出した。何時の間にか二人は細い裏町を拔けて、大通りへ出てゐた。昂は段々心細くなり、外に出たことを後悔した。一足每に息切れがして、今にも身體が倒れさうになつた。眼の前に電車や自動車が疾走してゐるのが、情なかつた。もうこれきり歸れないのではないかと思はれた。足許を見れば、木製煉瓦の敷詰められた鋪道に、自分の下駄が吸ひ込まれて行きさうだつた。もし今膝のところから力が拔けると、そこへ倒れてしまふのだが、……さう思ふと却つて早く倒れてしまひ度くもなるのだつた。友達の方は靴の音もはつきりと自信ありげに步いてゐた。そのうちに、たうとうと水の響がして來た。氣がつくと、さつきまで一緒だつた友達は、もう彼を見限つて勝手な方向へ行つてしまつたらしい。路は何時の間にか、大きな石塊のごろごろしてゐる下り坂になつてゐる。昂の下駄は石に躓いて、時々よろめいた。かうして步けるのが不思議な位だ。空氣は冷々として、霧が這つて來る。忽ち霧は兩側の杉を包み、ばらばらと滴がしたたる。水の音は段々近づいて來るので、昂はもう一呼吸だと云ふ氣持がした。ふと見ると、崖の方には萩の花が咲いて、だらりと垂つてゐた。そこにも銀色の霧が降つてゐた。足許の方には紫陽花も咲いてゐる。その側に矢印で方向を示した小さな札が立つてゐる。昂は到頭そこへしやがんで、息切れを直さうとした。急に咽喉が締めつけられるほど切なくなつて、淚がぽろぽろと兩頰に流れた。冷やかな空氣の迫力が一層彼の心臟をずきんとさせた。だが、暫くすると昂はまた立上がつて步きだした。もう苦しさは以前よりも大分減つて來た。それに谷川の音が今はすぐ足許に聽かれるのだつた。昂は橋を渡つて廣い道へ出た。

 そこに藤棚のある茶店が一軒あつて、バスの停留場があつた。昂がそこへ立止まると、大きな、黃色いバスがやつて來た。昂は今、救はれたやうにそのバスに乘つた。乘客は他に誰もなかつた。昂は綠色のクツシヨンに腰を下し、低い天井を眺めた。運轉臺の方にはセルロイドのがらんがらんが吊つてあつた。濃霧と小雨とで、ウインドウ・クリーナアが搖れてゐた。大きな硝子窓に、周圍の景色が移動した。バスは溪流に沿つて山路を𢌞り、村落を過ぎて進んだ。やがて、雨もはれ、眺めも廣々として、日が輝き出した。雨のはれた山脈がむかうに見えた。むかうには竹藪も見えた。美しい綠の竝木路もあつた。その時、運轉臺の方にゐた女車掌が靜かに昂の側までやつて來た。その女車掌は立つたまま、窓の外を指差しながら歌ふやうに喋り出すのであつた。

 ――御覽なさい、あのむかうに見へます山々はまるでこの世のものとも思はれぬほど美しいではありませんか。靜かに靜かに時間の流れのなかに聳えて、何時までも何時までも、あなたを慰めてくれるのであります。雨が降れば濡れ、日が照れば輝き、朝は朝の姿で、夜は夜の姿で、昔からずつとあそこにあるので御座います。

 それにあのなだらかな綠の傾斜はまた何と云ふ優しい眺めなのでせう。ああ云ふものを御覽になると、人間のかたくなな心は何時の間にかすつかり消えて行つて、あなたはむかし、むかしにかへつてゆくのです。

 あなたはお母さんの懷にいだかれてゐた子供の頃を憶ひ出しませんか、あのお母さんの白い胸を見上げながら、夢みてゐた夢があの山なのです。そら、あの山腹の方には白いふはふはの雲が浮んでゐて、あそこで靜かに睡つてゐるのです。

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