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2017/12/16

柴田宵曲 俳諧博物誌(29) 鶴 三

 

       三

 

 大倉喜八郎が八十の賀に「寄鶴祝」という題で狂歌を募ることになり、或人からその話があった時、林若樹氏が珍しく承諾したかと思うと、やがて詠み出(い)でたのは「千年の齡を君にゆづるなどさぞおべつかの鶴やなくらむ」という一首であった。これには或人も降参して引退(ひきさが)ったという話がある。『集古随筆』の解説にこれを引きながら、「君がため千代の齡をゆづらむと」などと書いたのは、人の記憶による伝承が僅(わづか)の間に如何(いあか)に変形するかという一例である。これでは生温くて尋常の歌と択ぶところがない。四、五の句と照応するためには、どうしても「千年の齡を君にゆづるなど」でなければならぬ。この狂歌は林氏の面目を発揮したもので、当時の『日本及日本人』にもその名を出さずに紹介されていたかと記憶する。「大倉なにがし八十の賀に寄鶴祝といふ題にて歌よめと或人より申こし侍りければ」というような恭しい前書で、この一首をしたためた短冊があるそうであるが、滅多にそうしたものに筆を執られなかった林氏の遺墨として、けだし珍中の珍であろう。

[やぶちゃん注:「大倉喜八郎」(天保八(一八三七)年~昭和三(一九二八)年)は貿易・建設・化学・製鉄・繊維・食品などの企業を数多く興した日本の実業家で、中堅財閥大倉財閥の設立者。渋沢栄一らとともに、鹿鳴館・帝国ホテル・帝国劇場などを設立した。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。号は鶴彦。参照したウィキの「大倉喜八郎」によれば、彼は『狂歌振興の同好会・面白会の結成への参加、「大倉鶴彦」名義で狂歌集を刊行するなど、狂歌の創作に熱心だった。少年の頃より』、『戯れ歌に興味を持った大倉は、父に連れられ』、十四『歳の時に大極園柱の門に入り』、『狂歌を学ぶ。和歌廼門鶴彦(わかのと・つるひこ)を称し、江戸に狂歌を投稿し』、、「狂歌甲乙錄」に『数葉掲載された。その後も』、『ことある事に狂歌を詠み、没する』十四『日前の感涙会までその活動は続いた。その数は数万首にも及ぶとされるが、関東大震災で大部分は焼失してしまった。小池藤五郎は「日本文学史上、これほど長期に渡り、作者として立った人物は、他に見当たらない」と、幸田露伴は「まことに心からすきたる水晶の璧にいつわりなく、あとからつけたる付焼刃の地金あやしき風流にはあらず」と評価し』ているという。

「林若樹」(明治八(一八七五)年~昭和一三(一九三八)年)は在野の考古学及び民俗学研究者で古書古物の収集家。既出既注であるが、再掲する。本名は若吉。東京生まれ。ウィキの「林若樹」によれば、『早くに両親を失い、叔父の林董』(ただす 嘉永三(一八五〇)年~大正二(一九一三)年:旧幕臣で外交官・政治家)『に養われる。祖父の林洞海』(どうかい 文化一〇(一八一三)年~明治二八(一八九五)年:蘭方医で幕府奥医師)『から最初の教育を受け、病弱であったため』、『旧制第一高等学校は中退する。その頃から遠戚にあたる東京帝国大学の教授・坪井正五郎の研究所に出入りし』、『考古学を修める。遺産があったので定職に就かず、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古し、狂歌・俳諧・書画をたしなみ、かたわら古書に限らず』、『雑多な考古物を蒐集する』明治二九(一八九六)年、『同好の有志と「集古会」を結成。幹事となり』、『雑誌『集古』の編纂をする。人形や玩具の知識を交換し合うために』、明治四二(一九〇九)年に『「大供会」を結成。「集古会」「大供会」「其角研究」などの定期的ではあるが』、『自由な集まりを通じて』、『大槻文彦・』『山中共古・淡島寒月・坪井正五郎・』『三田村鳶魚・内田魯庵・』『寒川鼠骨・』『森銑三・柴田宵曲といった人々と交流し、自らの収集品を展覧に任せた』(下線やぶちゃん)。

「集古随筆」林若樹没後、昭和一七(一九四二)年に大東出版社から刊行された論文・随筆集で、生前の林が、雑誌『集古』・『彗星』・『日本及日本人』(国粋主義団体政教社の総合雑誌。明治二一(一八八八)年より、三宅雪嶺を中心に雑誌『日本人』として発行していたものを、後(明治三五(一九〇二)年)、『日本及日本人』改題継承して創刊、大正一二(一九二三)年に雪嶺は退社し、その後は右翼の手に移って昭和二〇(一九四五)年に終刊した。)・『浮世絵』・『新小説』・『同方会報告』・『ホトトギス』などに発表したものを集めた文集。]

 鶴がおめでたい代表者になるのは、千年の齢ということが有力な理由であるに相違ない。俳人も賀寿の場合に鶴を使用しておらぬことはないが、鶴そのものに季がないせいか、存外少いようである。

 

 千代といふ鶴にも雛の道具だて   杉風

   年經たる松をことぶきて

 十かへりの榮(さかへ)や鶴の雛あそび

                  乙由

   試筆

 鶴さもあれ顏淵生(いき)て千々の春

                  其角

   四十二に成人を祝うて

 のどかさよ鶴の齡を六七羽     越人

 

   東方朔(とうぼうさく)は長壽を

   愛し猩々は酒を好(このめ)るを

   祝ひて扇子取ては是か真似をもす

   るとかや

 亂菊に遊ぶや鶴のひろひ足     野坡

 

 これらはいずれも蕉門の徒の作である。第一は果して賀句であるかどうかわからぬが、千代という語があるので挙げて置いた。この雛は鳥の子でなしに、雛祭の方で季になつているらしい。十返りの花は松の木が百年に一遍、千年に十返、時ならぬ花を咲かせるというやつで、われわれの御馴染の松の花とは違うのだけれども、俳句では便宜上松の花の中に入れてある。この句は「雛あそび」の語によって雛祭の範疇に入るとも解せられるし、松の花に分類しても差支ない。千年の鶴と十返りの花さく松とは、おめでたい双壁と目すべきもので、松に鶴が好個の配合になっているのも、ここから来ているものかと思われるが、賀句の中の松鶴はこれ一つしか見当らぬ。

[やぶちゃん注:こういういい加減な形で季語が定められていること自体を読んでも、啞然とするばかりではないか。]

 其角の句は千年の鶴に対し、若死の顔淵を持出した一流のひねりである。この筆法は「松樹千年終是朽。槿花一日自爲榮」という白楽天の故智を蹈襲したものの如くであるが、突として顔淵を点じ来ったところに特色が見える。孔子をして「噫天喪予(ああ てん われをほろぼせり)。天喪予」と長大息せしめた顔淵の若死は不幸ではあっても、なお千載に生きている、鶴寿千年何かあらんの意を述べたものであろう。

[やぶちゃん注:「松樹千年終是朽。槿花一日自爲榮」底本のルビは排除した。白居易の「放言五首」の中の、最終の第五首目の中の二句。

   *

泰山不要欺毫末

顏子無心羨老彭

松樹千年終是朽

槿花一日自爲榮

何須戀世常憂死

亦莫嫌身漫厭生

生去死來都是幻

幻人哀楽繫何情

 泰山は 毫末(がうまつ)も欺くを要せず

 顔子は 老彭(らうほう)を羨む心無し

 松樹千年 終(つひ)に 是れ、朽ち

 槿花(きんか) 一日(いちじつ) 自(おのづか)ら榮を爲す

 何ぞ須(もち)ひん 世を戀し 常に死を憂ふるを

 亦た 身を嫌(いと)ひ 漫(みだ)りに生を厭ふこと 莫(なか)れ

 生去死來(せいきよしらい) 都(すべ)て是れ 幻(げん)

 幻人(げんじん)の哀樂 何の情にか繫(か)けむ

   *

「毫末も」細い毛のその微細な先っぽ。「少しも~(ない)」の呼応の副詞。「顏子」孔子最愛の弟子顔回(がんかい)。貧なりも道を楽しんだが、三十二歳で夭折した。「老彭」彭祖。聖王堯(ぎょう)の臣であったとされる太古の長寿者。凡そ八百年生きたとされる。引用部は、

――松の樹は千年の寿命があるとは言っても、結局、最後には朽ち果て、

――木槿(むくげ)の花はたった一日で咲いて散って行くのであっても、それをまさにそれを「栄華(花)」とするのである。

の謂いである。但し、本邦では木槿(槿)(アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus節ムクゲ Hibiscus syriacus を朝顔(ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil)とする説もあり、感覚的には後者も腑に落ちるとは言える。]

 近来は還暦翁も見かけは若くなった。そのせいかどうか、以前のように還暦祝という催しはあまり聞かぬようである。長寿健康の鳴雪翁は、五十の賀の句などを人から求められても、決して作らぬといっておられたが、花袋、秋声両氏の誕辰(たんしん)五十の祝賀会をやった往年の文壇の事を考えると、今日のわれわれでも多少妙な感じがする。四十二はただ厄年として記憶されるのみで、初老の賀に至っては殆ど耳にしたことがない。その初老の人に対し、鶴の齢の六、七倍も長寿を祈るのは、いくら昔でも手廻しがよ過ぎるといわざるを得ぬ。

 野坡の句は表面に賀意は見えていないが、前書に東方朔や猩々を取入れているので、何かそういった意味があるものと解せられる。鶴と菊との配合は、少くとも松や梅ほどありふれておらぬようである。前に引いた土芳の句以外にもなお

 

 しら菊や鶴の都の霜降羽(しもふりは) 支考

   重陽

 今日ぞ鶴花の弟(おとと)とのゑぼし親 越人

 

の如きものがあるが、皆見立の句で面白くない。「花の弟」は花の兄の梅に村する菊のことである。

 おめでたい代表者としての鶴は、最も多く美術方面の材料に用いられた。

 

 福壽草咲くや後に土佐が鶴       大魯

 

は打ってつけの舞台であるだけに、一歩を蹈み誤れば常套の譏(そしり)を受けることになりやすい。福寿草の鉢はどこにでも置かれるから、この土佐の画は何に描かれたものかわからぬが、

 

 金屛(きんびやう)に鶴の步みや秋の色 露川

 

の句は明(あきらか)に金屏風であることを示している。「鶴の步み」の句は前にいくつか挙げた。この金屏裡の鶴は、青天を翔(こうしょう)する姿でなしに、地上を闊歩するところであるらしい。

[やぶちゃん注:「翔(こうしょう)」大きな鳥が空に輪を描いて飛ぶこと。]

 

   鳥盡トモ聲不ㇾ盡

 繪畫たる羅𣪺(すずし)は洩(も)レよ鶴の聲

                     機石

   二見形文臺銘

 箱の鶴ぬけてしるべし二見形       萬子

 

 羅𣪺という言葉は『平家物語』の咸陽宮(かんようきゅう)の条に「七尺の屛風は高くとも、をどらばなどか越えざらむ。一條のらこくはつよくとも、引かばなどかは絶えざらむ」とあるので知ったまでである。手許の字引を見ると、「うすもののあやおり」と出ている。この鶴は画には相違ないが、織出されたものなのであろう。万子の句は「箱の鶴」とあるため、文台との関係がどうなるのか、俄に判断がつかぬ。この辺の事はわれわれの忖度を許さぬから、揣摩(しま)臆測は避けて置きたい。

[やぶちゃん注:「『平家物語』の成陽宮の条」以下の引用は、荊軻の始皇帝暗殺を語る下りに出る。]

 先年或雑誌で新年号に鶴と亀との写真を掲げることになり、鶴は鹿児島県の阿久根海岸、亀は大阪の天王寺公園と舞台をきめて、それぞれ土地の人に撮影を依頼したことがあった。ところがいよいよ来た写真を見ると、何分季節が寒い時分なので、天王寺公園の亀は悉く日向ぼっこをしていて、さながら炮碌(ほうろく)を並べたような趣であるのに先ず失望した。阿久根の鶴はこれに比べると遥に颯爽の風を帯びており、一群の鶴が地を離れて飛翔するところを写し得ていたが、カメラに収められた限り、それは悉く鍋鶴であった。

[やぶちゃん注:「阿久根海岸」鹿児島県阿久根市脇本の脇本海岸のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。後注で出す、鹿児島県出水(いずみ)市の南西直近。

「炮碌(ほうろく)」通常は「炮錄」。戦国時代の水軍が使用した爆弾。硫黄・炭・松脂などを混合した火薬を丸い玉としたもの。炮録玉。現物は私も見たことがないので不詳であるが、恐らくは「焙烙玉」でいいのではないか? グーグル画像検索「焙烙玉をリンクさせておく。

「鍋鶴」ツル属ナベヅル Grus monacha。和名はその体色が鍋底に附いた煤(すす)のように黒い色をしていることに由来する。中華人民共和国東北部・ロシア東南部・モンゴル北西部などで繁殖し、冬季になると日本・朝鮮半島南部・長江下流域へ南下し、越冬する。世界の生息数は凡そ言い一万羽と推定されているが、その九十%近くが、鹿児島県出水(いずみ)市で冬を越す。]

 われわれが鶴というものを知ったのは、上野の動物園が最初である。動物園の門を入ってだらだら下ると、第一に見参するのが一双の鶴だったので、爾来鶴といえば、丹頂白羽玄裳(げんしょう)のものと心得ている。動物園の中を子細に観察するに及んで、鍋鶴とか、姉羽鶴とか、冠鶴とか、いろいろな種類のあることを承知したけれども、第一印象を如何ともすることが出来ない。これまで挙げて来た句の鶴にしろ、その種類は必ずしも同じでないはずなのに、われわれの観念の上では、やはり丹頂先生の姿が髣髴として浮ぶことになるのである。

[やぶちゃん注:「玄裳」黒い模様を添えた衣裳。ツル属タンチョウ Grus japonensis は全身の羽衣は白いが、眼の先から喉及び頸部にかけての羽衣は黒く、頭頂には羽毛がなく、赤(丹)い皮膚が裸出している。

「姉羽鶴」ツル科アネハヅル属アネハヅル Anthropoide virgo。チベット高原などの温帯域で繁殖し、インド亜大陸・北東アフリカ・中東などで越冬するが、日本には稀れに迷鳥として渡来する。ウィキの「アネハヅルによれば、二〇〇七年六月に青森県で県内では三十三年ぶりに渡来が確認されており、『江戸時代にも捕獲され、将軍へ献上された記録があり、絵図が描かれている』とある。これは文政四(一八二一)年六月に尾張で捕獲された個体で、九月に将軍家斉に献上されており、これ以前にも寛文二(一六六二)年に紀伊で捕獲され、やはり幕府に献上されたという記録が残っている(ここは国立国会図書館の「描かれた動物・植物 江戸時代の博物誌の「第三章 珍禽奇獣異魚 | 描かれた動物・植物に拠る)。

「冠鶴」ツル科カンムリヅル亜科カンムリヅル属カンムリヅルBalearica pavonina であるが、本種や近縁種は皆、アフリカ産であって、本邦へは飛来しないから、近代以降の動物園でしか見られぬ以上、本篇の記載としては挙げるに相応しくない。]

 そこで古人の句の中に、動きのとれぬ丹頂の句はあるまいかと思って調べて見たら、五句ばかり見つかった。

 

 薄あかき鶴の頭や秋の霜     吏明

 ほの赤き鶴のかしらや枯薄    五明

 

この二句は殆ど同じ趣である。作者の号まで似ているのは奇であるが、これは時代からいって、吏明に先鞭をつけた功を譲らなければならぬ。ただ両者が蕭条たる風物の中に、期せずして鶴頂の一点紅を見出したのは、俳人らしい観察としてわれわれには興味がある。

 

 鶴の子の額は赤き梢かな     抱一

 

になると、作者が画人だけに、よほど画に近づいて来るが、その代り前の句のような実感は乏しい。この句は鳥の子で春の季になるのであろう。

 

 鶴の友になるてふ紅の頭巾かな  星府

   花美を好む老人の剃髮したるに

 丹頂の頭巾似合はむ霜の鶴    几董

 

 これは二句とも鳥の姿ではない。赤い頭巾を被った老人を丹頂の鶴に見立てたのである。アナトオル・フランスなども赤いキャロットを被っていたというから、その点は存外東西共通するものがあるのかも知れぬが、鶴には千年の齢の外にも、鶴首、鶴髪など老人と因縁の多い文字がある。赤い頭巾の老人を鶴に擬するのは恰好の形容であろう。但(ただし)この場合は痩軀鶴の如しという条件を必要とする。大倉喜八郎のような老人では、如何に鶴彦と名乗ったところで、到底そんな資格はない。

[やぶちゃん注:「アナトオル・フランス」フランスの詩人で小説家アナトール・フランス(Anatole France 一八四四~一九二四年:本名、ジャック・アナトール・フランソワ・ティボー(Jacques Anatole François Thibault))。パリ出身で、アカデミー・フランセーズ(l'Académie française:フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する五つのアカデミーの中でも最古のアカデミー)を務め、ノーベル文学賞受賞者(一九二一年)。芥川龍之介が傾倒していた。

「キャロット」calotte。聖職者が被っている縁なしの御椀型の帽子のこと。

「痩軀鶴の如しという条件」アナトール・フランスに私淑した芥川龍之介なら、ぴったりであるが、彼が赤い帽子を被ることはなかったと記憶する。ああ、芥川龍之介作とされる春本「赤い帽子の女」というのはあるがね。あれは、話にならない、ガセだね。]

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