老媼茶話巻之七 狐
狐
松平陸奧守忠宗の家來奧山勘解由(かげゆ)とて八百貫文【當時知行四ツ成(なり)にして壱萬三千石なり】を領すものゝ祖父奧山出羽とて、武勇の侍あり。忠宗の代、奧州の内、名取郡岩沼に居城しけるが、ある時、鷹野に出(いで)、雲雀(ひばり)に鷹を合せけるに、半天(はんてん)にて是を取(とり)候ひしが、狐の晝寢して居(ゐ)ける所へ取(とつ)て落(おち)たり。彼(かの)狐、つゐに、その鷹を、はみけり。此時、出羽、以(もつて)の外、立腹し、其邊の近里近村の鎭守成(なり)ける竹駒寺の稻荷江常に參詣敬拜いたしけるが、右鷹の義に、腹をすへかね、其日は神前の緣のはな迄、馬を乘入(のりいれ)、
「いかに明神、聞(きき)玉へ。我(わが)領内の地に立(たた)せ玉へば、殊更、崇敬せし事をば、定(さだめ)て神慮に御存知有(ある)べし。然るに、其所(そこ)の領主祕藏する鷹を、明神手下の狐にはませられし事、何事ぞや。自今以後、私領の萬人等が步みを止(やめ)ばやと思へども、夫(それ)も益なく、所詮、神殿修覆等にも相構(あひかまふ)事なく、自然と破(やぶれ)次第にして、年月經て、亡所(ばうしよ)となすべし。此含恨(このふくみうらむ)る所、是か、非か。神慮に有(ある)べし。若(もし)、我(われ)、愚人にてひが事申(まうす)におゐては、忽(たちまち)、神前にして神罰を蒙るべし。」
とて、馬上ながら、高聲にいひ捨(すて)、立歸(たちかへ)る。
時に明神、至極の道理に納受有(をさめうけあり)けん、内々、其儀をこそ申されつらめ、其夜の丑の刻斗(ばかり)に、わたり郡の方角に當り、數千の燒(たい)まつ、見へたり。
かやうの事、終に目馴(めなれ)ざりければ、百姓ども、より合(あひ)、詮議まちまちにて、
「所詮、後難の恐れ有。是非ともに出羽殿家來中迄、申入(まうしいれ)ん。」
と、則(すなはち)、彼(かの)家老松本十左衞門といふものに註進(チウシン)申ければ、松本が曰、
「その燒松、此方へ不參(まゐらず)して、わたりのかたへ行(ゆく)ならば、別義なし。若(もし)、替(かはる)義、有之(これある)におゐては、押(おし)て注進可申(まうすべし)。」
とて、皆、歸しける。
其翌朝、藤羽のわたし船頭より、注進していはく、
「竹駒寺の古松に、いきたる狐の皮をはぎて、さねかづらにて、しばり、有之(これあり)。」由を告來(つげきた)る。
出羽、此由を聞(きき)て、
「如何樣(いかさま)、子細有るべし。」
とて、谷待庄右衞門といふものを見せに遣はしければ、いかにも注進の通りなりしかば、
「夜前(やぜん)の樣子・今朝の次第、いかにも子細可有義(あるべきぎ)。其儀におゐては、明神江湯のはなをさゝげて、その神託を聞(きき)て。」
と、巫(ミコ)を呼(よび)て神前にて熱湯をたぎらかし、笹の葉を以(もつて)身に懸(かか)り、暫時有(あり)て口走りける樣、
「昨日、領主の恨み至極せり。乍去(さりながら)、名婦(みやうぶ)は亘理(ワタリ)の伯母御(オバゴ)の明神より神使の名婦なりしが、野徑(やけい)のそばに晝寢してありし所、領主祕藏の鷹を喰申段(くらひまうすだん)、言語同斷の義也。かの惡名婦を、夜分、召(めし)とらせ、皮を剝(はぎ)、松の生木にくゝり付(つけ)、領主の心を宥(ナダメ)ばやとおもふなり。」
と神託ありて、神はあがらせ玉ひけるとなん。
誠に、凡夫、心(こころ)實(まこと)成(なれ)ば、佛神も又、納受(なふじゆ)有之(これある)なり。
珎敷(めづらしき)事に付(つき)、秀吉公御代、奧方女中に、狐、取付(とりつき)、惱亂させたり。秀吉公、聞召(きこしめ)され、稻荷の社(やしろ)へ御内書を被遺(つかはされ)けると也。
[やぶちゃん注:以下の書付は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]
其方支配之野狐(ヤカン)、秀吉召仕(めしつかひ)の女房に付爲腦(ナヤマセ)候。何之遺恨成(なんのいこんな)ル。其謂候(イハレ)哉。此義、被聞屆可被申越(ききとどけられまうこさあるべく)候。若(もし)無其子細(そのしさいなく)ば、早々、可被引取(ひきとらるべく)候。猶、於延引(えんいんにおいて)は日本國中狐狩(きつねがり)可申(まうすべく)候。委細之義、吉田之神主口上に申含(ふくめまうし)候。恐々不宣。
三月十七日 秀吉在判
稻荷大明神殿
右の内書を、吉田殿、持參有(あり)て、稻荷の寶前に謹(ついつしん)で敬拜し、御内書を内陣へ納(をさめ)て歸られければ、一日、間、有(あり)て、かの女中、平腹有りし也。去(され)ば、右の兩條ともに、神道の正しきを思へば、腥(なまぐさ)き口にて申(まうす)事ならねども、餘り殊勝さに書記(かきしる)し侍りぬ。
[やぶちゃん注:「松平陸奧守忠宗」陸奥仙台藩第二代藩主伊達忠宗(慶長四(一六〇〇)年~万治元(一六五八)年)。伊達政宗の二男で嫡子。仙台藩の地位と基盤固めに務めて大いに功績を残したことから、「守成の名君」と評された。寛永一三(一六三六)年五月に父政宗の死去に伴い、家督を相続している。
「奧山勘解由」不詳であるが、宮城県図書館蔵の資料の一つに、「黒川郡今村奧山勘解由在郷屋敷繪圖」なるものがある。
「當時知行四ツ成(なり)にして壱萬三千石なり」「成にして」がよく判らぬが、四ヶ所を領地と成して、或いは、合算しての謂いか。
「奧山出羽」伊達政宗の重臣の一人に奥山出羽兼清(元亀二(一五七一)年~元和二(一六一六)年)なる人物がいるが、残念ながら、忠宗が藩主になる二十年前に亡くなっているから、「忠宗の代、奧州の内、名取郡岩沼」(現在の宮城県岩沼市。ここ(グーグル・マップ・データ))「に居城しける」とあるのと合わない。
「はみけり」「喰みけり」。
「竹駒寺」宮城県岩沼市桜に同名の寺があり、そこから真西に六百メートル程位置に「竹駒神社」があり、しかもその竹駒神社の東境内外(竹駒寺寄り)には「稲荷町」がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「緣のはな」「緣の端」。
「自今以後、私領の萬人等が步みを止(やめ)ばやと思へども、夫(それ)も益なく、所詮、神殿修覆等にも相構(あひかまふ)事なく、自然と破(やぶれ)次第にして、年月經て、亡所(ばうしよ)となすべし」「夫(それ)も益なく」が意味が判らぬ。領民が崇敬しなくなるだけでは、この私の腹立ちは収まらぬ。されば、ここで私自身、一切の神殿修復等を以後、永年に禁じ、神殿が崩壊し、跡形もなくなるように、積極的に仕向けてやる! という謂いか?
「わたり郡」「亘理郡」。先の岩沼の阿武隈川を挟んだ南対岸。
「目馴(めなれ)ざりければ」今まで見たこともない奇怪な現象であったので。
「松本十左衞門」不詳。
「わたりのかたへ行(ゆく)ならば」亘理郡の方へ遠ざかって行くのであれば。
「若(もし)、替(かはる)義、有之(これある)におゐては」万一、そうでない変わった動き、こちらへ攻めるように向かってくるようなことがあった場合には。
「藤羽のわたし」不詳。阿武隈川河口近くの、岩沼対岸に当るところに、亘理郡亘理町藤倉という地名なら見出せるが、竹駒寺に近いとなると、もっと上流でなくてはおかしい。
船頭より、注進していはく、
「さねかづら」「實葛」或いは「眞葛」とも書く。常緑蔓性木本である、ビアウストロバイレヤ目マツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica。
「湯のはな」この場合は後のシークエンスを見ても、清浄な水を沸かして、それを周囲に花びらを蒔くように振りまき、憑代がそれを浴び、神降ろしの場を作り、神託を受けることを指しているものと推察出来る。則ち、所謂、「くがだち」(盟神探湯:めいしんたんとう:古代からの本邦の神明裁判、是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法で、熱湯の中に素手を入れて「神に盟(ちか)い、湯(ゆ)を探(さぐ)」って、火傷しなければ、それは神がその者の正しいことを証明したとされる儀式)のようなものの変形と考えればよいと私は思う。
「名婦(みやうぶ)」通常は「命婦」。元来は律令制下での女官の称号の一つで、五位以上の位階を有する婦人を「内命婦」、五位以上の官人の妻を「外命婦(げみょうぶ)」と称し、平安中期頃以降からは、中級の官位の女官や中﨟の女房の総称となった。ところが、これが中世になって、稲荷神の使いである狐(きつね)の異名として盛んに用いられるようになったのである。
「亙理(ワタリ)の伯母御(オバゴ)の明神」亘郡にある稲荷神は岩沼の竹駒神社の稲荷神の伯母であったというのである。
「野徑(やけい)」野道。
「秀吉公御代、奧方女中に、狐、取付(とりつき)、惱亂させたり。秀吉公……」以下は、非常に有名な(擬似)妖狐譚である(但し、女中(女房)ではなく、家臣であった宇喜多秀家の妻豪姫(前田利家の四女で、秀吉と寧々の養女として特に秀吉が寵愛された。秀家に嫁いだのは天正一六(一五八八)年で十五歳であった)が病となり、病状がすぐれなかった際に出されたものともされる。孰れにせよ、秀吉の真筆とされているものである)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (四)』の本文及び私の注を参照されたい。そちらを見て戴ければ、以下、ここに注する必要はないと考えている。]

