老媼茶話巻之七 沼澤の怪
沼澤の怪
會津金山谷(かなやまだに)沼澤の沼とて大沼有り。そこの深さはかるべらず。
「此沼に沼御前とて、主(ぬし)、有る。」
と云傳(いひつた)へり。
正德三年五月、金山谷三右衞門といふ獵師、此沼へ曉(あかつき)かけて鴨打(かもうち)にまかりけるに、向ふ岸に、二十斗(はたちばかり)の女、腰より下、ひたり、鐵漿(カネ)つけて居たり。
よくよく見るに、その髮の長さ、弐丈斗(ばかり)有り。
「いかさま、不思義のものよ。」
と思ひ、弐ツ玉、鐵砲込(こめ)、ねらひすまし、打(うつ)に、女の胸板を、後ろへ打(うち)ぬくとひとしく、女、沼へ倒れ入(いり)たり。
女、沼へ沈み、忽(たちまち)、水底、大雷電のごとくに鳴(なり)はためき、水波(すいは)、あらく、岸を洗ひ、雲、くらく成(なり)、さしもの、大沼、虛空にわきあがり、湯玉(ゆだま)飛(とび)ちり、湯煙(ゆけむり)、天地をおゝひ、まつくらになる。
三右衞門、大きに驚(おどろき)、いそぎ、わが家(や)へ逃歸(にげかへ)るとひとしく、大雷・大風・大雨、三日三夜の間、不止(やまず)、金山谷、眞闇に成(なり)たり。
諸人、大きに驚き、
「是、只事にあらず。」
と恐(おそれ)おのゝく。
其後、雨やみて後、三右衞門身の上にも何事なかりし、といへり。
[やぶちゃん注:沼が沸騰する辺りは強烈!
「沼澤」「會津金山谷」現在の福島県大沼郡金山町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)「沼沢沼」も現存が確認出来る。
「正德三年五月」一七一三年の五月下旬から六月下旬相当。
「ひたり」「浸り」。腰から下は沼に浸っていたのである。
「鐵漿(カネ)」お歯黒。
「弐丈斗」六メートル余り。]