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2017/12/26

原民喜作品集「焰」(恣意的正字化版) 淡雪

 

 淡雪

 

 潔が亡(な)くなつてから彼是一年になる。露子は彼から感染(うつ)されて居た病氣がこの頃可也進んで行つた。早くから澄川病院に入院する樣に父母を始めみんな勸めたが、潔のもと居た病院ではあるし、露子は氣が進まなかつた。そんな風に病勢をずるずる引伸して行くうちに、寒に入つて凍てつくやうな日々が續いた。

 ある日、露子は到頭喀血した。血の色を視ると、急に彼女は周章て出した。居ても立つても居られなく、母に縋りついて、さめざめと泣いた。その日、父は早速郊外の松田病院へ出掛けて入院の交渉をして來た。父は珍しく菓子折を提げて歸つた。

「なあに、お前は潔とは違つて、晴やかな人間だ。陽氣な人間なら、この病氣は病氣の方から今に降參して來るよ。」と父は云つたが、さう云ひながらも、彼女が菓子を欲しがらうともしない有樣を見ると、一寸口に出せない別の感じを抱くのであつた。

 

 夜になつてから露子は睡つかれなかつた。今日一日の經過が夢のやうに頭の裡に浮んで來る。これから先の不安と云つては、只住み慣れない病室に行かねばならぬと云ふこと位であつた。それも潔の室で大體想像のつくことであつた。だのに、どうも彼女はこれから大きな船に乘つて出かけて行くやうな氣持がした。ほんとに、船の汽笛がボーと鳴る音を耳にするやうであつた。波がキラキラ輝いてゐる夏の午後、彼女はうつとりと甲板の上に水着の儘寢轉んでゐる、と船と自分とが一心同體になつて水の上を進んで行く。――かうした氣持が暫くしてゐたかと思へば、また今朝ほど吐いた血の色が目に映つた。紅い血の塊りが波の上に浮いて行く。彼女は何時の間にか、自分が吐いた血の色に見惚れてゐるのである。「これはをかしい」と彼女は呟いた。あれ程彼女を驚かせた血塊が、今は美しいと感じられるとはどうしたものだらう。何だか彼女は少女の頃の感傷にかへつて居た。私はどうせ波の上に漾ふ一片の花瓣のやうなものです、さう小聲で祈るやうに胸のなかで囁くと、思はず閉ぢてゐた目に淚が滲んだ。

 朝になる頃、彼女は變な夢をみた。潔が彼女の手を執つて、唇に押しあてるので、彼女は片方の指で自分の唇を示すと、潔は首を振る。「何故?」と尋ねると、「今にわかります。」と潔の聲は慄へてゐる。「何故? 何故?」と彼女は潔に甘えかかつて、到頭彼の首に手を𢌞す、さうして接吻を了つてしまふと、やはり何でもなかつたので彼女は晴やかに笑ひこける、潔も淋しさうに笑ひ出す。

 夢が覺めてから少許はただ爽やかな氣持で居たが、ふと彼女はこの夢が氣になり出した、さうして終にはこの夢が恐しくなつて來た。

 

 露子が松田病院に入院してから一ケ月は經過した。彼女はすつかり瘠せ衰へて、病人らしくなつた顏に、淋しい笑みを浮べるのであつた。入院して却つて惡くなるとは、と見舞に來る人は首を捩つた。醫者もこの問ひに對しては答へやうがなかつた。彼女は醫者の命ずる事なら何でもよく諾(き)いてゐた。病室の空氣にも彼女はすつかり馴れてゐるらしかつた。消毒劑の匂ひも、注射器も、體溫表も、何から何まで以前潔の室で見て識つてゐた通りであつた。

 時とすると、彼女はベツトの上に寢轉びながら、その隣りにもう一つ潔のベツトがあるやうな心地がした。肺病める夫婦、そんな風な想像から彼女は好んで惱しい甘美な感情を味つた。

 ある日も彼女は隣りのベツトに對つてかう呼びかけた。

 ――潔さん、あなたは嘗て私に戀の喜びを與へて下さいました。そして間もなくあなたは私を置き去りにして逝つてしまひました。どうもあなたは態と逝つてしまはれた樣な氣がします。あなたは私が愛(いと)しくなかつたのですか。どうかよくなつて下さいと私が熱心に云つても、あなたはただぼんやりと淋しげに微笑みなされました。私はあなたのその頃の氣持が、何と云つていいのか解りませんでした。ただ、私はあなたを亡くしたことを恨みました。

 しかし、潔さん、この頃私はやつと當時のあなたの氣持が解つて來たのです。潔さん、あなたの病氣が今は私のものとなつた樣に、あなたの氣持も今は私のものとなりました。ええ、あなたは病氣を娯しんでゐらつしやつた。あなたは病氣を弄んでゐられた、あなたは自分の力を信じられないので、ただ熱が出て頭が冴えて來れば、それを面白がつてゐられたのでせう。あなたの淋しい靈魂には、肉體が刻々と蝕まれて行くことが、却つて不思議な美しい誘惑ではなかつたのでせうか。さうして、この誘惑を到頭あなたは私にもお頒ちになりました。ああ、何と云ふ恐しい誘惑でせう。しかも私はもう動けないのです。あなたは優しく、優しく手を伸べて私を抱かうとするのですか。(彼女はぢつと天井を視凝めて居たが、ふと急に怕くなつた。)いいえ、あなたは、あなたは、あなたなんか居はしない。

 さう呟きながら窓の方へ寢返りをした。窓の外には何時の間にか淡雪がちらついてゐた。彼女は嘗て潔の病室を訪れたとき、やはり淡雪が降つてゐたことを憶ひ出した。今日は誰か見舞に來て呉れさうな日だと思はれた。ぢつと、廊下の方の足音に注意しながら、何時までも何時までも窓の雪を視凝めてゐた。彼女は誰がやつて來るだらうかと一心に想像し出した。と、急にドアをひらいて潔が現れて來るやうな氣持がするのであつた。

 

[やぶちゃん注:「澄川病院」「松田病院」孰れも不詳。]

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