進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第八章 自然淘汰(3) 三 高等動物と下等動物
三 高等動物と下等動物
動物には構造の複雜な分業の進んだものもあれば、構造の簡單な分業の進まぬものもあるが、各々生活に必要な作用を行ふといふだけは同一である。餌を食ひ、子を生むといふ點に至つては、複雜な動物も簡單な動物も決して甲乙はない。倂し同じ生活作用を營み、呼吸し、消化し、吸收し、排泄するといつても、分業の行はれた動物と分業の行はれぬ動物とでは、その働の精粗・遲速に大なる相違あるを免れぬ。例へば犬と蛙と蝸牛と蚯蚓とを取つて比較して見るに、光を感ずるために犬・蛙・蝸牛には特別に眼と稱する器官があるが、蚯蚓にはない。倂し夜は穴から出て、日中は地面の下に隱れて居るのを見れば、蚯蚓と雖も決して全く光を感ぜぬ譯ではない。たゞそのための特別の器官がないばかりである。また運動するためには犬・蛙には特別な足が備はつてあるが、蝸牛・蚯蚓には足がなく、たゞ全身を以て運動する。また呼吸するに當つては、犬は肺ばかりを用ゐるが、蛙・蝸牛は肺よりは寧ろ皮膚の方を多く用ゐ、蚯蚓は肺がないからたゞ皮膚ばかりで呼吸する。斯くの如く蚯蚓は身體の壁を以て光をも感じ、運動もなし、また呼吸も營むが、之を犬の如く光を感ずるためには眼を有し、運動するためには足を有し、呼吸するためには肺を有する動物の働き方に比べると、無論遙に遲く、且粗末である。
動物界に於ても人間社會に於けると同じく、分業の行はれる度を以て高等と下等との區別の標準とすることが出來る。身體各部の間に分業が行はれ、組織間に相違が生じて、そのため構造の複雜になつた動物を高等動物と名づけ、分業が行はれぬため構造のまだ簡單な動物を下等動物と名づける。前の例に擧げた四種の動物をこの標準に照らして見れば、最高等は犬で、次は蛙、次は蝸牛、最下等が蚯蚓といはねばならぬ。倂し動物には身體構造の仕組が根本から違ふ類が澤山あるから、世界中の動物を高等から下等へと一列に竝べてしまふことは出來ぬ。何故といふに全く構造の仕組の異なつた動物を比較するのは、恰も時計と望遠鏡とを比ベるやうなもので、到底優劣を定めることの出來ぬ場合も甚だ多いからである。
優勝劣敗と定まつたならば、下等動物は皆亡び失せて高等動物ばかりの世となりさうなものである。分業の進んだものが勝ち、分業の進まぬものが敗けると定まつたならば、終には最も分業の進み、最も構造の複雜な動物が一種だけになつてしまひさうなものであると論ずる人があるかも知れぬが、之は世の中を餘り狹く且簡單に見た誤で、實際は決してさやうなものではない。前にも述べた通り、地球の表面はその處々により各々有樣が違つて、山もあり、野もあり、全く同じ處は殆ど決してない位であるが、その處々に於て生存競爭に勝つたものが生活するから、一種でどこにも同じく適することは到底出來ず、山に適するものは野に適せず、また山に適するといつても山の全部に適するものではなく、山の或る部に適するだけ故、その殘つた位置は他の動物が占め、多數の動物が相混じて生活し、自然界に空隙を餘さず、その平均を保つことになる。それ故、他の事情が全く同一な場合には、分業の少しでも進んだ方が勝つ道理ではあるが、如何に分業が進み、構造の複雜な動物が發達しても、所謂下等動物の生存すべき餘地はその間に十分に存して、決して無くなることはない。恰も風月堂の隣りに駄菓子屋の店があつても、相手が違ふ故、兩方とも相應に賣れて相妨げぬやうなものである。されば自然淘汰の結果、一方に於ては絶えず分業の方向に進むものがあると同時に、また他方には分業の行はれぬ簡單な動物は、それ相當な位置を占めて繁殖して行くことが出來る。
また物每に一利あれば一害あるは免れぬ所で、分業が行はれゝば仕事が巧にはなるが、分業の結果身體各部の協力の必要も進むから、部分が別々に離れ散つては生存が出來ぬといふ不利益がある。蚯蚓の身體には前後各部の間に著しい分業がなく、孰れの部を取るもその部だけの生活に必要な作用を略々一通りは行ふことが出來る故、半分に切られても各片が生きて居るが、犬の如きものにはこの眞似は出來ぬ。それ故同じく負傷した場合には、平均下等動物の方が助かる見込が多い。人間などは頸を打たれても、心臟を打たれても、鐵砲の丸一個で死んでしまふが、海月の如きものになると全身篩の如くに打ち拔かれても平氣である。また大きな宮殿を造るには小屋を二つ建てるに比べると遙に多くの日數が掛かると同じ理窟で、構造の複雜な動物は簡單な動物よりは生長に非常の手間が掛かり、隨つて增加力も多少遲い。生物中で最も增加の速なものは最も簡單な構造を有するもので、黴菌類の如きに至ると僅に半日か一日の間に初め一個あつたものから數億兆になることもある。それ故增加力の競爭では高等動物は平均下等動物には遙に及ばぬ。
[やぶちゃん注:「篩」「ふるひ(ふるい)」。]
斯くの如き次第故、自然界に於ては高等動物と下等動物と相竝んで生活しても必ず高等動物が下等動物を打ち亡ぼすとは限らず、處によつては下等動物でなければ生存の出來ぬことも隨分多いから、下等動物はいつまでも適當な位置を保つて生存し、兩方ともに自然淘汰によつて進化し行くことが出來る。高等動物といひ、下等動物といふのは、單に構造上から見たことで、各々現在生活する境遇に適するといふことには、決して甲乙の差はない。この意味に取れば、高等動物と下等動物との間に優劣を區別することは決して出來ぬ譯である。
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