ブログ1030000アクセス突破記念 時任爺さん 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十二月発行の「別冊文藝春秋」初出。
傍点「ヽ」は太字に代えた。
第二段落の「訳あい」は「訳合(わけあ)い」で「理由・事情・道理」の意。
「ヒネタクアン」は捻ねこびた、やせ細った大根を用いた沢庵のことであろう。
「稲田堤」は神奈川県川崎市多摩区のJR東日本南武線稲田堤駅及び京王電鉄相模原線京王稲田堤駅周辺を指す地域名。町名としては南武線稲田堤駅が所在する菅稲田堤(すげいなだづつみ)が残る。この附近(グーグル・マップ・データ)。梅崎春生の随筆「日記のこと」にも登場する地名である。梅崎春生自身、敗戦の一ヶ月後の昭和二十年九月に上京した際、川崎の稲田登戸の友人の下宿に同居している(現在の神奈川県川崎市多摩区登戸。現在の小田急電鉄小田原線の「向ヶ丘遊園駅」は昭和三〇(一九五五)年四月に改称されるまでは「稲田登戸駅」であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。南武線登戸駅は南武線稲田堤とは二駅しか離れていない)。そうして、かの名作「桜島」(リンク先は私の電子化注PDF版。分割の連載形式のブログ版はこちら)は、まさにこの稲田登戸で書かれたのである(春生の「八年振りに訪ねる――桜島――」を参照のされたい)。
「代用醬油」ウィキの「代用醤油」によれば、『第二次世界大戦前後、日本では物資の不足のため、本来の醤油醸造に必要な原料である大豆や小麦の入手が困難となり、醤油の生産量が低下した。さらに戦後、醤油は配給品となり、流通量が不足することとなった。参議院において』『「加工水産物、蔬菜、味噌、醤油等についてもその配給量を増加し得るような方策を講じ」と、増産と流通統制が提案されているように、食糧不足の中でもさらに重要な問題として扱われていた。しかし普通の醤油は、原料の問題のみならず』、『醸造のために大規模な設備と長期間の醸造期間を必要とし、短期間での増産はできない。そのため代用品として、醤油粕を塩水で戻し、さらに絞ったものを用いたり、魚介類やサツマイモの絞り汁、海草などを原料として用い、カラメルや、前述の醤油粕の絞り汁等で風味を調整したものを用いることがあった』。『これを代用醤油と呼ぶ』。『醤油の味と香りに似せるためには、うまみと香りを得る必要があり、物資不足の際は入手可能な様々なもの』『を原料としている。その際は動植物を問わず生産の原料とされ、研究対象としては、人間の廃毛髪を原料としたものも検討された』とあり、他の多くの記載でも人の髪の毛からの醤油製造は実用化されなかったとし、二〇〇四年に中国国内で人の毛髪で醬油を作っている業者の話がすっぱ抜かれた時も、おぞましい感じで私の友人らはその記事の話していたが、現に私が二十代の頃に理髪して貰っていた理容師は、昭和三十年代の小僧さん時代、店の毛髪を多量に買って行く業者がいたので、「何にするの?」と訊いたら、「醬油を作るんじゃ。」と答えたと私に語って呉れた。日本でも非合法に裏で人の毛髪で醬油は造られていたし、その醬油を知らずに使っていたのだと私は信じて疑わない。その製法は毛屑を十%の塩酸の中に入れて二十四時間ほど煮沸した後、濾過して苛性ソーダで中和させるのだそうである(ウィキの「人毛醤油」に拠る)。そうしてまた、別にそうして作った醬油を私は「おぞましい」とは思わない人間である。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1030000アクセスを突破した記念として公開した。【2017年12月6日 藪野直史】]
時任爺さん
昭和二十一年の四月十日夜、僕は時任(ときとう)爺さんと喧嘩をした。
どういういきさつだったからか、もうはっきりは覚えていないけれど、僕が買ってきた朝鮮濁酒(どぶろく)を二人して飲んでいるうちに、話が戦争の話になり、僕が戦争の悪口をさんざん言っている中に、時任爺さんがしだいに怒り出してきたのだ。どんな気持で怒り出したのかよく判らない。
「戦争に負けてよかっただなんて、あんたそんなことを言ってもいいのかい」
言っていいにも悪いにも、真実そう思っているのだから仕方がない。承服出来る訳あいのものでない。だから僕は前言を取消さず、ますます言いつのる。今思うと、相手は爺さんだから、手加減すればよかったのに、生憎(あいにく)僕の身体には、濁酒の酔いが回り過ぎていた。どうも朝鮮濁酒という飲料は、僕には抑制力を失わせるように働くようだ。
「いいとも。いいとも。言って何が悪いんだい」
「何が悪いって、悪いにきまってるじゃねえか。第一、戦死した何百万という人に、そんなこと言っちゃ済むめえ」
「戦死した人は戦死した人さ。おれたちは生きてるんだよ。生きて酒を飲んでるんだよ。安楽に飲んでるところに、戦死者を引っぱり出すなんて、その方がよっぽど悪いや」
そんなことを言い合っているうちに、時任爺さんの顔がしだいにどす黒くなり、額ににょきにょきと青筋が立ってきた。時任爺さんは生来の癇症(かんしょう)で、戦争前は屋台のスシ屋で、その頃もよくお客と喧嘩をした。爺さんの屋台スシは七箇で十銭で、形は小さかったけれども、小額の金でたくさん食ったような気分になるから、割に繁昌(はんじょう)した。〈時寿司〉という屋号で、僕もその頃お客の一人として、時任爺さんに知り合ったのだ。僕なんかいい顧客だったが、それでもその頃二三慶、爺さんと喧嘩したことがある。その頃から爺さんは立腹すると、顔がどす黒くなり、青筋がもりもりとふくらんだ。怒るのにふさわしい、都合のいい顔だった。
「どうしても取消さねえというのか」
気分を落着けるためか、濁酒を入れた瓶を耳のそばに持って行き、爺さんはことことと振った。僕は答えた。
「そうだよ」
「では、仕方がねえ」
瓶をどすんと畳に戻し、時任爺さんは思い切ったように言った。
「じゃあこの家を出て行って貰おう。おれの家なんだからな。明日にでも出て行って貰おう。そんな不当なことを言うやつに、部星は貸して置けねえ」
僕は黙っていた。すると爺さんはたたみかけた。
「明日だぞ。明日、とっとと出て行って呉れ」
そのままふらふらと立ち上って、自分の部屋に戻って行った。自分の部屋と言っても、三つしか部畳がない掘建小屋で、唐紙(からかみ)や障子も破れたりへし折れたりしているから、全体がひとつの部屋と言っていい。その玄関に当る部屋を数箇月前、僕は時任爺さんから借り受けたのだ。ちゃんと間代は払ってある。爺さんは戦時中に婆さんと死に別れ、息子が一人いるが、これがだらしない息子で、横浜の方の会社に勤めていて、当時で月給を六百円以上取っていたが、給料を貰ったとたんに進駐軍のチョコレートを二百円も買い込み、一晩で食べてしまったりして、ろくに爺さんに金を入れない。だから爺さんとしては、僕の払う毎月の部足代を、大いにあてにしているのだ。
そこで僕も面白くなくなり、どたんばたんと蒲団をしいて眠った。
翌朝、時任爺さんが僕の蒲団のそばに立ちはだかり、足で僕を揺り起した。
「今日だぞ。今日、とっとと出て行くんだぞ」
「判ってるよ」
僕もむっとしてはね起きた。他人を足で起すなんて、言語道断のやり方だ。見ると爺さんはまだ青筋を立てている。戦争前のスシ屋時代は、怒っても三十分も経(た)つと元の顔になったもんだが、一晩越しても青筋がとれないなんて、年齢のせいで身体や気持がこちこちにこわばっているのだろう。
「手続きを済ませて、とっとと出て行くよ」
時計を見ると九時だ。外に出て小川で顔を洗い、それから外に飛び出した。飯なんか食っている暇はない。町会、営団、煙草屋など回った。下駄の鼻緒ががくがくしてきたので、煙草屋で鼻緒を買った。十一円五十銭だ。それからとっとっと登戸の駅前に来ると、地べたにむしろを拡げて、いろんな露天商が店を出していた。その一つ一つを横目で見ながら歩いていると、下駄売りがいて、それが時任爺さんぐらいの年頃の老人で、水洟(みずばな)をすすり上げながら、ええ安い下駄、ええ、途方もなく安い下駄、と調子をとって歌っていた。
見ると安い方の下駄が八円で、高い方のが十円だったので、僕はもうむらむらとして、ポケットの鼻緒をにぎりしめた。ちょっと見た感じでも、僕が買った鼻緒と、八円のやつの鼻緒と、品質はほとんどかわりがなかったからだ。鼻緒だけで十一円五十銭だというのに、こっちの方は八円で、しかも台までついている。
それで気分をこわしたから、更に足早になって、とっとっと家に戻ってきた。家に戻ったとたんに、下駄の鼻緒がぷっつり切れた。
「ちくしょうめ」
声には出さないが、そんな気持で玄関に飛び上り、せっせと荷造りを始めた。
荷造りはまたたく間に済んだ。僕の荷物というのは、蒲団だけだったからだ。復員して来て、蒲団だけ持って上京、電車の中でぱったりと時任爺さんと再会、そして誘われるまま爺さんの家にころがり込んだのだから、それも当然だ。
もっともこの数箇月で、生活のかすみたいながらくた道具がたまったが、それはさっぱり燃すことにきめた。がらくたなんて手足まといだ。いくら物がない時でも、物に執着するようでは、強く生きて行ける筈がない。
僕は玄関の上り框(がまち)に腰をおろし、おもむろに下駄の鼻緒をすげ替え始めた。あのいまいましい鼻緒でだ。上り框の下には、俵にくるんでさつま芋が一貫目あまりころがっている。一週間ほど前、買出しに行ってきたその残りだ。それを見た時、やっと空腹が僕にやってきて、腹の虫がググウと啼(な)いた。
「おおい。爺さん」
僕は首を奥にふり向けて呼びかけた。
「爺さんは朝飯を食ったかね?」
返事はなかった。いないわけではない。唐紙や障子は破れたりへし折れたりしているから、部屋の真中に向うむきになって、うずくまっている時任爺さんの姿が見える。この爺さんが朝飯を食ったかどうか、わざわざ訊(たず)ねてみないでも僕には判っているのだ。同じ家に住んでいるから、そんなことぐらい直ぐ判る。昨夜濁酒を飲み始めた頃、明日芋の買出しに行こうと向うから持ちかけたのだから、爺さんの食糧の手持は底をついたにきまっている。
「ここに芋がすこし残ってるから、お別れのしるしに、一緒に食べないか」
「いやだ」
声が戻ってきた。
「食うんなら、お前だけで食え!」
「だって爺さんは、朝から何も食ってないんだろ」
「食っても食わなくても、余計なお世話だ」
「おいしいよう、焼芋」
僕はわざと声を大きくしながら、芋を俵ごとごそごそと引きずり出した。
「お庭で焼いて食うんだよ。爺さんも一緒に食えよ」
「まっぴらごめんだ」
針金のような声が飛んできた。まだ額に青筋を立てているにちがいない。
僕は芋俵を庭に運び、更にがらくたをえっさえっさと庭に運び出した。庭というのは、爺さんの部屋の前にあるのだ。がらくたを底に置き、芋俵をその上に乗せて、マッチで火をつけた。儀一枚では足りそうになかったので、そこらをかけ回って空俵二枚を探し出し、火にたてかけた。
火は景気よく、面白いようにぽんぽん燃えた。芋が焼けてくるらしく、焼芋のにおいが立ち始めた。
すると破れ障子をひらいて、たまりかねたように時任爺さんがのそのそと姿をあらわした。丼を手に持っている。縁側に大あぐらをかいた。丼を膝の上に置き、指でつまんで、小量ずつをむしゃむしゃと食い始めた。
その丼の中に何が入っているか、わざわざのぞかないでも、僕には判っている。ヒネタクアンと土筆(つくし)の煮付けだ。ヒネタクアンは稲田堤の百姓からゆずって貰ったもの、土筆は多摩川べりから摘んできて、それを代用醬油で煮付けたものだ。あんなもの、いくらむしゃむしゃ食べたって、腹の足しになるわけがない。足しになるわけがないと言っても、芋のにおいに刺戟されれば、それでもつまむ他はないのだろう。
天気がおそろしく良かった。まるで天の底が抜けたように、雲が一片も見えないし、風もそよとも吹かなかった。がらくたと俵は勢いよくぼうぼうと燃え、煙はまっすぐ一筋に空に上り、やがて燃えつきて下火になってきた。がらくたは燠(おき)になり、俵はそのままの形で灰になった。灰になっても、風がないから、俵の形はくずれない。
僕は縁側に、時任爺さんのすぐ前に新聞紙をしいた。台所から竹箸(たけばし)を探し出し、燠の中から焼芋を一箇ずつつまみ出し、縁側にかけ寄っては、一つ一つ新聞紙の上に並べた。数えて見ると、拳固ぐらいの大きさのが、一ダースあった。一ダースの芋はこんがり焼け、ほやほやと旨そうな湯気を立てていた。僕は縁側に斜めに腰をおろし、時任爺さんの顔を見た。
「爺さん。食べろよ」
「いやだ」
土筆をつまみ、口に放り込み、不味そうににちゃにちゃと嚙んでいる。額にはまだ青筋を立てている。見るまいと思っても、どうしても視線が焼芋の方に行くらしく、爺さんの表情は苦しそうだった。
「そんなに強情を張らないで、食べたらいいじゃないか。あんまり腹をへらすと、身体に毒だよ」
「余計なお世話だ。おれは食いたい時、おれのものを食う。お前のものは、お前が食え」
「おれも食うよ。しかしここに、こんなにあるんだから――」
「こんなにある? たったそれっぽっち」
時任爺さんはおそろしく軽蔑したような口をきいた。
「それっぽっち、一人で食えねえのか。若いもんが何というざまだ」
「なに」
僕もいささか腹を立てた。
「食えるよ。折角(せっかく)半分食わせてやろうと言うのに、食わないんなら、おれひとりで食っちまうぞ」
「ああ食いな。ぞんぶん食いな。おれがここで見ててやるからよ」
僕は憤然と芋の一箇をつまみ上げた。口に持って行った。一ダース全部を食う自信はなかったが、もうこうなれば、食い尽さなければいけなくなった。僕は縁側に飛び上って、時任爺さんと向い合って大あぐらをかいた。土筆の煮付けを嚙む爺さんの顔を、真正面に眺めながら、むしゃむしゃと僕は焼芋を嚙んだ。
三つ目ぐらいから、僕はしだいにかなしくなってきたが、それに負けないために眼を大きく見張り、意地になって芋を食い続けた。
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