ブログ1040000アクセス突破記念 阪東医師 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年八月号『新潮』初出。既刊本未収録作。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻を用いた。
本篇は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1040000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年12月26日藪野直史】]
阪東医師
僕はたいへん身体が弱かった。
小学校の通信簿の、甲乙丙を書き込む欄の外に、その学期の学課、操行、出席という欄があって、それぞれの成績が良ければ、ホタル型の印を先生がべたりと押して呉れる。僕の通信簿においては、その「出席」の欄は、いつも空白だった。ホタル印が押してあるためしがなかった。つまり僕は、ただひとつの学期でも、皆勤ということを一度もしなかったことになる。もちろんその欠席も、ズル休みではなく、ほんものの病気休みだった。ズル休みなんか、僕に出来るわけがない。うちにはとても厳しいお婆さんがいて、ズル休みなどをしようもんなら、鉄火箸でもって尻をぴしぴし打たれるにきまっていた。
そんな具合に僕は、しょっちゅうと言っていい程、次から次へ病気にかかっていた。風邪ひきや腹痛などの初歩的なやつから、扁桃腺や気管支カタル、盲腸炎や腎臓炎などの中級的高級的なもの。ボウコウ炎なんて言う妙なのにもかかったことがある。これは結石で、石が二つ三つ出た。何だか知らないが、顔じゅうがカサブタだらけになって、お天気の日にも洋傘をさし、お母さんにつれられて病院通いをしたこともある。人目を忍ぶという気分を、僕はその時生れて初めて味わった。その期間中、お母さんはしょっちゅう僕に言い聞かせた。
「痺(かゆ)いからと言って、かいてはだめだよ。あとになって残るよ」
あの病気は、一体何だったんだろう。言いつけをよく守ったおかげで、その痕跡は今の僕の顔には残っていないのだが。
病気にかかると、お医者さんが来る。
うちのかかりつけは、阪東先生と言って、うちから三町ばかり離れた小さな医院だった。古ぼけた建物で、黄昏(たそがれ)時になるとその『阪東医院』と書いた軒燈に、蝙蝠(こうもり)が二三匹ひらひらと飛んでいたりした。
その頃阪東先生は何歳ぐらいだったか、僕にはよく判らなかった。大人(おとな)は大人と言うだけで、その年齢がいくつぐらいか、僕たち子供らにはあまり興味のないことなのだ。三十であろうと、五十であろうと、大人は大人にかわりはない。爺さんは別だ。阪東先生はとにかく爺さんではなかったようだ。すこし猫背の、顔色はあまりよくない、低い声でものを言う先生だった。僕が寝ている部屋に入って来る時でも、猫のような歩き方で、足音をほとんど立てない。しかし足音がしなくても、先生が来たなということが、寝ている僕にはすぐに判った。先生には先生のにおいがあったからだ。あの薬局に入った時と同じにおいが、先生の身体や洋服にしみついていた。
夜中に僕が病気になって、先生がやって来る時には、別のにおいがした。それは酒屋の前を通る時と同じにおいだった。先生が低い声でものを言うたびに、お酒のにおいが僕の鼻のあたりにただよった。昼間の阪東先生は、なにか孤独で淋しそうだったけれども、夜の先生はそうでもなかった。僕は昼間の阪東先生の方が好きだった。たとえば腹痛なんかの時、昼間の先生だったら遠慮がちに、痛む箇所をやわやわと押えるが、夜の先生はいくらか乱暴だったからだ。
しかし、お医者さんのやり方は、どうしてあんなに千編一律なんだろう。脈を見る。舌を出させる。検温器をはさむ。聴診器で胸のあちこち、つづいて身体を裏返して背中のあちこち。打診がやはり裏表。下痢の時でも、頭痛の時でも、おできの時でも、この行事に変りはない。よくお医者さんはあれで退屈しないものだと思う。病人の僕の方がもう退屈していると言うのに。
診察が終ると、先生は病名を低い声で告げる。時にはそのあとでつけ加える。
「もっと栄養をとるように。ふだんの栄養が大切ですぞ。では後ほど、お薬をとりに来て下さい」
小さな紙にさらさらと処方をしたためて、封をする。それを枕もとに置いて、音もなく立ち上る。猫のように病室を出て行く。出て行ったあとでも、先生のにおいはしばらくそこらに残っている。
お薬はたいていの場合、散薬と水薬の二つにきまっていた。どちらも僕の舌には不味く、のみにくかった。それをのませるのがお婆さんの役目になっていた。
「そら。ミツグスリの時間だよ。早くのみなさい」
僕のお婆さんは水薬のことを、ミツグスリと発音した。お婆さんの生れた地方、育った地方では、ズとヅの発音をはっきりと区別していて、だからミヅグスリと発音するのだそうだが、僕の耳にはミツグスリとしか聞えないのだ。ミツグスリは蜜薬のように響いて、とても甘そうに感じられるが、実際のんでみると全然甘くなく、ひどくにがかったり、いやなにおいがするのが常だった。はき出したくても、お婆さんがにらみつけているから、はき出すわけには行かない。
「そのミツグスリはよく効くんだよ。それをのんで、早く直って、肥りなさい」
お婆さんの言葉は、正確にはこうでなくて、もっとひどく訛(なま)っているのだが、そのお婆さんの言い方を、今の僕は再現出来ない。
僕はいつも瘦せていた。かまきりみたいに瘦せていた。かけっこは一番ビリだったし、体操の時間がもっともにが手だった。皆が飛びついてぶら下る平行棒に、僕だけが飛びつけず、小野道風の蛙みたいに、何度も何度も飛び上っていたりした。体操の時間になると、僕の自尊心はささらのようにささくれて、当分は元に戻らなかった。
僕の栄養不良の原因は、僕の食生活に因していたと思う。その頃のうちの食生活はお婆さんが中心で、うちのお父さんやお母さんはたいへん親孝行、姑孝行だったのだろう。一家そろって脂肪やタンパク質の乏しい老人食をとっていた。
朝は茶粥(ちゃがゆ)、やわらかな茶粥で、味噌汁はつかない。お婆さんの出生地のしきたりで、だからうちでもそれが守られているわけだ。おかずはタカ菜の古漬。うちのタカ菜の古漬はうまいと、来る客々がほめるのだが、お世辞にちがいないと僕は心に決めていた。あんなへんなにおいのする漬物が、うまくってたまるものか。
昼が問題だった。僕の通っていた小学校は妙な小学校で、級友同士でおかずを牽制し合う。つまり倹約する方にだ。先生もそれを黙認、あるいは奨励しているような気配すらあった。ドンが鳴って授業が終る。弁当の時間になる。弁当の蓋(ふた)を取りながら、周囲の友達の弁当に横眼を使う。ふり返る。あるいは立って見に行く。
「今日はあいつのはカマボコだ。ゼイタクだ」
「ゼイタクだぞ」
「ゼイタクだぞ」
ゼイタクだとはやされた男は、恥辱で顔がまっかになり、蓋でかくすようにして、こそこそと弁当を食べる。カマボコがゼイタクと目されるくらいだから、余は推して知るべしで、大休標準のおかずは梅干一箇、またはタクアンの二三片、ということになっていた。僕だってゼイタクゼイタクと、皆からはやし立てられるのはいやなので、朝おかずの点検して、それがゼイタクおかずだったら、必死になってお母さんにだだをこねる。
「へんな子だねえ。この子は」
お母さんは呆れて言う。
「梅干なんかより、これの方がおいしいんだよ。それに栄養もあるし」
しかし、僕が頑としてうまさと栄養を拒否するので、お母さんも渋々梅干かタクアンに取り換える。
夜は夜で、淡味な老人食。お魚はあまり脂肪のない白身を、焼いたり煮たり。肉であることもまれにはあったが、子供の時の僕の町の肉は、固くて固くて嚙み切れなかった。だから僕たちは、肉というものは固いものと決めていた。嚙み切れなくて、最後にははき出すものと決めていた。牛肉も豚肉も鶏肉も、おしなべて固かった。僕らの丈夫な歯でも固かったのだから、お婆さんにとっては、もっともっと固かったに違いない。肉類がうちの食膳にあまり姿をあらわさなかったのは、そのせいだろう。
僕らの町の肉屋が売っていたのは、田圃でこきつかった揚句の牛や、卵を産まなくなった老鶏の肉だったと今にして思う。それでなければあんなに固かった筈がない。
トーガン。僕はこの植物が大嫌いだった。ところが因果なことに、お婆さんがこれを大好きだった。お婆さんが好む食物は、おおむね僕の嫌いなものだった。カボチャ。ニンジン。ネギ。ネギの青い部分を、醤油でべちゃべちゃ煮たのなど、僕は見るだけで食欲を喪失した。
あまりたびたび病気をするものだから、阪東先生は僕の身休のからくり、傾向、その他のすべてを知り尽していたと思う。カメラだって、自分の物にして、長いこと使用していれば、くせが全部わかって来る。それと同じような具合にだ。
ところが一度だけ、阪東先生にも理解し難い症状が、僕の身体におこったことがある。
それは先ず風邪ひきのような恰好だった。水洟(みずばな)やせきが出て、それから熱が出た。二三日そういう症状が続いた。阪東先生は毎日々々、午後になるとやって来た。型通りの診察をして、水薬と散薬を呉れる。いつもの風邪ならば、三日も経てばなおるのに、この時は熱がすこしも下らなかった。咽喉(のど)のへんが重苦しくて、ぼったりふくれて来るような気がする。実際にふくれていたのだ。
四日目、僕の脇の下から検温器を引っこ抜き、阪東先生は首をかたむけて目盛りを読んだ。それから少し青いような眼付きになって僕を見おろし、聴診器をごそごそと鞄から振り出した。いつもより丁寧に、時間をかけて、僕の身体を診察した。道具を全部鞄にしまうと、手を伸ばして僕の咽喉に触れた。そこらをごろごろとまさぐった。
「痛いか?」
「痛くはない。重苦しい」
すると阪東先生は手を放し、しばらく宙をにらんでいたが、やがてさらさらと処方箋を書きつけ、つきそっていたお婆さんに渡しながら言った。
「薬をかえて見ましょう」
薬がかわったけれども、熱は下らなかった。水洟やせきは治まったが、熱だけはむしろじりじりと上昇して行く傾向があった。それと同時に、咽喉全体がぼたぼたと腫(は)れ上って来た。
どうして腫れて来るのか、もちろん僕には判らなかったし、お父さんやお母さんにも判らなかったが、阪東先生自身にも全く見当がつかなかったらしい。先生の診察態度には一層の真剣味と共に、一層の困惑ぶりが加わって来たようだった。腫れた僕の咽喉をさわる時、先生の指はぶるぶるとふるえた。おろおろ声で先生は訊ねる。
「痛いか?」
「痛くはない」
僕は熱にあえぎながら答える。
「なんだか重苦しい」
咽喉の腫れは増大する一方だった。来るたびに期待を裏切って増大するものだから、先生の態度は目立って自信がなくなり、また信じがたい怪物を見るような眼付きで、僕の咽喉をにらみつけたりした。そういうにらみ方をされると、僕は一層胸苦しくなり、また泣き出したいような気持になった。死ぬのかも知れないな、と考えた。
ついに一遇間目に僕の咽喉は、顎(あご)と同じ高さになった。あおむけに寝ていると、顎から段落がなくのっぺらぼうに咽喉となり、そのまま胸につづいている形となった。毎日氷で冷やしているので、咽喉には感覚がなく、ぼったりと無限に重い感じだけがあった。変形した僕の咽喉を、お父さんはいたましげに眺めていたが、しばらくしてお母さんを呼び寄せて言った。
「これはただごとでない。大学の先生にいっぺん診て貰おう」
それをどういう具合に阪東先生に話したのか、僕は居合わせなかったから知らない。とにかく立合診察ということになった。
大学教授は人力車に乗ってやって来た。八字髭(ひげ)を生やして、鷲(わし)のような眼を持った瘦せたひとだった。時刻は夕方だったので、僕の寝ている部屋は薄暗かった。入って来るなり教授は重々しい声で言った。
「電燈をつけなさい」
一時間ほど前からきちんと坐って待っていた阪東先生は、バネがかかったようにぴょんと立ち上り、電燈のスイッチをひねった。
その阪東先生に眼もくれず、教授は僕の蒲団を引き剝(は)ぎ、非常にかんたんな診察をした。最後に僕の咽喉をさわりながら、怒鳴るように言った。
「すぐ入院だ。すぐ手術しなければ、生命にかかわる!」
そして教授はぐいと阪東先生をにらみつけた。
「今までどんな治療をしたのか。生命というものは、大切なものだぞ。これまでどうして放っといた?」
「はい」
阪東先生は肩をすくめて、ひと回り小さくなった。口をもごもごと動かしただけで、はっきりした説明はしなかった。教授は今度はつけつけした声でお母さんに言った。
「早く入院の用意をしなさい。放っといたら、大変なことになりますぞ」
お母さんは顔色をかえて、僕を病院に運ぶための人力車を呼びに行った。教授はすっくと立ち上ると、足音を立てて部屋を出て行った。教授が僕の部屋にいたのは、五分間ぐらいだったと思う。
阪東先生はひと回り小さくなった姿勢のまま、じっとしていた。じっと畳をにらんでいた。やがて人力車が来て、僕が運び出される時も、そのままの姿勢で動かなかった。陶器か金物のように動かなかった。よほど口惜しかったんだろうと思う。